他人の教義に従えない私は障碍者? 「個」での判断しかできないこと ※投稿後改稿


 ここのところ長文連投していて疲れてきました。そろそろ休むつもりですが、その前に別館で上げたのがこちら。

 ⇒私が「ウイルス存在しない」と言わない理由【2022年ウイルス騒動振り返り】

おそらく別館を眺めたことのある読者様は、私のことを「陰謀論者! ネトウヨなのね。こわーい」と思っていることでしょう。
そうではないのですよ、という話です。

意外に思われるでしょうが、私はいわゆる陰謀論者※ではありません。
上の別館記事でも書いた通り、私はどういうわけか他人が創った教義に従えず「個(自分)」で判断するタイプというだけなのです。
だからメディアの話をそのまま信じることもできないし、陰謀論者に同調して既存の台本通り語ることができない。

これは生まれつきの性質だからどうしようもありません。この性質のせいで周囲とうまくいかなくなる。それでアスペルガーっぽく見られますね、違うようだけど。

 →アスペルガー(自閉症スペクトラム)診断の結果 :アスペルガーの可能性は「低」

※陰謀論とは


用語定義。
私が「陰謀論」と呼んでいるのは、いわゆる昔から「都市伝説」に分類されてきたお馴染み関暁夫氏などが語っている話のことです。

このような架空の団体を首謀者と考える都市伝説と、現実にある国家(たとえばC国など)の謀略を読むことは本質的に異なります。後者はたんなる「敵対国の戦略分析」というだけ、現実を推測しているだけに過ぎません。

ところが昨今は、何故か後者の現実分析のほうが「陰謀論」とのレッテルを貼られるようになりました。
現実を分析されると都合悪い人たちがいるのでしょうか?

とにかく今はメディアの主張に従わずに反対の視点から見ただけで、即「頭のおかしいカルト」とレッテルを貼られ排除される。
陰謀論のレッテルを貼ることで言論が消せると思っているのですね。

これは「陰謀論」のレッテルを利用した言論コントロールです。どれだけの人が気付いていることか。

個人で考えている人のどこが陰謀論者なのか。メディアを妄信している人のほうがカルトだろうがと言いたくなります。
自分で考えない人ほど、「陰謀論者」のレッテルを貼られ排除された人へ嬉々として石を投げますね。恐ろしい。

「自分で考える」は正常な人間には不可能なのか

日本でも長いこと「自分で考えろ!」と叫ばれ続けてきましたが、そう叫んでいる人たちのほとんどが自分すなわち「個」で考えていません。

メディアの話を何も考えず鵜呑みにしている人は言うまでもなく。

メディアを信じず表(多数派)の話に背を向けた人も、今度はアングラな団体に入会したり、前項定義での陰謀論を崇めるカルトになったりするだけです。
それでその団体や教祖から与えられた台本を信奉し、「我々は真実を知っている」などと言う。
全く自分で考えてないじゃん! と言われると、「自分で考えて組織に入ったんだ(あの方を信じたんだ)」などと言い返す。
おそらく団体入会の前に自分で選択しているつもりなので、彼等にとっては「自分で考えた」ことになっているのですね。
誰かの創った台本をオウム返しで口から出しているだけなのに、「自分だけは世界の秘密を知っているんだ」と思い込む。

謎過ぎる。

おそらくこの“群れる”本能と、群れの中の教義・台本が絶対真実と考える本能は、人間が四足歩行から進化して集団生活を営む動物であるがゆえに克服できないものかもしれない。
群れに従っていなければ食べていけないので、ある程度はこの本能を持っていなければならないのでしょう。

でもこの群れる本能がカルトを生み、現実無視で教義を推し進める狂気となります。

……これが人間の本能だとすれば。
どうしても群れることが苦手で、他人の教義に従うことが苦手な私のようなタイプは、一般には「障碍」と呼ばれてしまうのでしょう。
それでずっと疎外感を覚えてきた。

“群れ”に入れない人間だから読めることがあるかもしれない

 私は、決して自分のことを「特別」だの優秀だのと思っているわけではありません。
私だって間違うことがたくさんあります。
(対象に興味がなくて、ほとんど観ていない状況のときはさすがに誤りますね。トランプ氏の評価で誤ったのが典型でした)
細部に目が行き届かずうっかりミスは多いですし。
いつも自分って何てダメなんだろうと落ち込んでばかり。

でも、少なくとも今のような集団詐欺の嘘がばらまかれている状況下では、自分の障碍レベルな個人主義が役に立つかもしれないと感じています。
だから実は怖いけど政治ジャンルの話も始めるようになったのですよ。あまりにも酷い嘘が横行して悲惨な状況となってきたので、やむにやまれず。

