文章で天下を取れるか? Web診断テストで“文章力”を調べてみた

 昨夜、家族が某局の『歴史探偵-情報戦 関ケ原』を観ていました。
私はまた歴史修正にイライラすることが分かっていたから観ていなかったのですが、


文章には人物の性格が表れる。…石田三成は自分の言いたいことを詰め込むタイプで、文章が長かった。このため交渉に失敗した


という話だけ耳に入ってきて唸りました。
なるほど、そういうことはあるかもしれません。

私もご存知の通り終わりの見えない長い文章を書くほう。読者様にはご迷惑おかけしています。

やはり自分の性格は石田三成に近い部分もあるのかもなと考えていました。
(現実の性格タイプはだいぶ違うと思うのですけどね。こちら別館記事は孔明と三成を比較した記事ですが、私と三成でも同じ感じに差が出るかと)



今はなき文章で性格診断するテストを探して


そんな話で思い出したのが、以前やった「文章で性格診断するテスト」です。今はもうサービス終了で無くなってしまいました。

他に似たようなサービスは無いかな? と思って検索していたところ、性格診断テストは見当たらなかったのですが文章そのものを評価してくれるプログラムを幾つか見つけました。

私はプロの文章書きを目指したことはないので、今までこの手の診断はスルーしてきました。
でも公開で文を書いている者として性格診断より大事なテストでしたよね。(先に受けるべき)

反省し、今さらですが受けてみました。



文章力診断テストご紹介


実際にやってみてお奨めだと思った文章力テストを、筆者サンプル付きでご紹介していきます。

なお、全て日本語の原文対象の診断テストです。翻訳文では正確に診断できないかと思います、ご了解ください。

あなたの文は、どんな文豪に似ている? 診断


文体診断ロゴーン

一番の有名どころのようです。
自分の文がどんな著名人(日本人のみ)の名文に似ているか? その相似率とともに診断してくれます。

お遊びの要素もありますので、気楽に楽しめるかと思います。プロのライターや小説家を目指しているわけではない日記書きさんにもお奨めです。

〔筆者サンプル〕
画像で引用しておきます。
一般ブログ記事で頻出した結果:

硬い文章ということですかね。偉人の先生方にはとうてい及びませんが、類型としては近いのかもしれない。

小説も調べてみました。
短編小説『空蝉』



『空蝉』には漱石へのリスペクトを含めたので狙い通りではあります。遥かに及ばずですが、嬉しく思いました。

(略)


下に表示される文章評価はだいたいこのように出ます。

ブログの一般記事:



小説:


 

一般記事では一文が長くて読みづらいと。
小説だと読みやすくなるのか。ふむふむ。
確かに、無意識にそうしているかもしれません。

ブログの一文が長いことは自覚しています。と言うより、あえて長めに書く時が多いです。
解説などの記事で短い文を乱発すると少し幼い印象になるというか。ロボットが量産する無味乾燥なマニュアル記事のようになってしまう。

でも、読みづらくてご迷惑をかけているようです。
もう少し一文を短めにするよう心がけましょう。
(そんなことより話があちこち飛び、まとまりないことのほうが問題だと思いますが…)


日本語としての基本的な文章力を分析


jWriter 学習者作文評価システム

これは外国の方が日本語の習熟度を調べるためのテストですが、日本人の基本的な文章力を調べるのにも使えるだろうと思います。

結果は入門~超級まで。
それ以下または以上の場合「測定不能」と出ます。
 
〔筆者サンプル〕

最近書いた記事のなかで、一般向けのエッセイっぽい記事を選び送信してみました。

※この当時は詳細エラーで表示されなかったため2023年8月23日 最新エッセイで再測定
『トリリオンゲーム』面白いです。現代版だからハッタリ設定も無責任に楽しめた  

 


いきなり「超級以上」と出て慄きました。
「測定不可」と出たのでエラーかと思いましたら、プログラムが判定できる範囲を超えているのだそうで。
全員天才と出るジョーク・テストみたいですね。笑

詳細結果。論文ではないので論理性は関係ないと言えますが、表現力は高かったようです。
「易しい表現と難しい表現をバランス良く使っている」とのことで心がけ通りの評価でした。


