おばさんは正しく清太がクズ?『火垂るの墓』で定番の論争(身の上語りも)
〔2025/8/16筆 17修正〕
“西宮※のおばさん論争”なるものがあるそうで。
昨日Xでトレンドに入っていたのをたまたま見て遅ればせながら知りました。
※筆者は関西の地名に弱く最初「西成」と書いていました。すみません
---この記事にはネタバレがあります---
これはアニメ映画『火垂るの墓』の話。
空襲で親を亡くした清太と節子を引き取るが、食事を減らしたり嫌味を言うなど清太たちに冷たく当たる親戚“西宮のおばさん”。
たいていの人がこのアニメを初めて観る子供の頃には意地悪なおばさんが嫌いなのに、大人になってから観ると「彼女はそんなに悪くない」「正しい」と思い始めるのだとか。
むしろ些細な不満に耐えられず節子を連れて親戚の家を出て行き、 大人の助けを拒み続けた結果として幼い妹を死なせてしまった清太のほうが悪いと感じるようになるらしい。
初見でおばさんは悪くないと思った。少々身の上ばなし
確かに私も親戚のおばさんはそれほど悪人ではないと感じていたかな? 初見の頃から。
初見が清太と同じくらいの年(中学生)だったせいもありますし、私自身が当時ではあり得ないほど貧しい身の上だったために「自分ならどうするか」をリアルに考えられたからでもあるでしょうか。
私も母子家庭で、母を失えば即・行き場をなくし弟と二人で餓死する可能性もありました。※
そのうえ出身は名家のインテリ家系、 家事など“体を動かして働く”という習慣を身に着けられなかった環境育ち。だから未だに必要に応じてスパッと立ち上がり働くなど、体を動かす系の労働が苦手。
こんな家庭環境も清太と近いものがあったので、時代に関係なく彼の境遇に共感することができたのだと思います。
※母子家庭で困窮していましたが名家の出という理由で一切の社会的支援を受けられませんでした(役所窓口で手当等の申請を拒否された。実話)。おそらく母が死亡していたとしても私と弟は放置されたでしょう
当時「今母を失い、自分や弟が親戚に引き取られたら煙たがられ冷たく当たられるだろう」ということは実感で分かっていました。
豊かな日本であっても親戚の家に住み、食べ物をいただくということは迷惑をかけること。まして食糧に困窮していた戦争中ではなおさら迷惑をかけるでしょう。
食事で家族を優先するのは当たり前、手伝いもせず遊んでばかりでは嫌みの一つも言われて当たり前。…等々
そういったことが子供ながらに分かっていましたね。
子供であっても大人に甘えていい範囲と、超えれば“我がまま”となってしまうラインは分かるものです。
だから暴力を振るわれたわけでもなく食事を与えられなかったわけでもないのに、少し嫌味を言われたくらいで親戚の家を出て行く清太に疑問を感じていました。
決して「清太が悪い」と責める気持ちを抱いたわけではありませんが、あの破滅的な行動はないなと。
せめて幼い節子は残して生かしてあげて欲しかったと思いました。
結論、生きられるチャンスがあったのに自ら破滅に向かった少年の悲しい物語というのが『火垂るの墓』の初見での感想で、以降何度見ても感想は変わりません。
「戦争が悪い」の浅はかな感想でインテリぶる人々
このように中学生当時の私は豊かさ極まる日本にありながら、『火垂るの墓』を見て清太の身の上に自分を重ね、その境遇を我がこととして味わいました。
私が当時としては特殊な育ちだったからなのかもしれません。
しかし程度の差こそあれ、作品の登場人物に自己を投影させて疑似体験し感情移入する、しようと努めるのがフィクションの味わい方ではなかったでしょうか?