この捨て身ご理解いただいて、私が嘘をついていないことを信じてもらえれば嬉しく思います。 

 

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【補足】『パンズ・ラビリンス』に別視点からのレビュー

 先日書いた『パンズ・ラビリンス』のレビュー。
 →『パンズ・ラビリンス』考察~かつて救済だった悪魔崇拝

ラストの展開について、私は少々理解不足だったところがあります。
そんな私とは別視点からのレビューをいただいたので、補足としてここに掲載させていただきます。N様、引用ご快諾いただきありがとうございました。
(引用とともに筆者の返信もこの記事で書きます)

精神防衛を果たしたオフェリア

枠で囲まれている文は、4/8 N様のメールより引用。『』で括られているのは上記事より筆者の言葉の転載です。
※映画をまだ観ていない方へ、ネタバレありますのでご注意ください
『「パンズ・ラビリンス」には私がブログで表現していることと共通の考えがある、と言っていただきましたが鋭いご指摘です。
ある意味では正解。私は多神教の世界をずっと表現してきているからです。
と言うより、私は体験を書いているだけなんですがね。生まれ変わりなどの実体験から導き出される思想が多神教に属すというだけ。つまり多神教が宇宙の真実。だから、ギリシャ神話へのリスペクトがあるこの映画の一部に、私のブログにも共通した思想を感じ取られたのではと思います。』

いえ、それは少し違います。
多神教の世界、確かにそういうことなのかもしれません。自分も根っからの多神教人間。
でも、自分はギリシャ神話との繋がりなんてさっぱり気づきませんでした!
なんとなく「このパンってのは悪魔っぽいなー」ぐらいに感じましたけど。
以前見た時に調べたパンのモチーフが、どこ神話のなんだかも、忘れていましたし。

最初のメールを、書く時思っていたのは、もっとぼんやりしたことでした。

いうならば…
『精神防衛』です。まさに!

オフェリアはそれができたと思いませんか?

地下の王国に迎えられたオフェリアは、「パンの囁き」に乗せられて弟を渡さなかったことを讃えられます。
悲惨な現実に追われた無垢な少女はそれでも、弟の血を流すくらいなら王国行きの権利を手放すと言ったんです。

そうでした……。
オフェリアは弟を差し出しませんでしたね。自分の利益のために家族の血を犠牲にしようとしなかった。
このことで、彼女は悪魔崇拝(現代の意味の。家族さえ犠牲にする)へ転げ落ちることなく人間の世界に踏みとどまりました。

それによって肉体の命は失ってしまいますが、魂は純粋なまま保たれます。
ここが、この映画の美しさであり最も感動するところですね。

にも関わらず私がそんなラストをスルーしてしまったのは、「悪魔崇拝」などの知識が先に立って警戒心の色眼鏡で見てしまったからと言えます。申し訳ないです。

あと、正直に言うとその後の場面で納得できなかったのです。
結局彼女はパンのいる地下へ行ったのか? あれは詐欺師だと気付いたはずでは? と。
ここで監督の意図に悩んでしまった。

個人的にはパンも地下の王様や王女もいない、“本物”の両親に迎えられる場面が見られたら気持ち良く納得できたかなと思います。
たとえば『鬼滅の刃』で斬られた鬼たちが経験するように、人間だった時のお父さんお母さんに迎えられて抱きしめられるとか。
そのほうが、王国行きの権利を放棄したオフェリアがほんとうに報われることになり、物語上も矛盾がなくなりますが… 場面としてそれを描くとチープとなり芸術作品と呼ばれることもなかったのでしょう。
欧州的な、地下・悪魔の世界こそが救いなのだという教義のもとで描かれた映画なのでこの結末しか無かったのかなと。
(この辺りはごめんなさい、知識に影響された独り言です)

でも、オフェリアの精神が最後まで純粋なまま守られたことは確かです。

>いうならば…
>『精神防衛』です。まさに!
>オフェリアはそれができたと思いませんか?