 

自信をつけるにはとても良い結果。
でも日本語圏以外の人向けテストですから、日本人の大学生以上ならばここが及第点かもしれません。

論理性は「中」とのことで低めに出ました。エッセイですから当然なのですが、接続詞が少ないことでも低めに出るそうです。
あまり接続詞を乱発するとやはり幼稚な文になってしまうため意識して控えてきたもの。しかしこのAI診断を見ると、SEO的には接続詞が多めのほうが「論理的」と判断され有利となる可能性があります。


論理が成立しているかを診断する


●森リン 作文小論文の自動採点テスト

※何故か当ブログから繋がりにくくなっているようなので、URLコピペ入力でどうぞ。
https://www.mori7.net/moririn/moririn1200.php

論理性に焦点を当てて分析するなら、こちらのテストのほうが向いているようです。
内容で総合的に文章を診断するプログラムです。
個人的に、“文章力”という観点で総合的な評価を得たいならこのテストが最も優れていると感じました。

〔筆者結果〕
始め上と同じ『批判と悪口の違い』を入力したところ97点だったのですが、ランキングで拒絶されたので他の文を入れ直しました。

『「正義は勝つ」のか? 改めて考察』のうち、余分な文(他記事に関する話)をカットして入力:

 

なかなかの高得点で嬉しく思いました。

今のところランキング一位を取っています。思考力が高めなのが嬉しいですね。(トップページ、ランキング表内の数値と個別ページの数値が異なるのは謎)



※その後、秒速で削除されました。何故スパム認定されたのか理由は不明。文章が何かご不満な内容だったのかもしれません。または生徒さん限定のランキングだった?(だとすれば公開すべきではない)



2023/4/11
その後、ランキングそのものを撤去したようです。

確かに公開の基準をもうけていないのは危険で、営業スパム文の温床になるから管理すべきと私も感じました。しかし営業目的ではない一般人の文章を排除したのは不可解過ぎる。
どうやら自分たちにとって都合のいい人の文章だけをランキング上位に掲げておきたかったらしい。
つまり検閲をされている様子。
あまり良いサイトではないかもしれません、入力する文に個人情報を含めないようご注意を。

 

【他に診断サイトを利用する際の注意】


感想


というわけで、文章力テストを受けてみたら意外と自信を持てる結果となり安心しています。

私は子供の頃から文章を大変に褒められてきました。
読者様からもたくさんのお褒めの言葉をいただいてきましたね。ありがとうございます。
しかし実は、自分では雑然とした汚い文だと感じており見直すのも嫌になるときがあります。実際に誤字誤記が多く雑然としていることは事実ですから、その点は本当に反省し修正しなければなりません。

ただし今回、機械の客観的な診断を受けて「そこまで貶めるほどの文ではない」と分かりました。
特に、何の気負いもなく気楽に書いた文が高得点を出すと分かったことは意義ある気付きだったと思います。
(ベースの力を活かせば良かったと分かった)

本当に今さらですがもう少し気合いを入れて文筆がんばってみますか。


ちなみに冒頭の歴史話について――
私は文章では天下(トップ)を取れる可能性があったようですが、「文章によって天下を取れる」かどうかは疑問です。
たとえ文章力が高くてもそれだけで人を動かせるとは限りません。
徳川家康が勝ったのはもちろん文章だけの力ではありませんね。
"正義は勝つ"の理論と同じように、前提としての軍事力学の考察、政治力も必要です。「心」が差となるのは人事を尽くした後の話。

〔追記〕ただし矛盾するようですが、「心」も「正義」もスタートの第一にあるべきもので、すべての根幹です。心が無ければ行動は発動しませんから。それでも物理次元の勝利を得るためには、物理の準備をしなければならないということ。民主主義が正しく機能している世界では、「心」が人の支援を呼び物理次元でも有利にさせます。これが最後の差となります。
つまり、心スタート → 物理準備(人事を尽くす) →最終段階で心が差となる ということでしょうか。現代では心を失っている人が多いので、支援を得てこの方程式を叶えるのは難しいかもしれませんが。
物理だけ整っていればどのような蛮行をしても永久に栄えていけると考えるのは明らかに誤りですが、逆に心さえ正しければ物理など関係ないと言って現実をおろそかにするのも怠慢です。
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批判と悪口の違い。“素人の批判(感想)”でも、誠実なら役に立つ