それなのに最近では『火垂るの墓』にただ「戦争が悪い」 というだけの評価が上がるようになりました。
まるで自分とは関係がない異次元を観察して評価しているだけのような。
いい大人がしたり顔で「おばさんも清太も悪くない、ぜんぶ戦争が悪いのだ!」と真実を突き付けてやったかのような感想を投稿して誇るのは恥ずかしくないのでしょうか。
しかも誰かの言葉、どこかの新聞(たぶん赤い)からの転用だと丸分かりです。
他人の言葉を拝借して語ることがカッコイイと思っているのでしょうが、せめてアニメの感想くらい自分の言葉で述べるべき。
これなら「節子が可哀想で泣いちゃった」だけの感想のほうが遙かに良いですよ。
『火垂るの墓』は単に戦争の悲惨さを描いた反戦を目的とする政治映画ではないと私は感じます。
戦争はあくまでも作品の時代背景に過ぎず、もっと広範な時代を超えたテーマがあるのではないでしょうか。
〔高畑勲氏の政治思想について〕高畑勲氏は宮崎駿氏と同じく左翼なので創作も政治目的と受け取られがちですが、私は高畑氏の作品にはあまり“左翼臭”を感じません。彼は共産党員だったのにどういうわけか作品からは共産主義とは逆の家族愛、絆、人間らしさなどを感じる。だから名作アニメや初期のジブリ作品は好きになれたように思います。むしろ高畑氏が退き、宮崎氏の独裁となってから左翼臭が酷くなりますね。春樹っている。
なんと清太のモデルはバブル期の中学生だった
このように長年思っていて、「『火垂るの墓』反戦アニメ扱い」の感想にモヤモヤしていたのですが。
こちらの記事で高畑氏本人の発言を見つけようやく答え合わせができました。
【外部リンク】 『火垂るの墓』“西宮のおばさん”は正しかったのか? 高畑監督が危惧した「おそろしい」未来
高畑監督は、バブル経済真っ盛りだった時代に『火垂るの墓』を制作しようとした理由として、1987年の記者発表用資料で次のように語っています。
「もしいま、突然戦争がはじまり、日本が戦火に見舞われたら、両親を失った子供たちはどう生きるのだろうか。大人たちは他人の子供たちにどう接するのだろうか」
つまり、『火垂るの墓』は、現代の若者のような少年が戦争に巻き込まれたらどうなってしまうのかを描いた作品だということです。家族との絆も、近隣との交流も、助け合いの精神もなくなり、かろうじて社会的な保護のなかで生きている現代の人びとを、戦争のような災禍が襲ったらどうなるのか。それを高畑監督は考えていました。
「戦争でなくてもいい、もし大災害が襲いかかり、相互扶助や協調に人を向かわせる理念もないまま、この社会的なタガが外れてしまったら、裸同然の人間関係のなかで終戦直後以上に人は人に対し狼となるにちがいない」(記者用発表資料より)
なんと清太のモデルは戦時中の子供ではなくて「バブル期の中学生」。
つまりまさに我々世代の少年たちだったのでした。
初見で私が清太へ厳しい目を向けてしまったのは、むしろ私が“今どきの子供”ではあり得ない貧しい環境で育ったために彼の甘さに気付いたから。
そして現代、 「清太がクズ」という声が上がるようになったのは日本があの頃より貧しくなって厳しい環境で育った若者が増えたからでは? (少し正常化したのだとも言える)
また高畑氏はこの映画で戦争に限らず災害なども含めて広い意味で
「人間関係の希薄さ」
への危機感を描いたということでした。
メッセージとして織り込まれたのは反戦などではなく、この“絆が失われていく”社会への警鐘です。
これはまるで左翼思想とは真逆なメッセージだと思いますね。
その“絆”を否定し、人間関係の希薄な全体主義社会を目指すのが左翼思想でしょう。現に教育・文学・映像・学術の世界へ広く浸透した左翼たちが「人間関係の希薄」な社会を形作ってきたのですから。
ちなみに清太のモデルとなった子供たちを育てたのも暴力革命に夢中となった団塊世代です。
何故か左翼でありながらそんな現状に抗い、温かな人間味のある世界を目指そうとした高畑作品がやはり私は嫌いになれません。
『天空の城ラピュタ』(宮崎駿監督ですが高畑氏の影響力も強い頃)の主題歌『君をのせて』 が私はとても好きで、聴くたび胸が熱くなり涙が浮かんでしまいます。これは愛しさと絆しか感じられない歌詞でしょう。
あの地平線 輝くのは
どこかに君をかくしているから
たくさんの灯が なつかしいのは
あのどれか一つに君がいるから
…
父さんが残した 熱い想い
母さんがくれた あのまなざし
こんなの左翼界隈で歌ったら保守的だとして殴られるのではないでしょうか? とにかく「絆」も「愛」も全否定の世界で生きてますからね彼ら。
“狼”の世界を作ろうとしてきたのは誰なのでしょうか?
