近況と雑談です。
この夏休みブログの引っ越しで忙殺されたため忘れていましたが、私もまた一つ年を取りました。
メールにてお祝いをくださった方、ありがとうございます。
ところで私の誕生日とは関係ないのだけど、今月前半、旧Twitter(x)のトレンド十位内に「諸葛孔明」と上がっていてドキリとしました。現代のトレンドに上がるとは複雑。
何かまた精神を踏みにじられる中傷でなければいいが…、と警戒しながら開いたところ可愛いフィギュアの画像が。
◥◣ 商品化決定 ◢◤
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ねんどろいど
キャスター/諸葛孔明
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彩色原型初公開です!
https://x.com/gsc_kahotan/status/1819516550451548438/photo/1
筆者のその時のポスト。(政治アカウントのためリンクしません)
ねんどろいど って何ですか? 魔法学校か何かのマンガキャラ??
と年寄りには分からないことだらけなのですが笑、とりあえず可愛い少年の姿だったから良かった。
本を片手に持っているところが嬉しかったです。相棒(=本)いた!と思いました。
現代の学生であることもいいですね。変な帽子とか変な扇とか(失礼)持っていないところがいい。
まさに孔明にも私にも誕生日プレゼントだと感じて幸せな気分になりました。
歴史界隈におぞましい犯罪者ばかり溢れている昨今、めずらしく純粋な趣味のほっこり作品を見せられ癒されたのです。オーディエンスからのお祝いということにして受け取っておきました。
さて現代、現実。
年齢だけで言えば私も“老境”となりました。何も成し遂げられていませんし成長もしていないというのに。
「人生は葉の上の露が渇くようにあっという間」と言いますが、本当に一瞬で時が過ぎ去ったと感じます。
私の場合、恥ずかしながらこうしてずっと十代の頃の体験を語り続け、若い方々向けの神秘話を発信しているせいか全く時が過ぎた感覚がありません。タイムスリップかと思うくらいです。
――いや、と言いますか、この体験で語っていた記憶は五十代なので「一瞬で今の年齢が追いついた」感覚もあります。
記憶と現実が逆転したような? なんだか変な感覚ですね。
かつて記憶にある自分は遥かに年上、教師たちや親よりも上の仰ぎ見る年寄りでした。
それで「年配の人の意識ってどんなだろう?」と精一杯背伸びして想像していたものです。もちろん自分の記憶としては覚えているのですが、現実肉体がその年齢でなければ実感が湧かないことも多いのです。
それが今は年相応に、“等身大”として語ることができる年になったのだなと妙な感慨を覚えます。
この感覚は独特なので表現しづらいですが……最も近いのは、親の年齢に追いついた時の感覚でしょうか。
たとえば自分が高校生の頃、親が五十代で苦労していたとします。
遥かに年上の親の大変さなど高校生に分かるはずがありません。親子で似た性格だから、背伸びをして想像してみれば何となく分かるような気もするでしょう。でも実感はまるで追いつきません。
時が過ぎ「あの頃」の親の年齢に追いついてから、ようやく親の苦労が実感として理解できるようになるもの。そんな感覚に近いです。
私の場合、今世と前世の状況は180度違いますから(無名一般人・忙しさも段違い)、殺人的多忙に追い込まれたときの肉体感覚などは体感できませんけどね。できたら死んでいます。
ただ精神的な辛さは実感として分かるようになりました。
たとえばもう無理はできないんだな、とか。自分でコントロールがきかないほど弱気になってしまうものなんだな、とか。
【関連記事】 魂が記憶しているもの、肉体が記憶しているもの。肉体感覚は実感としては再生されない
私は体は今のところ同世代より健康だと思います。若く見られますし実際に大きな病気もない。もともと体力はないほうなので(何の自慢)、老化で体力が下がってきて困るなどという実感もまだありません。
それでもやはり心は昔より弱くなった気がします。
体より先に心のエネルギーのほうが弱るのは意外でした。案外、大人のほうが子供よりもダメージに弱いらしい。
今回ブログ引っ越しで参ってつい「かまってちゃん」な甘えを見せてしまったのも、年を取ったせいかもしれません。
子供みたい、と言いましたが私は子供の頃のほうが甘えなかったですね。
ここで誰にもSOSを出さず黙って耐えてしまうと過去の二の舞かなという気がします。
だから今後は少しだけ“自分に甘く”生きていこうと決意しました。世間的にはあり得ない決意表明。笑
小説更新などあちこち手につかなくなっておりますが、マイペースに存在を続けていくつもりです。見捨てないで眺めてくださると幸せに思います。