 

 

 前回少し緊張する話を上げましたので、今日は肩の力を抜いた雑談です。

遅ればせながらサッカーW杯・決勝行きの試合を見て感想を書きました。別館で上げています。

祝サッカーW杯、スペイン勝利。森保監督は韓信か?【背水の陣】

軽めの雑談ですから始め当ブログに書いていたのですが、韓信を出したあたりから
「ハッ… ここに書くべき話ではない」
と気付き別館へ移動しました。笑

まあそれを言ったら“歴史の話”全てがここ向きの話ではないですけどね。約一名については、しょうがない。私自身がプライベートで抱える問題でもあるため。

ニワカファン=通り魔の悪質な誹謗中傷


少しだけその歴史の件に関係し、ここでしか書けない話を補足しておきます。

別館記事から転載:
批判はいいが、個人攻撃の誹謗中傷はアウト

今回の大会では良い話ばかりではなく、悪い話も報道されていました。

日本人の「手のひら返し」についてです。

大会が始まる前は森保監督を「無能」と呼び、ドイツ戦で勝利したら手のひら返しで「ごめんなさい」「感動した」と称賛、次のコスタリカ戦で敗北すると再び手のひら返しで誹謗中傷……。

特にコスタリカ戦後の誹謗中傷は醜いものでした。選手への個人攻撃だけではなく、選手の家族にまで突撃して暴言を吐く人もいたとか。最低過ぎる。心の底から軽蔑、人間性を疑います。
ご存知ない方もいると思うので一応説明しておくと、サッカーワールドカップの試合で日本代表が勝ったら称賛の嵐、負けたら誹謗中傷という世間の「手のひら返し」が酷過ぎて話題となっていたのです。

スポーツ観戦で自分が応援しているチームの勝敗に一喜一憂するのは当然なのですが、今回は選手への個人攻撃の内容が目も当てられないえげつなさでした。
捻じ曲げた噂話で選手の人格を貶めるだけではなく。
家族まで攻撃するという醜さ、おぞましさには呆れ果てます。

まるで三国志で蜀貶めをしている者たちのよう、吊るし上げを悦ぶおぞましい性質がそっくりだなと感じました。
あれは政治イデオロギーによる文化破壊なので、さらに悪質ですが。

サッカーで噴出する誹謗中傷はおそらくニワカによる犯罪。日ごろスポーツチームを応援したことはなく、何の思い入れもないからこそ選手を人間扱いせずに叩くのでしょう。
むしろ嗜虐な快楽を得る餌食として敗北という負い目を持つ相手を見つけ、サンドバッグにしているのだと考えられます。ソーカツ・リンチ!というやつ。

相手が弱ければいい、叩ける材料がありさえすればいいと思っている。人を殴ることで快楽を得たいだけ。
まるで通り魔のような犯罪者ですね。
野球と違って、サッカーW杯のときはニワカファンがどっと増えるのでこのような犯罪者も紛れており、目立ってしまうのでしょう。

そんな歪んだ犯罪者たちの最大の被害者が選手であることは言うまでもありません。
でも実は、一生懸命に応援してきたファンたちも被害者なのではないか? と私は思います。

真剣なファンがチームの悪いところを指摘するのは当然。
怠慢に怒るのも当然のことです。
人生を捧げかねないほど応援しているファンだからこそ、次からは改善して勝ってもらうために厳しく批判するのでしょう。

人を叩きたいだけという歪んだ欲望を持つニワカがいるから、そんな真剣なファンたちの真っ当な批判さえも巻き込まれて「悪口」と一括りにされる。そして口を封じられてしまいますね。

私は彼ら本物ファンの口が封じられることこそが最も問題だと思います。

上の別館記事でも書いていますが、適切な批判ならしてもいいのですよ。
むしろすべきだと思います。
曹操ファンのように明らかに間違っていることまで許容したり無かったことに歴史修正して、歪んだ賛辞をばらまくのは本物のファンではないと思いますね。