“全体主義”へ導いているのは誰なのでしょうか?
高畑氏も気付かないうちに反転されていた価値観を考え直す時が来たようです。
「もし再び時代が逆転したとしたら、果して私たちは、いま清太に持てるような心情を保ち続けられるでしょうか。全体主義に押し流されないで済むのでしょうか。清太になるどころか、未亡人以上に清太を指弾することにならないでしょうか、ぼくはおそろしい気がします」(『アニメージュ』同前)
おそろしいのはもしかしたら清太のほうだったかも。
と言うか清太を生んだ社会、清太が当たり前になってしまった「心ない社会」ですかね。
意外に思われるでしょうが“全体主義”を推し進めるのは清太のように絆をないがしろにする、身勝手な少年たちです。(でした。過去の歴史を眺めれば分かります)
この映画で清太はあくまでも節子との絆を護り抜き、悲劇の結末を迎えたとは言え美しい兄弟愛を貫きます。ここが救いなのであり、高畑作品の素晴らしさです。
けれども現実は――原作者の野坂昭如氏の体験では兄弟愛の欠片も持たず、妹を放置して餓死させてしまったらしい。しかも幼い妹を脳震盪を起こすまで殴ったり、食べ物を奪ったりしたという。憤りを覚えるDV野郎です。さらに長生きした本人は後年、妹を亡くしたことを後悔しているとアピールし小説にして稼いでいる。
アニメの清太は無知で愚かなだけでクズとまでは言えませんが、裏に隠れた原作者は確かにクズの極みでした。
しかも現実の養母は優しく親切だったという。これもまた正反対。
大人になったならば『火垂るの墓』の裏側のこんな苦い現実も知るべきです。
そして「戦争が悪い」だけの自虐史観ポルノから卒業する道を探ってみては。
あなたの人生が愚かな清太のまま終わりませんように。
追記:海外では「おばさん正当」派が多い
こちらの記事も興味深い話でした。
【外部リンク】火垂るの墓のおばさんの海外の反応
海外では「おばさんの対応は合理的で正当」という意見が多数だとか。
こんなところにも厳しい現実を生きている外国の人々と甘やかされて育った清太集団・日本人との違いが表れている気がします。「日本人ファースト」と言っただけで「差別だ―ッ」との感情的批判が叫ばれるのは、幼稚で未熟な社会の証でしょう。
どこの国でも自国の民を豊かにするのが先決。そうしなければ他国の人を援助することもできません。
また国のキャパを超えて過剰に移民を増やす状態は普通に「侵略されている」と呼びます。言葉遊びで幻想に閉じこもるのではなく現実を客観視して認めるべきです。
海外の方の感想、
「タカハタは、戦争で真に失われるものは生命ではなく、汚れなき魂だと訴えているのだ。」
これも言い得て妙ですね。
実際に日本で“穢れなき魂”が失われたのは戦時中ではなく、まさに高畑監督がモデルとした“現代”――平和で豊かになった代わりに伝統文化破壊の進んだ日本でした。
戦争よりも悲惨なのは心なきイデオロギーによる文化破壊、精神喪失です。
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