『よみがえる古代思想』プラトンの目指した政治術とは

 〔旧読書ブログからの移動記事です〕



よみがえる古代思想―「哲学と政治」講義1 (講談社学術文庫) 文庫 – 2012/10/11
佐々木 毅 (著)


より引用と感想。

引用文


 アテナイの有名な政治家のペリクレス、ペルシャ戦争の英雄テミストクレスなどは、プラトンによれば、どうにもならない迎合屋になります。アテナイのもっとも誇りとする政治家たちを、プラトンはそれこそぼろくそに批判するわけです。彼らは人々に一時的な快楽を与えることや、欲望を一時的に満足させることにこれ努めて、本当の政治とは何をなすべきかをまったく知らなかったというのが、プラトンの見方です。なぜかというと、彼らは哲学をしなかったからである。単純化していえば、ソクラテス流の哲学をしなかったという点をプラトンは指摘します。

 それでは、本当の政治家とは何か。人々の魂を正しい方向へ導くのが政治家というものだというわけです。確かに船をつくったり、橋をつくったり、道をつくったりしても、魂

――P80

を正しい方向へ導かないだろうということは想像がつくわけで、これは戦後の日本においては広く知られた真理になっています。

 プラトンは、政治術という言葉を使っています。政治は技術であるというのが彼の信念です。民主制のように、だれもがみんな平等に政治に参加するが、だれも決定的な術(アート)をマスターしておらず、平等な中でいろいろと討論しながら政治をするという議論に対して、彼は技術(テクネー)というカテゴリーで対決するわけです。政治も技術である、と。

 彼が好んで用いるのは医者との対比で、医術は非常に専門的な術ですが、政治にも専門的な術があるというわけです。その専門的な術としての政治術の核心こそ、ソクラテス流にいえば「人間の魂に配慮する」こと、つまり人間の魂をよりよくするということを目標にした活動であるわけです。先ほどの言葉でいえば、人間の魂の中にある神聖なる要素を養い育てて、人間が本来あるべき姿になるようにする術ということになります。

―― P81

 しかしながら、プラトンは、ちょうど医術が人間の身体を正しい状態に持っていくように、人間の魂を正しい状態に持っていくのが政治術だとし、医術と政治術とを並列的に考えている。片方は肉体、片方は魂が対象というふうに考えており、これが政治を考えるときの彼の議論の基本となっています。

 ペリクレスその他がだめだったのは、…(略)…哲学的にいえば、一種の仮象の世界、真理の世界とは異なる見せかけの世界に人々をまどろませておいて、人々の支持を獲得するということです。それは政治の世界ではよく行われることであって、だから迎合してはいけないという話がすぐ出てくるわけです。

 人間の肉体や金銭、名誉といった価値に人々が関心を向けて、そこに快楽を見出すような世界から、本来ある魂に人間の価値を転倒させていくのが政治の仕事であるといっても

―― P82

いいわけで、これはソクラテスが既にいったことを新しい形で翻訳したものです。ですから、その意味で、放埓ではなく秩序ある魂の持ち主へと人間を導いていくのが、政治活動の重要なキーポイントということになります。これを除いては政治という活動は考えられない。大衆の欲望に召使のように奉仕することがあってはならないし、ましてや、人を傷つけることをもって誇りとするような専制君主などの魂は最悪の状態にあり、もっとも堕落している。そういう専制君主の更生の道は、まず人によって処罰されることであるといっています。ですから、処罰というか、一種の権力による統制、規制は、人間の魂を正しい方向へ導いていくための重要な手段になっていくとも考えられるわけです。

――P83

ただ、彼にとってポリスは決して不滅ではなくて、不滅なのは人間の魂だけなのだという点は決定的に重要です。ポリスに魂はないわけです。確かに個人は国家によっていろいろと規制は受けるだろうけれども、国家が不滅であって、個人はあたかもそれに対してか弱い虫のようなものだという議論ではない。ここに二十世紀におけるプラトン理解の基本的な問題があった。その意味ではプラトンを国家主義者や民族至上主義者に仕立て上げたり、そういう前提で彼を批判するのは基本的に間違っているのです。