「甘やかすな」とはそういうこと。
歪んだ賛辞を飛ばすことが本人のためにならないのは当然のことですが、すでに存在していない歴史人物に対してもやってはいけないことです。
事実捻じ曲げは自分へ還って来ます。健全な議論という言論を封じることで思考停止の道へまっしぐら。それは自分自身の思考も潰して、奴隷への坂道をまっしぐらに転がり落ちることを意味します。

たとえば現代の曹操ファンなどはそのような奴隷の思考停止状態に堕ちていると言えます。
史実を捻じ曲げ気持ち良くなっている様子は、傍から見たら完全に頭のおかしいカルトです。

批判と悪口(誹謗中傷)との違い


なお、批判と悪口の違いは
ちゃんと現実のその人を見たうえで言っているか否か
でしょう。

私も当ブログに対して、ほぼ一見さんのニワカが何らかの思い込みで石を投げて来るときは
“かっちーん”
と来て怒る場合があります。


相手が自分を表面的にしか見ていない、浅いレッテルを貼っているなということはすぐに分かります。
ろくに知りもしない人に石を投げる行為は無礼極まると思います。よくニワカでメールを送って来られるものだなと、その勇気だけには感心しますが。

あとは私の場合は特殊なのでしょうが、標榜している(と言うのか?)人物のフィクションや、歪んだ歴史家の解釈をそのまま悪口としてぶつけて来られると
「この人、アホなのかな…?」
と知能を疑ってしまいます。(すみません)
かつて他者創作マンガのイメージで本気の非難をぶつけられときは失笑しました。
メッセージを送る前にまず、本人自身の記事くらい読みましょうよと思います。せめて基本の記事くらいは読んで。

――この訴えの裏を返せば、きちんと真剣に観てくださっている方からのご指摘は全く不快ではないということです。それどころか、ありがたいと感じます。

あくまで私の場合ですが。ちゃんと見てくださっているのだなあ、私のためを想って言ってくださっているのだなということが伝わってくるメッセージは、たとえ耳に痛いような言葉でも宝物となっています。

なお、仰る通りに動けるかどうかは別問題です。
(申し訳ないです。私は確信犯として行動していることがよくありますので、方向転換できないこともあります)

まとめ。真摯なマニアの意見は、経験がない素人からであっても役に立つ


記事のポイントを短くまとめます。

今回の件で何よりもお伝えしたかったのは
「素人の批判・感想は役に立たない、ということは無い」
という話です。

ニワカが浅い知識で投げつける悪口は、何の役にも立ちません。
それは有害なので無視して良い、無視すべきノイズです。
ただ中には本当に真摯なファンで、よく見ているために本人たち以上に知識を持つディープなマニアの方がいます。
そんな誠実なマニアの話は、忖度した専門家のアドバイス以上に役に立つのではないかと思います。

私も実は自分についての的確なご意見を参考にして、反省しているのですよ。
経験のない素人ならではの着眼点だからこそ参考になる場合もあります。

だからサッカーでも本物マニアたちの声は必ず選手たちに届いていると思いますね。
ニワカ以外のファンの方々は遠慮せずに応援し、真心から生まれた批判(指摘)を発信し続けていただきたいです。

〔追記〕
ただし批判はしても冒頭アイキャッチ画像の言葉を忘れずに、プロを称える謙虚な気持ちは持ちましょう。

サッカー日本代表選の後、案の定
Twitter大荒れ(手のひら返し、戦犯などなど)
ネガティブな意見を見ると心が擦れて疲れる。

相田みつを氏の今日の言葉をお届けする。
「批判はしたけれど
自分にできるだろうか」
相田みつを

https://twitter.com/0228andmore/status/1596866250663075840より

 

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2022年、30年ぶりの山中湖ドライブ

 


秋も深まり、“季節の変わり目の体調不良”はだいぶ治まってきました。
それで体調を整えるためと、世の中を眺め過ぎて疲れた心を癒すために近隣の観光地をドライブしています。

先日は久しぶりに丸一日の休みが取れたので、少し足を延ばして山中湖へ行って参りました。
秋晴れで風も涼しく気持ちのいい観光となりました。

ポンコツの古いスマホで写真を撮ってきましたよ。
何年ぶりかでインスタに投稿しました。ほとんど使っていないSNSでフォローも少なく、誰が見てるんだという感じですが。