はい、なるほど……。
仰る通りです。

オフェリアは弟を心待ちにしていた

引用続けます。(長い引用ですがせっかくの解釈がもったいなくてカットできませんでした)
『心理分析』のレビュー。
(リンクありがとうございました!自分はあまり、人のレビューを読まないので。)
心理学的には、抑圧された子供心の暗喩として読み解けるのですね。
長子の寂しさ…。わかる気がします。

でも一方で、オフェリアは弟を心待ちにしてもいた、と思います。
母親の暖かいひざを奪った弟を、王国行きの権利を棄ててまで守ったんですから!
危機に瀕した時、極限状態での行動は本心がよく現れるのではないですか。
それにお腹の弟にお伽話を聞かせてるオフェリアは幸せそうだった。

ラストシーンで、王座の母は赤子を抱いているように見えます。
出産の時亡くなったのは母だけで、赤子は生きているのに!
オフェリアの願望だからじゃないでしょうか、地下に広がる王国と同じような夢。
母と弟と自分。お伽話のような無垢な夢です。
彼女の夢は結局、王座でふんぞりかえることでも、母親を独り占めすることでもなかった。

そこまでが、オフェリアの『精神』でした。
“王国の姫物語”という思想は、つまるところ彼女を幻惑出来なかったんです。
な、なるほど……。
死後世界もオフェリアの精神(願望)で、地下の母は本物のお母さんだということですね。
地下の王女が赤子を抱いていることには気付きませんでした。そうかもしれない。
だとすれば、オフェリアは人間の両親に迎えられたことになりますね。あくまでも彼女の想像の中でですが、それは純粋に守られた精神のなかでの想像だと。

心理分析する人たちも、私も、オフェリアをうがった目で観てしまったかもしれません。
オフェリアは確かに弟の誕生を心待ちにしていました。優しくて純粋な子です。
地下で君臨して暮らす利益に惑わされることはありませんでしたね。

心を明け渡さなかった

引用続きます。
(一見して)救済の、正義の思想。
小さな少女には“地下の王国”が、それでした。

でも人も、言葉も、“思想”も、みんな空っぽの器のようなもの。
器の色と、中に満ちるものの質は違う。
器の美しさに騙されて、よくないものに中毒していく人々。
それとわかって貪る人々もいますね。

オフェリアはちゃんと中身に気づいた。
明け渡してはいけないところはちゃんと守った。
そう感じたんです。なので、私はオフェリアが哀れとは思いませんでした。

オフェリアは地下の王国に迎えられることはなかった。
銃声と入れ替わり、“王国の使い”は霞のように消えました。
それでも、メルセデスの子守唄が聞こえた時、オフェリアの子供心は、満足だったんじゃないでしょうか。

ラストシーン。
満月が、子守唄を歌うメルセデスの肩越しに見えていました。
銃弾の痛みも薄れていく中でオフェリアの心にあったのは、かび臭い地下の王国なんかじゃなくて月明かりと子守唄だった。

性的虐待も虐殺も現実なら、死後もまた現実ですよね。
王国に迎えられている描写がありますが、単にオフェリアが死後、安らぎに迎えられたということなのかな…と。
魂の旅は長い、といいますよね。
まだ幼い彼女はひとまず、自分で守りきった心に帰った。
そういう『精神防衛』の寓話だと私は考えたんです。
深い解釈ありがとうございます……感動しました。

「明け渡さなかった」は本当にその通りだと思います。
真実を明け渡さない強さ。たとえ命を失おうとも精神は渡さない。

「月明りと子守唄」は人間性、私がこの映画の結末として願ったものでしょうか。
その解釈で観たなら、映画のラストに感じた“腑に落ちない”感じが吹き飛びますね。

最後に、筆者が書いていることについて

引用最後です。
吉野さんの表現していることと似て感じられたんだと思います。
世界の暗部を認めつつ、あくまで自分の心を明け渡さないこと。

吉野さんは私の『精神防衛術』の兄弟子というわけです。笑
勝手にそんなふうに思っていたので。

『進撃の巨人』
途中まで面白く見てました。
でもモヤモヤするようになって、駄目になりました。
この流れで言うならば、「進撃の巨人」は
「誰も彼も、残酷な現実から精神を守れない」
そう言う作品のように感じて。
(まだ最後まで見てないのでアレですけど)

そうした人ばかりで。
そんな中『精神防衛』を果たしている人を見つけたようで、なんだか安心したんです。
最後に驚き、少し泣かされました。

やっと前回メールの意味が分かった。言葉にしてくださって感謝です。

「兄弟子」と仰ってくださって嬉しく思いました。
ものすごく光栄ですし……勇気をいただきました。今のままで良いのだと。

いい年をして本当に恥ずかしいことに、私はネガティブバイアスが平均より強い人間でして。つい自分に対しても否定的に考えがち。
でも最近は、こうして応援してくださる方の声のほうをちゃんと受け止めなければと思っています。わざわざ言葉にしてくださるのは、とてつもない厚意。本気で受け止めないほうが失礼なのだと感じます。

たいした仕事はできませんが、今の立ち位置のまま思うことを書き続けていこうと思います。ありがとうございました。

検索で来られた方へ

…と、
映画レビューのはずが最後は普通にメールの返信になってしまいましたね。映画タイトルで検索して来られた方には失礼しました。
『パンズ・ラビリンス』は様々な解釈ができる映画。私のレビューも、この方のレビューも一つの観方としてお読みいただければ幸いです。 