―― P94


筆者の感想

やはりプラトン思想は東洋で言うところの儒家+法家という感じ。

哲人王≒徳王。(ただし東洋の徳王は教育さえあれば誰でもなれるものではなく資質こそ重要となるが)



プラトンの目指した“政治術”は東洋にあった。

私もおそらくそれ故に東洋思想に共鳴したのだと思う。無意識では、「探していた術がここにあった」と感じていたようだ。

プラトンが医術と政治術を同等に考えていたという解釈も面白い。共鳴する。ただし私はプラトン先生より、もう少し人々の本来備わった自然治癒力を信じるが。 治療は最小限、手術のあとは生活習慣を改善するアドバイス程度で良いと考える。それでもプロの医術を完全否定し、民間療法だけを正義と唱える極端な人たちとは対立するのかもしれない。



人々のため、誰もが幸せに生きていける社会体制とはどのようなものか考え続けたプラトン。

それなのにキリスト教徒や近現代の反哲学者など、権力欲の塊である悪魔たちによって捻じ曲げられ全体主義の教科書として悪用されたのは不幸極まる。

悪い者たちに名を利用されたのはプラトンが西欧において圧倒の人気があったからなのだろうが。

「だから思想は書いてはならないのだ」とソクラテスが苦笑いしていそう。

ところが、書かずに行動だけで示そうと考えた諸葛亮はこれだけ悪用されている。書かなければ誤解されたまま、未来の賢い人たちにも本心が届かず「実際はどうだったのだろう?」と首を傾げられて終わり。…もちろん最もレベルの高いマニアは本心を見抜いている(だから「見ている人はいる」と言える)のだが、本人の書いた文で裏付ける手段がないのは気の毒なことだと思う。

書いても書かなくても悪魔たちは自分の欲望のために思想を捻じ曲げ、悪用するのだ。

だとすればせめて賢い人たちの推測が裏付けられるように、本心を文として残しておくべきではないだろうか。

今ここでプラトン本心の推測を私が裏付けられるのも、彼が文を残してくれたからだ。

(上の引用文は佐々木毅氏の解釈であって本人の言葉ではないけれども。個人的にはかなり正解に近いと思う。裏付けはプラトン著書原典/後世キリスト教徒による改変と思われる箇所を除く)
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「真理」や「天道」を無きものにする反転思想家たち

冒頭、険悪な報告からとなります。
心の弱い方、険悪な話が苦手な方はリンクをクリックしないようご注意ください。

読者様より、かつて筆者へ殺害を臭わせる脅迫文を送り付けてきた犯罪者のものらしいSNSアカウントを見つけたことご報告いただきました。

ご報告くださった方によれば「そのアカウントから個人情報を辿り住所特定に動いている」とのこと…、
確かに公開情報を閲覧するだけなら不法行為とはならないのですが、住所特定して直接に嫌がらせするのは犯罪なのでやめましょう。分かっているでしょうけど。

返信コメントやDMなどで絡むのも控えてください。
相手方はメールの文面からも、平気で人を殺すカルト活動家であることが分かります。反社会的な人物に絡むのは大変危険です。

私も該当アカウントのURLを教えていただきましたが、全体に危険な香りが漂っていてあまり深く読めませんでした。
ただここのブログに反応して書いたような記事が散見されましたね。
リンクも貼らずに反論、否定を書き連ねています。陰口で不満を吐き出さずにいられない陰険さが表れている。
上のメール文でもそうでしたが人と話をすることが完全にできないタイプであるらしい。
どっちが「人の話を聞かない・融通のきかない」人物なのでしょうか? 彼らは鏡を見ながらつい自分のことを言ってしまう癖があるようです。