平日だったためか意外とすいていて気持ちよく観光できました。
今のところはまだ外国の方の姿も“チラホラ”という程度でしたが、これから殺到するでしょう。

だからついでに、前から気になっていた忍野八海(おしの・はっかい)へも寄ってみました。
外国から人が押し寄せたら落ち着いて観光できませんので、最後の機会になるかもしれないと思って。

相方によればどうやら30年前にも来たことがあったようですが今のように整備されていなかったせいか全く記憶に無し…。ゴメン。
今回は透き通る池に驚愕したので思い出に残ることでしょう。こうして証拠写真も撮りましたし。笑



忍野八海はこじんまりとした箱庭のような美しい観光地で、私は楽しめました。
遠くから訪れた方はがっかりするかもしれませんが…。
もう少し広めに、倉敷の美観地区のように整備できたらいいかもしれませんね。

ともあれ、有名な観光地を記憶に収めることができて良かったなと思います。
こんなご時勢ですからなるべく行ける時に観光地へ行き、思い出を増やしたいものです。

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四柱推命でも前世は表れている? 回答:キャラの共通項は表現されるらしい


 〔アイキャッチ画像:ウィキペディア陰陽五行説より。素晴らしい図!〕

世俗ばかり眺めていると精神を病みそうになるので、息抜きで少し占いの世界へ戻ります。

最近、読者様からのメールをきっかけとして書いた四柱推命の記事
変人天才認定「暗合異常干支」、西洋占星術ホロスコープとの共通項
のアクセスが上がってきています。(教えてくださった方、ありがとうございます)
それでちょっと四柱推命も勉強せねばという気になり、調べてみました。

と言っても、無料占いサイトで自分や身近な人の出生日を入れて試していただけですが。

しかしおかげで驚くべきことが分かりました。
それは私が今まで考えてきたよりも、東洋推命と西洋占星術の占い結果には共通するイメージが多かった、ということです。

細部の手法と占断が一致するという意味ではありません。その場合は源流が同じというだけのことでしょう。
そうではなく、全く源の違う異質な占い技法なのに、“全体で明白に共通するキャラクターが浮かび上がってくる”のが面白くも恐ろしくて背筋が寒くなりました。

人生計画を策定する高次のタイムマスターは、いったいどれほど完璧な計算力をもって生まれる時空を設定するのでしょうか?
東西どちらの手法からでも人の過去・現在・未来が読み解けるよう計算されているとは驚きです。

先に四柱推命サイトからご紹介


四柱推命の命式は、

マニアック四柱推命 さん
四柱推命スタークローラー さん

をお借りして調べてみました。
上の二つのサイト様は無料で命式を出してくれるうえ、初心者向けに詳細な解釈も表示してくださいます。

他に、日本流の四柱推命ではなく、中国原典の『淵海子平』でも命式が出せる※サイト様はこちら。解説はありませんので慣れた人向けです。

四柱推命 精密命式 さん


※日本流と原典、どちらが当たっているか?

私は日本の四柱推命では「偏官」「偏印」ばかりの変わり者な命式。いっぽう原典では「正官」「印綬」が中心のお堅い感じ。どちらが正解かは分かりません。現実の自分はその両者を足して二で割った感じ…でしょうか。(完璧主義の堅苦しい良い子でもなければ、親分肌な義侠リーダーでもない)
どちらの手法が圧倒で正確ということもなさそうなので、両方で占ってみるのが理想だと思います。

【追記】
私は宿曜占星術の手法について「原典に従うべき」と言ったためこの話が矛盾しているように思われるかもしれませんが、宿曜の場合は西洋占星術が源流なので事情が異なるのです。中国~日本の、西洋占星術知識ゼロの人が適当な思い付きで創作した手法は当たらなくて当然(現に的中率が低い)、だから採用すべきではないという考えに基づきます。

占い手法で原典・新解釈のどちらが優れているか、私はその成立背景とともに的中率で判断しています。たとえば太陽占星術のように、思想政治的な理由から捻じ曲げられた手法は当然ながら当たらないのでダメ、とか。サビアンは当たるので採用、とか。
何度も書くように占いは歴史学とは違います。現実結果を法と考えるべし、ということです。