 

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『パンズ・ラビリンス』考察~かつて救済だった悪魔崇拝

 映画『パンズ・ラビリンス』の感想と読み解き考察です。
長いので興味のある方のみどうぞ。
なお当ブログはもともとPG12ですが、特にこの記事はR指定の映画について話すためご注意ください。12才以下の子は独りで読まないでね。

(N様へ、多くの記事テーマをいただきありがとうございます)


ありのままの現実は、生きるにはつらすぎた。
しかし、絶望はやがて金色の光に変わる―。

少女の無垢な魂がたどり着く、残酷なまでにピュアな
ラストが、全世界の心を揺さぶった感動の傑作。

フランコ独裁政権の恐怖政治がスペインを覆いつくしていた暗黒時代。
少女オフェリアは優しかった仕立て屋の父親を亡くし、母が再婚したヒダル大尉のもとへ赴く。臨月の妻を無理に任地に呼び寄せる大尉は、まさに独裁のシンボルのような恐ろしい男。直面する現実は残酷なことばかりだった。
そんなとき彼女が見つけたのは薄暗い森の中の秘密の入り口。
妖精の化身である虫たちに導かれ、そこで出会った<パン>牧神に告げられたのは、オフェリアこそ地下の王国の王女であるということ。
オフェリアは王女として戻るための3つの試練を与えられ“パンズ・ラビリンス<牧神の迷宮>"での冒険が始まる・・・。
Amazonより

紹介動画:


引用したアマゾン商品紹介の文が典型的なのですが、日本では「現実逃避のファンタジー」として紹介されることの多い映画です。
でも監督の意図はたぶん「現実逃避」とは違うと思われます。

少なくともジャパニーズ・ライトノベル的「異世界転生」モノではないです、笑。
むしろ正反対にリアルへ潜り込む。光の空想ではなく、闇の現実へ誘う物語です。

“トラウマ級”ダークファンタジー


考察を書く前にまだ観ていない方への注意を載せておきます。

これは娯楽としてファンタジーを愉しみたいと思っている方にはお奨めできない映画です。
レビューで皆さん書いていますが
「不気味」
「残酷でショッキング」
「トラウマになった」
「観なきゃ良かったと後悔した」
と言う人が続出しています、ご注意を。

映像配信サイトによっては「ホラー」にジャンル分けしているところもあるようです。ホラーとはちょっと違うのでホラーファンが怒るのではないかと思いますが、それだけ刺激的ということでしょう。

外国ではR指定、日本ではPG12となっています。
お子様が観るときには充分に注意する必要がありますし、暴力表現が苦手な方・精神の健康を害しやすい方は観ないほうが良いと言えます。

具体的な注意点を述べると、現実世界のシーンで残虐な暴力描写や戦争表現があります。
ファンタジーの描写もまた甘いだけの世界ではなく、はっきり言えば不気味。人間の深層心理の暗い部分を表現したかのような、“トラウマ”級のグロテスクな世界観です。



暗喩を幾重にも編んだ寓話の傑作


ここから感想と考察。ネタバレありますのでご注意ください。

外国では高く評価されたこの映画。
日本でも高評価を付ける人はいるのですが、前項のように不気味な描写に着目するか、「意味不明」「退屈」「モヤモヤする」と言って低評価を付ける人のほうが多いようです。

「モヤモヤ」の原因はこの映画が暗喩を駆使した寓話であるからでしょう。
日本では寓話を読み解く習慣を持つ人が少ないですし、そもそもこの物語で使われている暗喩が日本文化から遠いために、意味不明と感じてしまうのではないでしょうか?

そんな文化の壁を乗り越えて、この寓話から何かしら感じ取る人の感性は相当に高いと思います。
さらに「モヤモヤ」を果敢に読み解こうとする人もいて、“考察”に取り組んでいますね。
私もその一人なのかもしれませんが、こういう暗喩を駆使した作品は一部の人間にとって考察意欲を掻き立てられるものです。



二重三重の仕掛けで深みへ誘う


では、具体的に何を喩えた寓話なのか――
回答は人によってかなり異なります。

どうやらこの映画は二重三重に暗喩が織り込まれているため、踏み込む階層によって回答が違ってくるようです。

まず、フロイトやユングの心理学的に読み解くことが可能。
地下の異世界を脳の“深層・無意識領域”と見て、登場する化け物たちを恐怖を象徴するメタファーと読むことができます。
アマゾンレビュアーに「カエルの化け物は妊娠した母親を象徴している。妊娠は少女にとって敵だからやっつけようとした」と書いている方がいて、秀逸な心理分析だと思いました。