悪魔思想家たちはこんな感じ


別館記事を読まない方のために簡単に解説しておきます。

現代、彼のような反社会的人物は概ねM主義者であり、反転思想家(たとえばニーチェなど反哲学者を名乗る者)を強く崇拝しています。

いわゆる典型的な「悪魔崇拝※」と呼ばれる思想の持ち主ですね。

※ここで「悪魔崇拝」と呼ぶのは古代の宗教差別を抜いた狭義、近代思想における反転主義のことです。現代において暴力至上を掲げ、歴史捏造や言論弾圧、殺人・破壊活動をしている勢力のこと。

実際に犯罪活動をしているか否かで醜悪さのグラデーションはありますが、善良さを憎み・あらゆる悪事を正しいと本気で信じている点がコピーロボットのごとく共通しています。
思考を失っているために命令されたならどのような残虐な犯罪でも遂行する。
善悪の観念も反転していますから、そもそも人としての言葉が通じません。前記事でも書いた「魂を喰われたハニワ」です。

本人たちは「自分は人間である。自分の頭で考えている」と思い込んでいるが自我を失っていることに薄々気付いているため、この点を指摘すると激怒します。
“人間”の定義をすり変えているようですし、“自分の頭で考える”もカルトを受け入れるという意味に変換しているようです。

…このように彼らは言葉の意味を反転させていますから何を言っても処置なし。自らを省みて悔いることは永久にないのでしょう。このため鏡を見て敵の姿だと思い込み、自分自身を忠実に表現する罵詈雑言を叫んでいます。

主張の特徴


過去記事と繰り返しになりますが、上のSNSを参考として彼らに共通する主張を抽出しますと

・「善人こそ悪人だ。善良な者こそおぞましい支配者だ」「無辜の民を虐殺することこそ正義だ」などと、人類の価値観とは反対のことを述べる。善良さへの徹底的な憎しみ、道徳を破壊する衝動を持つ。

・「真理は存在しない」「事実も存在しない」と主張。だから自分たちに都合の良い歴史事実を創作していいと信じている。「願望を唱えれば過去も書き変えられる」と本気で信じる、引き寄せ法則の狂信的な信者である。

・ニーチェやマルクスを代表とする悪魔思想家を熱烈に信奉している。そもそも彼らの主張はニーチェやマルクスの丸ごとコピーである。自分自身の考えは持たない。個人の意志を失っている全体主義者

等々です。
抽出のためには役に立ちました。教えてくださってありがとう。


「真理はない! 天道は憎むべき一神教だ!」と叫ぶ悪魔の手下たち


この件に関連して思い出しましたが、最近あの勢力に乗っ取られているWikipediaで
「天道とは一神教のこと。人類が憎み打倒すべき宗教」
との思想誘導が書き込みされているらしいですね。

真理だけではなく、天道も無きものにするつもりか。
嘘を吐き犯罪ばかりしている彼らにとって真理や天道があると都合が悪いようです。

――と言うことは、真理や天道に怯えているわけですね? その時点で真理・天道の存在を認めたことになるのですが、自家撞着(矛盾)に気付かない愚かな鴨さん。

「天に唾する」とはこのことです。
人間社会を正すために悪人を罰する親切な神様がいるわけではなくて、上に吐いた唾がただ重力で自分の顔に返ってくるだけなのですよ。

こんな自然法則すら彼らは憎み、「法則なんか存在しない!」と主張しているのですが。願望を唱えても無駄。宇宙の摂理は厳格であること、いずれあなたの身をもって分かるんじゃない?
まあ星の重力に支配されるのも嫌だと言うのなら宇宙空間に亡命すればいい。誰も止めないので、どうぞどうぞ地球を出て行って。
いや宇宙そのものを憎んでいるのでしたっけ。ならば宇宙を出て行けば?