東西占いで表現された共通キャラクター


では具体的な話をしていきましょう。

以下が四柱推命で読んだときの私の命式解釈(一部)です。
筆者についてご存知の方には、分かりやすい結果なのではと思います。

「印星大過」でした…


かつて日本の四柱推命では通変星と特殊性の吉凶を占うことがメインとなっていました。でも最近は原典の推命に近い、五行バランスを読む手法が主流となってきているようです。

そのおかげで初めて知りました。
私の命式は「印星大過」だったらしい…。
(と言っても深刻にとらえるほど多過ぎるわけではないようだが=命式に3つの定義に当てはまらない気が? 「自星」も弱くないので害が出ることはないそう)

/マニアック四柱推命より


印星とは、通変星の印綬・偏印のこと。
知恵や学問などの頭脳をつかさどります。

いっぽうで、行動や社交性を表す泄星、財星は弱い。

つまり命式全体で言えば、頭脳に偏り行動力は弱いという、なんとも痛い占断です。

おそらくこれは他者から見た私の、ステレオタイプなイメージ通りなのではないでしょうか?
例のフィクションキャラも浮かび上がってきました、ね…。(自分で言うのが痛い)

もちろん私の現実の性格診断テストの結果とも一致していますが、西洋占星術のホロスコープで表現されている人格とも共通していることに背筋が寒くなります。

五行バランス「合理と優しさ」


次に、五行のバランスで言えば第一に金が多く、次に水が多い命式となります。
これは次のような性格を表しているそうです。
⾦性が多い⼈は、合理的に判断して⾏動する⼈でしょう。物事を進める際には、情に流されることなく理性的にやり抜きます。何事も⽩⿊はっきりつけたいところがあり、あいまいさを嫌って⼀⼑両断に斬り捨ててしてしまうことがあるかもしれま
せん。
⽔性が多い⼈は、物腰のやわらかい気持ちの優しい⼈でしょう。無理に⾃分の主張を押し通すことを避けて、相⼿に合わせられるだけの柔軟さがあります。基本的には湖の⽔⾯のように穏やかな⼈ですが、時として激流のように感情的になることがあるかもしれません。

/スタークローラーより
言わずもがな。全くその通りですね。

合理でありながら情が強い。
この矛盾を同時に持つ……故に、常に冷静と情熱の間で引き裂かれ苦悩している気がします。
「合理=道理」という私の信念が通る場面であれば、この矛盾が有利となるのですが。

これこそ私が個性的と呼ばれる所以だと思う、たぶん。
核心を突いていると思います。
ここまで独特な解釈で当たっているのは、さすがにバーナム効果とは言えません。

「我が道を進む」出ました…


壬の性格と、西洋占星術における水瓶座の性格解釈がよく似ていることは前回も書きました。

しかし下のサイト様に書かれていた壬の性格は、現実の私――と言うより前世晩年の生き方を正確に表現しているようです。
⼈から指図されたり、命令されたりするのは好きではありません。
⾃分がやることに反対された場合、諦めるどころか、何としても⾃分の意志を貫こうとするのです。基本的に柔軟なタイプではありますが、⾃分が決めたことに関しては⼀貫性があります。1⼈でも平気なため、思いがけず⼤胆な⾏動に出る時もあるでしょう。
性格上、のびのびとした⽣き⽅になることが約束されています。固定概念や規則に縛られず、我が道を突き進む(★追記参照)のです。開拓を楽しめる⼈ですから、あえて先⾏きが不透明ない道を選び、⾃分の⼿で⼈⽣を切り開く場合が少なくありません。普通の⼈はなかなかできない⽣き⽅ができるため、周りの⼈からはうらやましく思われているでしょう。

https://rensa.jp.net/shichusuimeiより(一部無料の有料サイト)
……ぐうの音も出ません。仰る通りです。

でも「壬」って、こういう頑固なイメージの解釈ありましたっけ?
水瓶座だったら不動宮なので「柔軟な発想をするが信念には頑固」という解釈となるのですが。

もしかして私をモデルとして解釈文を書きましたか? と言いがかりつけたくなるほど正確ですね。笑

特に
「基本的に柔軟なタイプではありますが、⾃分が決めたことに関しては⼀貫性があります」
「1⼈でも平気なため、思いがけず⼤胆な⾏動に出る時もある」
はまさにその通りと思います。