【リンク】迷っているだけで楽しい、思考のラビリンス

おそらくこの分析も正解でしょう。
しかし、おそらくこれは“暗喩一層目”の解に過ぎません。心理学の世界に留まると文字通りの「ラビリンス」に迷い込んでループする仕掛けとなっています。
その場合、
「少女は残酷な現実から目を逸らしたくて自分の中の妄想に逃げ込んだ」
という現実逃避だけの解釈となってしまうはずです。(日本のプロのレビュアーの多くがこの階層に留まっています)
それではただの夢オチ作品ということになり、全てが少女の妄想で説明されるだけで暗喩メッセージは消え去ってしまいます。

この映画はそのような個人のイマジネーション世界だけに留まるものではないと考えられます。
もう一層・二層下の暗喩があります。
それは思想哲学的で、歴史的、現代政治的でもある。
少女の妄想どころか、むしろある意味で最も「リアル」なのがこの映画で描かれる地下異世界です。


タイトルから堂々と悪魔崇拝が示唆されている


もう少し深く、二層目より下の暗喩へ潜ってみましょう。

二層目と言いながらこの暗喩は、実はすでにタイトルで堂々と掲げられているのです。
パンズ・ラビリンス』と。

パンズのパンとは、パーンとも呼ばれるギリシャの神のことですね。
占星術をされている方ならご存知、「山羊座」のシンボルとなっている牧神です。

簡単に言えば、“羊飼いの神”。
ギリシャ神話では羊の群れを誘導し監視する役を負っています。
山羊の頭を持ち、身体は人間、足は魚という奇妙な姿をした神です。
(後世キリスト教が浸透して以降の時代、パーンを象徴する悪魔は割れた爪の山羊の足を持つようになる)

この映画で少女のもとに現れ、「私は迷宮の守護神パン、あなたの僕」と名乗る不気味な怪物はその名の通り山羊の頭をしています。
ここで、あのギリシャ神話のパーンだと視聴者に悟らせる仕掛けです。

彼が本当の名を名乗る前に
「私には名前がたくさんある。長い歴史のなかで様々な名前で呼ばれてきた」
と言っているのは、キリスト教がギリシャ神話を悪魔崇拝と呼んで弾圧して以降、ギリシャ神たちが様々な悪魔の名に変えられ誹謗中傷されてきたことを指していると思います。

貶められた神々なかでもパーンは、悪魔崇拝の象徴としてよくシンボリックに描かれます。※
これはキリスト教が悪魔崇拝としてレッテル貼りした古代の宗教が山羊を生贄にしていたからと言われています。バフォメット(マホメットのこと)も山羊の姿で描かれますね。

※「山羊座の山羊は悪魔だ」と言われるのはこのような歴史経緯からで、山羊座の支配星であるサターン(土星)がサタン(悪魔)と混同されたからではありません。ただ、意図的に混同するよう誘導している者たちはいると思います。

【フォロー】 占星術における山羊座の人のキャラクターはサタン(悪魔)ではないので誤解しないでください。「現実主義」「礼儀正しく上品」「管理能力がある」等が一般的な山羊座の性格です。

さて、このような歴史経緯はともかく。
現代のパーンは悪魔崇拝への案内役を象徴します。
そのためこの映画の案内役は、どう考えても悪魔の使いとしか見えないグロテスクな姿をしているわけです。
本当のギリシャ神話のパンはもう少し幸福そうで楽し気な神様なのですけどね。(ただし性欲は強い。…それは地上での生きる力の強さを表すのですが)
似たような物語ながら、『不思議の国のアリス』の案内役ウサギとは可愛さにおいて落差があります。


パンとの邂逅は性的儀式を象徴


さらに踏み込んだ話をすると、パーンは「処女を誘う」性の神とされています。キリスト教では「淫魔」です。
だからこの映画でも、パンと少女との邂逅はおそらく性的な意味を含んでいるはず。

裏付け。パンとの出会いの場にある石碑は象徴的ですね…皆まで言わないが。


グロテスクに肥ったカエルへ眉をひそめながらも近付き手を伸ばす少女の試練とは… と言えば、その冒険の後に描かれる血のイメージも理解できるでしょう。

もはや性犯罪の臭いしかしませんね。
可能なら普通に少女の成長として読み解きたいのですが、とうてい明るい初恋物語とは思えない。
全体を筋道立てて眺めると、やはりこれは悪魔崇拝で用いられるとされる性的な儀式を象徴しているとしか解釈できません。

この映画中で最もグロテスクな“ペイルマン”は日本アニメにも登場しそうな怪物であるため、日本人は単純に「トラウマ級!」と騒いでいるよう。
しかし、あれも現実の年配男性を象徴していると思われます。
かつて人間だったが、人の肉を貪り喰ったために「人間ではなくなった」男。老いて獲物を喰らうことができなくなり、不気味に垂れ下がった自分の肉を抱え眠り呆けています。大好きな処女が間近に来てようやく目を覚ましますが、老いているため欲を果たせずに逃げられてしまいます。

少女がパンに誘惑され連れて行かれたのはどこだったのか?
“試練”と称して何をさせられたのか?