そもそも「天道」とは本来、星々の通る道のこと。その道を読み、人の運命に照らし合わせて「宿命」などの解釈が生まれただけ。
「悪いことをすれば自分に返る」の幼稚園児でも分かる因果応報ですね。
現代風に翻訳するなら宇宙法則のことです。
もちろん全天体、全法則のことを指すのであって、人を支配する神様を崇める一神教などのことではありません。笑
どこまで無知なのでしょうか。無知ゆえに言葉の定義を平気で歪めている。恥ずかしいな。


あと「真理はない!」について。
そもそも何についての真理なのか? 定義することもせず、ただ「真理はない・真理はない」と唱えているなら狂った宗教です。彼らはオ×ム真理教を批判しているが似た者同士。

真理が存在するかしないかは「何について」かによるでしょう。
たとえばある歴史事実が存在したかどうか。とのテーマならば、過去の厳然たる出来事で「事実という真理」は確かに在ることになる。
これは記録書に書かれたか否かは関係がない。
人が知った瞬間に過去の事実が消えるわけもない
(だとすれば全ての歴史事実は無かったことになる。あなたがここに生まれたという事実も存在しないことになる)

それを「事実は存在しない! 解釈があるだけだ」、「真理は知られた瞬間に消えるのだ!」などと狂った主張をし、自分たちの都合で好き勝手に歴史改造しているのが彼らです。
しかも真理は知られた瞬間に消えると言いながら、何故か自分たちの目的に合わせた歴史事実は「存在する」とご都合主義を唱えるし。
これこそ彼ら悪魔崇拝カルトが「人類の敵」と呼ばれている所以。

……と、専門ではないから哲学の話はこの辺でやめておきます。

なお当ブログで時々使っている「真理」という言葉は、「天道」と似た宇宙法則を指します。そのなかでも核心法則を指す。
それを多くの人が知れば人間社会も大きく改善されるはずと私が感じているものです。
この意味での真理はただ「存在するもの」なので、人が知ったからと言って消えるわけではありません。
月や太陽が人に見られた瞬間に消えていないのと同じことです。
月や太陽なども「在るのに無い」、と叫ぶのがいかに狂った主張か分かるでしょう。

【参考になる話、引用】


1.真理を考え過ぎて自家撞着に陥り壊れていった反哲学者たち:
「悪」は「善」から分泌される——哲学者・古賀徹が語る「真理」とは。より
哲学が、一番大事にしているのは「真理」です。「真理」を僕なりに説明すると、「在るものを『在るもの』として示すこと。在るのに無いフリをしないこと」だと思っています。
↑このシンプルな考えで良いのでは? と思いますが、現代では反哲学が蔓延しているから学べば学ぶほど狂っていくようですね。
そして毒書に魂を喰われて操られ、ドン・キホーテのように無意味な敵と戦う「運動」で人生を消耗していくのでしょう。

そしてあるとき、自分の中に根を張っていた常識が突然崩れ、テキストが言わんとしていることが、洪水のようにドドーッと頭に流れ込んできて、モノの見方が完全に書き換えられる瞬間
↑悟りをひらいたかのようですが、もしかしたらこれこそ「魂が喰われていく」瞬間なのかもしれません。
あらかじめ持って生まれた人間としての道徳心が乗っ取られ、非現実的な思想にコントロールされる。
(例:まともな人間は幼児を虐待できないが、イデオロギーに思考を乗っ取られた者は「幼児虐待は正義! 虐待してはならないと言うのは悪の常識だ!」と言って行う。人としての最も根本的な道義を“破壊すべき常識”と呼んだとき、人は人ではなくなる

ハンナ・アーレントの述べる「自分自身との静かな対話」を放棄してしまう瞬間です。

引用文中、アンダーラインは当ブログ筆者による:
「ソクラテスやプラトン以来、私たちは“思考”をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。人間であることを拒否したアイヒマンは人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。過去に例が無いほど大規模な悪事をね。私は実際、この問題を哲学的に考えました」

思考の風がもたらすのは知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても考え抜くことで破滅に至らぬよう」(映画「ハンナ・アーレント」(字幕版)のシーンから)