「固定概念や規則に縛られず、我が道を突き進む」
には参りました。
我が道を進む、出てしまいましたか。西洋占星術と同じ結果ですね。

なお、「我が道をゆく」とは現代AIによるテキスト診断で最も頻出した評価でもあります。

★赤**氏らを喜ばせないよう、念のため追記。
現代性格分析によりますと、この「我が道をゆく」は単純に皆さんが想像する「我がまま・エゴイスト」とは正反対のようです。
筆者の鑑定結果、N型Ⅲ『知的ナイチンゲール』より転載
(奉仕するタイプだという鑑定に対して)
しかし、「イイ子」「従順」「忠誠なだけ」
と思われるとまた違います。
暴力主義者の言うなり、奴隷には決してなりません。奉仕する相手を決めるときも、奉仕すると決めるときも自分の意思です。
だから実は誰よりも「自分らしく」生きている。
それでマイペース・我が道をいく、との側面があるのでしょう。


キャラクター共通で、前世も表現されていることに


以上でバーナム効果とは言い難い、西洋占星術との一致がお分かりかと思います。
これは現代の私への評価であると同時に、前世晩年の表現でもあるように感じます。このことも西洋占星術のホロスコープと同じ。

「四柱推命に前世なんか表現されてるの?」
という疑問を持たれる方へ、回答は「表現されています」ということになるでしょう。
ただし西洋占星術と違って具体的にどの星が前世を表している、ということではなく。全体解釈で立ち現れてくるキャラクターが、前世の表現だということです。

これはただ単に、人(魂)は前回の転生晩年からほとんど性格が変わらないということを証明しているだけかもしれませんが。

キャラが立っている人は東西で一致する可能性大


前も書いたと思いますが、東西占いにおける共通度の度合いは人によってかなり異なるようです。

「西洋占星術と四柱推命でぜんぜん違うキャラになる」
と仰る方もいますね。

この差は何なのか?
はっきりとは分かりませんが、他者から見た強いキャラクターが確立されているかどうか、かもしれません。

私の場合、自分では「キャラが立っている」などと思ったことはもちろん一度もありません。しかし他人から見れば一定の強いイメージがある(…苦笑)ようです。そのことを早めに自覚させたかった高次の方々が、東西ともに共通のキャラクターが浮かびあがるよう出生時空を設定したのかもしれない、と考えています。

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「ロジハラ」とは何? ハラハラ、我がままのために正論が潰される現代

 


「ロジハラ――ロジックハラスメント」という言葉を『ワイドナショー』で小耳に挟み。

あまりにタイムリーな話だったので、思わず前記事『怒ると怖い星座ランキング:水瓶座、3位入り』へ追記したのですが、別枠でもう少し分かりやすく書きます。

ロジックハラスメントとは


番組によれば
「自分が正義だとの勘違いのもと正論を言って逃げ道を作らず、マウントを取るハラスメント」
という意味だそうです。

具体的には。

「友人に愚痴を語ったら“お前にも非がある”と言われた。ロジハラ~」

「ミスをしたら上司に“何故、ミスをしたのか”と問い詰められた。ロジハラ~」

ということらしいです……。

え、非があることを指摘してくれた友人をハラスメント呼ばわり? 上司が部下のミスについて「何故そのミスが起きたのか」理由を考えさせ、ミス再発を防ぐことも“ハラスメント”??

友人はともかく上司には部下を指導する義務があります。それなのに仕事で指導をしただけで「ハラスメント」レッテル貼りとは。職場で怒られるたび「パワハラで訴えるぞ!」と叫ぶ流行より酷いですね。

上司は部下がミスしたら、ミスの理由に関係なく必ず解雇すべきということですか? ロジハラを憎む人たちは「弁明の余地も与えられずに解雇されたい」ということ?