この暗喩を現実変換すると吐き気を催してしまうのですが、家から逃げ出したいオフェリアにとっては悪魔だと分かっていても、パン
だけが救いだったのだと思われます。パンの誘いに乗り、その手に縋るしか他に選択肢はなかった。

スペイン内戦などの悲惨な時代はこのような少女で溢れていたことでしょう。
地上に残るも地獄、地下へ潜るのはさらに地獄。逃げ道のない少女たちはやむを得ず、おぞましい現実をファンタジーに転換するしかなかったのでしょう。

(つまりこの映画でオフェリアが経験した冒険はあまりにグロテスクなためファンタジーへ転換されたが、もう一つの現実。妄想で創り上げたファンタジーに逃避しているわけではない)

オフェリアは「塔の中の乙女」


この物語の主人公、オフェリアは分かりやすく『ハムレット』のオフィーリアを象徴していますね。

ミレーの「オフィーリア」

 オフィーリアは死に連れ去られる処女の象徴。
さらに古いモチーフでは、『アーサー王』伝説のシャーロット姫(塔の中の乙女。ランスロットに惹かれて封印解除、塔から出て息絶えてしまう)に繋がるでしょう。

彼女たちはギリシャ的な風俗を象徴するシンボルで、キリスト教世界ではエロトマニア(色情狂のストーカー)と揶揄され卑下されてきた存在です。
つまり、女性蔑視の象徴でもあります。
そんなオフィーリアを主役に据えたのは、やはりジェンダー差別への抵抗・批判メッセージなのだと思います。

多分に政治的ではありますが、性的な餌食にされて虐げられ、命まで奪われてしまう少女たちへの憐みが美しく表現されていると言えます。



スペイン内戦、歴史背景を知れば根本暗喩が読み解ける


この映画の最も深い階層に仕掛けられている暗喩は哲学思想、そして政治メッセージです。

映画の舞台である「スペイン内戦」を少し知れば、たちどころに暗喩が読み解けるのではないでしょうか。

 ⇒Wikipedia スペイン内戦

簡単に言えばフランコという極右(キリスト教系)の独裁政権と、極左(マルクス・トロツキー主義など共産主義組織)レジスタンスが戦った内戦です。
もう少し単純化して象徴的に言いますと、キリスト教 VS 共産主義の戦争だったことになります。

共産主義はもともとキリスト教から「悪魔崇拝」とレッテル貼りされ弾圧されてきた自由主義から派生しました。
(ただし派生したというだけであって共産主義に自由主義の構造は残っていません。実際に思想プログラムを組んだのは一神教徒であり、構造はキリスト教以上の全体主義です。…ややこしいですね。こちら別館記事参照

したがって、この映画全体を貫く根本的な暗喩は
《キリスト教に対抗している悪魔崇拝(共産主義)へのオマージュ》
と読むのが解です。

【裏付け】共産主義は山羊座パーンの時代に属する思想

ちなみに、この映画に登場するレジスタンス集団――オフェリアに優しくしてくれた家政婦メルセデスや弟、その仲間たちも共産主義勢力です。
まるで正義の味方のように描かれているゲリラ集団の正体は、今現在たくさんの一般人を弾圧し虐殺したり、嘘をばらまき世界を混乱させている全体主義思想家だったのですね。参考:彼らが何をしてきたか

こんな暗喩を暴露すると残念に思われるかもしれませんが、この映画は思想メッセージによっても価値が落ちるものではないと私は思います。
金や圧力で創らせたプロパガンダ創作とは違って、監督自身の思想で描いた芸術作品と感じられるからです。
ただ、鵜呑みにしてついていかないよう暗喩の意味と歴史をよく学んでいただきたいと思います。

かつて独裁ファシズムが吹き荒れた時代においては共産主義が正義と呼ばれ、悪魔崇拝が救済だったことは事実。
だからこの映画の舞台においては悪魔崇拝を肯定的に描くのは妥当だったと言えます。
そんな過去の歴史を見事に暗喩で描いた作品として、私はこの映画を「傑作」と呼びます。
中身も左翼作品にありがちなスッカスカ(文化破壊目的で無意味、無意義に仕立てる)ではなく、濃厚に詰まった思想があり観る者を“満たす”素晴らしい芸術です。