2.当ブログ内の読書メモから
『ガラス玉演戯』より、神様の言葉
真理はあるよ、君。だが、君の求める『教え』、完全にそれだけで賢くなれるような絶対な教え、そんなものはない。君も完全な教えにあこがれてはならない。友よ、それより、君自身の完成にあこがれなさい。神というものは君の中にあるのであって、概念や本の中にあるのではない。真理は生活されるものであって、講義されるものではない。戦いの覚悟をしなさい、ヨーゼフ・クネヒトよ、君の戦いがもう始まっているのが、よくわかる」
ヘッセもユングなどと交流があり、当時の悪魔崇拝思想に触れた人だと思います。
ただヘッセはニーチェ思想について「意味が分からなかった。何故あのような書物が称賛されているのか分からない」(要旨)と述べています。
このエピソードや上の引用文から、ヘッセは自身との静かな対話を放棄しなかった人だと分かります。嘘つきではなかったということです。

おそらく自分に理解できないものを、見栄で「理解した」と嘘をついた瞬間に思考は乗っ取られ始めるのではないでしょうか?
理解できないくせに他人の言葉をトレースする。その思考の放棄こそ人間辞める瞬間。
日本人の高学歴にはこの種のタイプが多い気がします。受験勉強によって、教科書をトレースしそのまま回答する訓練しかして来なかったからです。幼少期から奴隷として調教されてきたのだと言えるでしょう。

(読者様はどうか教科書の奴隷となりませんように)

【真理について関連する話】 占いは歴史学ではない→まとめ
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本は雑読がおススメ。現代の毒書で魂を喰われないために

 お気付きの方もいるかもしれませんが、少し前に読書ブログ『On a rainy day』を削除しました。
もう更新する予定もないので。

しかしここのところ読書に関する記事がクリックされることが多いため一部ここで復帰させています。

たとえば

二流の読書でバカになる? 広く浅くの雑読を後押しする、嬉しい言葉

とか。
読書レビューは少なめにしていますが、よくクリックされている

『アルジャーノンに花束を』は、あなたを知る物語である(小説とドラマの感想)
伊藤計劃『虐殺器官』感想。同時代に生き、虐殺を眺めた者としてのシンパシィ

など残しています。
他は気が向いたら読書カテゴリで復帰させていきます。



ミスリードの修正


今、早めの終活として過去に自分の書いたものを整理していこうと考えています。
遺すべきものは遺す。
判断を誤っていて、ミスリードする危険のあった記事は削除または修正していかねばと。

(それで水瓶座の基礎解釈も修正したものです)

なかでもミスリードの危険が大きかったのは読書ブログだったと思います。

少し前まで私は現代で行われている思想誘導の犯罪を知らず、毒の含まれている本を注意もせずに紹介していました。
さすがにニーチェやヒトラー、マルクスなど悪魔臭の強い書物は私自身が生理的に無理ですからお奨めすることはありませんでしたが、太宰治はうっかり紹介してしまいましたね。

その他にも今の目では有害だと分かる“毒書(どくしょ)”を紹介していました。
それもそのはず、出版されている本の9割が毒書。現代では偏った思想を持つ作家しか世に出ないよう言論コントロールされているからです。

昔の大人たちが「本なんか読むもんじゃない」と言っていた理由が遅ればせながらようやく分かりました。

たぶん私と同世代の人たちの多くは未だに全く気付いていないでしょう。
テロリストたちが敗北して大人しくなり、改心したように装っていた時代を生きてきたからです。
それが今になって俄かに復活して我が物顔に振る舞い始めました。まるでトコジラミのように再繁殖している。

私が目覚めたのは『三国志』で行われている犯罪に気付いたおかげなのですが、コロナと米国大統領選挙がダメ押しでしたね。我が国の元首相暗殺事件も。

もともとあのカルト思想家たちが悪の限りを尽くしていたことは歴史として知っていました。
まさか今でも僅かも改心することなく、現代の自由主義圏(と言われている日本や米国)でここまでの悪事を堂々とやってのけるとは。