しかし一方で、ここに登場するレジスタンスの旗手たちが当時すでに相当残虐なジェノサイドをしていた事実もあります。
また、レジスタンス後に彼らの態度は見事に逆転しました。つまり抵抗者側からアッと言う間に恐怖の独裁支配者側へ転落してしまったわけです。フランコやヒトラーも真っ青、遥かに上回る虐殺や非道を重ねてきた。今現在も嘘をつき続けている。
このため私はあのテロ集団へ手放しの称賛ができません。
今も弾圧され苦しんでいる人々のことを考えれば、過去の共産主義者へも拍手を送れないのです。

監督自身はどうだったのでしょうか。共産主義による恐怖支配を100%肯定的に考えているのか。
映画の中盤からパンがその姿のままに邪悪な態度を採るようになります。オフェリアに「あなたは地下へ帰る資格を失った」などと言って脅し、恐怖を与えてコントロールするようになる。これは全体主義者である彼らの常套手段を表しています。
オフェリアは気付いていないが、彼女は詐欺に遭っているのだと観客には分かるようになっている。

この映画を観た人が一番謎に思うのは、憐れな結末で地下へ迎えられるオフェリアは幸福だったのかということでしょう。
オフェリア自身は幸福そうですが。
監督は果たしてこれを「救済」として描きたかったのかどうか? が謎なのです。

全編を通し、オフェリアが詐欺師に騙され誘惑され、地下へ引きずり込まれた憐れな少女に見えることに監督の計らいが窺えるでしょう。
ある種の宗教団体を信じて生贄にされた人のように、幻惑されたまま死んだのなら本人は幸福だと言えるのか。
地上の悲惨な現実に比べたら「地下」の暗闇のほうがマシだと信じられるか。…

これは西洋哲学における、
「神と悪魔どちらが正義なのか。天使と悪魔のどちらへついて行くべきか」
という大きな争点に関わるのだと思いますね。
どちらも同じもの。一神を信じる者は同じ地獄に行くことになるのだと気付き、本当のリアルに目覚めろと監督は言っているのか。それとも西欧にはもう正しさなど残っていないと嘆いているだけか。

★4/15追記。このラストの解釈について、私とは別の視点のレビューをいただきました。私より深い解釈をされていると思います、補足としてお読みください。
【補足】『パンズ・ラビリンス』に別視点からのレビュー

日本人は「悪魔崇拝」が何であるかを知らない


最後にこの映画でも描かれた西洋思想について大事な話を置いておきます。

この映画が「悪魔崇拝」を表しているからといって即、邪悪だ!こんな有害なもの見てはいけない!と思わないようにしてください。
外国に飼われて利用されている日本コミックのように、明らかに捏造史の嘘をばらまくために造られたプロパガンダ作品は有害ですが、監督自身の考えによる創作は左右どちら側にしても学べるものがあります。
(文学も同じ。村上春樹も同様だと思います。鵜呑みにするのはまずいけど)

それに昨今、日本で叫ばれている
「悪魔崇拝が世界の元凶! 世界人類はユの悪魔崇拝者に支配されてるー」
という陰謀論はキリスト教系の新興カルトへの誘導ですので信じないようにしてください。

【参考】陰謀論カルトに気を付けて。都市伝説に仕掛けられた罠

多くの日本人は「悪魔崇拝」が何であるか知らないので、「このシンボルは悪魔だー」と言われると鵜呑みに信じてしまうのだと思います。
まるで生まれたてのヒヨコ。

上でも少し触れましたが、そもそも「悪魔崇拝」とは一神教が他の宗教全てに貼った誹謗中傷のためのレッテルです。

たとえば…

・イスラム教の始祖マホメット(バフォメット。絵にはインド、ヒンズー教への誹謗中傷が含まれる)
・古代ギリシャの神全て
・北欧の神々、特にオーディン(オーディンを示す吊るされた男は悪魔崇拝のシンボルと中傷されている)
・五芒星、六芒星、そのほか自然に存在する図形の全て
・太陽神(アマテラスも西洋では悪魔)

等々へ不当に「悪魔」のレッテルが貼られています。許しがたい独善ゴーマンの誹謗中傷、大嘘です。

【関連記事】水瓶座時代 オーディン復活、盗まれた看板が取り戻される

つまり本来は「悪魔」という名の神を崇拝する宗教など、この世になかったのです。

自分以外の者には「悪魔」というレッテルを貼り、殺せ・殺せ・殺せ!と叫び続けた。それが一神教。
どっちが悪魔でカルトなのか明白ですね。
(もちろん行いで言えば一神教こそ本物の悪魔崇拝と呼ぶべきでしょう)