私も性善説に少し傾いて甘い夢を見ていたこと反省しています。
人間は誰でも良心を持ち、いつか自分の過ちに気付けば恥じて改心するものだと信じていました。

しかしそんな考えは夢想に過ぎなかった。
一度カルト思想に脳を侵された者は、騙されたことを自分で認めたくないので永久に改心することなどなく、死ぬまで非合理な嘘をばらまき他人の生き血を吸い続けることしかできないようです。
ぬか漬けの野菜と同じ。一度でも犯罪行為に中毒した脳は二度と元に戻ることがないのでしょう。


魂を喰われない読書


最近になって若かりし頃のカルト夢想を取り戻し、嘘八百のプロパガンダ活動に勤しんでいるお年寄りたちを眺めていると
“瞳が空洞”
ということに気付きます。

「目を見ればその者の本質が分かる」と豪語する私の上司ほど人物鑑定眼がなくとも分かるくらい明々白々。
まるで埴輪(はにわ)のように瞳が真っ黒で生物を感じさせません。

こんな感じ:

 

上司にこの話をしたところ

「あれは背後の者に操られちゃってんだよ。恐怖で操られているのか、思想洗脳されてるのか知らないが、とにかく自分自身が空っぽなの。カルト宗教の信者と同じだね。ああなったら殺人でも何でも命令されれば実行するよ」
と言っていました。私と同じ印象を持っていたようです。

おそらくあの埴輪と化している者たちは、魂が喰われて空っぽになっているのではないかな? と私は感じています。

何に魂が喰われてしまったのかと言うと、本などに含まれている毒思想に。

このたび復帰させた記事『二流の読書でバカになる?』でも触れていますが、どうやら限られたジャンルの本を聖書のごとく崇め、何度も繰り返し読む精読タイプが“魂を喰われる”ことが多いようです。

もちろん良書なら精読もいいでしょう。
たまたま選んだ聖書が良質な心を養ってくれるのであれば繰り返し読んでも構わない。
ただし無知なうちは毒かどうか区別がつかない。毒書を何度も読み込んでいると、気付かないうちに根本から魂を蝕まれ二度と元の人間には戻れなくなってしまうのだと思います。

そして現代の本には強度の毒素が含まれていることがほとんど。
しかも教育現場でも偏った思想を持つハニワ教師たちが毒書を子供たちに奨めています。
特に教師の言いなりになる「良い子」の子供たちは素直に毒を飲んでしまう。何度も、何度も。

「本を読むな」とは私は言いません。
毒を含む本でも読まなければ知識が得られませんし、無知ならばなおさら教祖からの直接の勧誘で洗脳されることがあるからです。

その代わり毒を深く飲み込まないことですね。
つまり、書かれた言葉を鵜呑みにしない。誰かの言葉を完全に脳へトレースしない。教科書の従順な羊にならないこと。

魂を喰われないためには上記事で書いたように雑読が有効です。
毒を含む本、含まない本をたくさん読むことが身を守ると思います。

私がこれまで毒を含む本を読んだとしても、気付けば修正できているのは雑読をしてきたからだと言えます。

我ながらどうかと思いますが、どのような本を読んでも深く自分の中に取り込まない癖があります。
どうやら人並み以上に理解力はあり、心に響く思想には賛同するものの、必ず自分とその本の思想との違いを見つけて批判的に読んでしまう。
(これは歴史人物に対しても同じ。約一名を除きどんな歴史人物にも完全には同調できなかった)

生まれつき他人の思想を自分の脳にトレースすることが難しいようです。だから教祖の信者にはなれなかったし右にも左にもなれない。
これこそ私が“特殊”で“独自性がある”と言われてきたことの所以なのだと思いますが、普通の本能に欠ける障碍だったと言えるかもしれません。

多くの人は私のような障碍者ではないはずなので他人の思想をトレースする本能を持つでしょう。
カルトは高度な心理学でその健全な本能を利用し、信者として捕らえて魂を喰い尽くそうと狙っています。
その罠にはまりやすい行動が「毒書を繰り返し読むこと」なのです。

自律思考で本を読め! と叫んでも難しかったかもしれません。
だからせめて分かりやすい行動として、広くジャンルを定めずの雑読をおススメしています。

 

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