しかし中世、地下に潜っていたギリシャ文明を受け継ぐ人々が、自ら「悪魔崇拝」と名乗って自由を主張し抵抗し始めた。
言うなればレッテルを利用するため自虐して名乗ったのですね。
敵が自分たちのことを「悪魔」と呼ぶなら、いっそ悪魔を神として掲げて戦おうという開き直り。
これがヨーロッパに自由主義の風を巻き起こします。やがてその自由主義運動はフランス革命で結実します。

だからこの映画で描かれたように、悪魔崇拝を正義として見立てる考えはかつての一神教支配へ抵抗していた時点では正しかったと言えます。
地下へ追いやられた古代文明は、暗黒の中世においては確かに救済だったわけですから。

しかしその後、近代19世紀頃になると様相が変わってきました。
それまでキリスト教に庇護されながら蛮行を愉しんできた者たちが、次第に追いやられ地下の「悪魔崇拝」へ潜り込み占領し始めたのです。
そんな人々によって「悪魔崇拝」の場は蛮行を愉しむ場に変えられた。
このような土壌から共産社会主義という恐怖の全体主義が生まれ、自由主義の人々を騙して絡めとり虐殺のための手先としてしまった…。

自由を求める人々は「悪魔崇拝」という自虐の看板さえ奪われてしまった、と言えるでしょうか。
単なる誹謗中傷のレッテルに過ぎなかった「悪魔崇拝」が、本物の悪魔たちによって支配されたのですね。

――そして神を殺し玉座を奪った全体主義者によって、再び虐殺が繰り返された。神も悪魔も同じ。反転しても同じ者たちが虐殺して女子供を貪る…。

何故こうなってしまうのかと言えば、西欧には右でも左でも一神教しかないからでしょう。二元論というもの。

このループから抜け出すには一神教を完全に捨てて、個人性を大切にする「多神教」の文化を蘇らせなければなりません。
今度は「悪魔」と名乗らずに古代復興すべきだということです。
もし多神教が昔のとおり蘇ったなら、人類は本来の生き方を取り戻すことになります。

ただ、これは西欧に限った話。
日本人は特別に新しい思想を考え出す必要はありません。
日本はもともと多神教の国です。
だからそのまま古代からの思想を守れば良いだけです。
キリスト教系カルトの物真似して「悪魔崇拝ガ―!」などと叫び、アマテラスに誹謗中傷のレッテルを貼ったりしてはいけません。
一神教について行けば、行き着く先は天国・地下どちらにしても地獄。これだけは明白なことです。


28日のメールにて、『パンズ・ラビリンス』には私がブログで表現していることと共通の考えがある、と言っていただきましたが鋭いご指摘です。
ある意味では正解。私は多神教の世界をずっと表現してきているからです。
と言うより、私は体験を書いているだけなんですがね。生まれ変わりなどの実体験から導き出される思想が多神教に属すというだけ。つまり多神教が宇宙の真実。
だから、ギリシャ神話へのリスペクトがあるこの映画の一部に、私のブログにも共通した思想を感じ取られたのではと思います。

『パンズ・ラビリンス』に似ているとしてご紹介いただいたアニメ、『ブラックジャック』なども日本の思想を表現していますから、確かに似たところがあるかもしれませんね。
(日本の思想は古代ギリシャ思想とよく似ています)
だから日本の思想が好きで共鳴している方は、『パンズ・ラビリンス』にも感じ入るはずです。

ただ日本思想と違うのは、スペイン内戦時代のパンは上に書いた近代のカルト思想へと導いてしまうことです。
同じ匂いがするからといって完全に同じではないということですね。
西欧の創作にはこのように政治誘導または宗教勧誘が含まれますので、幻惑されないよう多少の勉強は必要と思います。

最近ではかろうじて『鬼滅の刃』が良かったですね。あの作者さんは日本~中華の古典にお詳しいと思います。
ヤングジャンプや講談社系のマンガには、善悪破壊の気配があり少々危険な薫りがしますね。たとえば『進撃の巨人』などは面白いストーリーですが、「道徳は悪いもの」との共産主義誘導は鵜呑みにしないほうが良いでしょう。

とにかく古典的な人類の正義感を混乱させたり、反転させようとする意図のある作品は「パンの囁き(共産プロパガンダ)」と思った方が良いと思います。

少しで構わないので近代西欧史を学び、精神防衛の力を磨かれてください。
当ブログでもできる限り手助けをしていきます。

 

続き>>別視点からの考察

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