もう、何をどうして欲しいのか。滅茶苦茶です。


「正しいと勘違いしている者が正論を言う」、はおかしい


昨今、妙なハラスメントがたくさん発明され過ぎていて、その馬鹿馬鹿しさに苦笑することが増えましたが。

今回の「ロジハラ」は今までで一番笑いました。言葉の定義から既に矛盾していて、おかしいからです。

自分が正義だとの勘違いのもと正論を言って……
日本語が滅茶苦茶。

“勘違い”と定義されているということは、相手方のほうが100%間違っている(つまり正義ではない)と断定していることになります。いったい、いつ・何故そんなことが判明したのかは謎ですが。「アタシに文句言う奴は完全に悪で間違っている」との断定ですか。そんなハラスメントを主張する側のほうが傲慢な気がしますが、気のせいでしょうか。

まあ仮にその人の主張が間違いだと断定されたとして。間違いなのに「正論を言う」との表現はさらにおかしい

完全に間違った言い分を主張している者の発言は、言葉として「正論」とは呼ばないです。正しいからこそ「正論」と言うのですから。

(こういうのがロジハラ? 笑、上等ですよ。何でも「ハラスメント」と言って相手の言論を封じる前に、まずは日本語の誤りくらい正してください)

似非ロジックを「正論」と呼ぶのは誤り

ネットでロジハラを検索してみて思ったのは、おそらく大多数の人は

1.明らかに間違った主張を、一見筋が通って見えるような(でも実は筋が通っていない)こじつけ論理で押し付けてくる行為
2.相手の評価を落としたい・マウントを取りたい(優位な立場を得たい)というだけの目的で、相手の小さなミスを探して責め立てる行為
などの嫌がらせを指して「ロジハラ」と呼んでいるらしいということです。
これらの嫌がらせはどちらも「正論」ではない、似非ロジックと言えます。

これはモラハラDVです

1はモラル・ハラスメントのDVでよく行われることではないでしょうか。また、犯罪者が自分の罪を正当化するために使う手法※でもあります。

※K産思想で使われる伝統手法。どこからどう見ても明白な嘘なのだが、こじつけの論理を大声(工作員大量投入)で主張することによって「事実」であるかのように捏造してしまう。これによって殺人犯が善人に、被害者が悪人に反転。歴史も書き換える(実例)。どのような犯罪行為も可能になる、と説く

ライバルを貶める謀略

次に2のほうは、政敵などを陥れ、社会的評価を落として潰すために用いられる謀略ですね。昨今の国会や日本のメディアでもよく行われています。

友人間でも行われることが多いのでしょうか? 女性同士の足の引っ張り合いや、男性同士の蹴落とし合いで悪口言いふらし? そのように裏で貶め合う関係なら「友人」とは呼べないのではないか、友達ごっこやめたら?と私は思いますが……。

もしも上司から、毎日のように小さなミスを過剰に責め立てられ精神的に追い詰められたなら、確かに虐待で犯罪と言えます。その場合は判例も多く出ている「パワハラ」となります。

「ロジハラ」では言葉の意味も矛盾していて筋が通りませんので、裁判で認められることは有り得ないでしょう。正論では責任を問うことはできない、何故なら上司が部下を正しく指導するなどの「当な理由がある場合はハラスメントに該当しない」からです。

似非ロジックで押し通すことは、「詭弁」と呼ぶ

一つ、このような場合にぴったりの日本語をご提案いたしましょう。

間違った主張をあたかも筋が通っているかのように見せかけた似非論理で押し通すことは、「詭弁(きべん)」と言うのです。

参考:Wblio辞書より

き‐べん【×詭弁/×詭×辯】
1 道理に合わないことを強引に正当化しようとする弁論。こじつけ。「―を弄(ろう)する」

2 《sophism》論理学で、外見・形式をもっともらしく見せかけた虚偽の論法。

[補説] 1は「奇弁」、2は「危弁」とも書く。また、「弁が立つ」との混同で、「詭弁が立つ」とするのは誤り。

正しくない論理を「正論」と呼ぶのは言葉として誤っているので、ぜひこの「詭弁」という言葉を使ってみてください。

我がままな人が言い逃れるためのレッテル貼り


モラハラやパワハラに当たる「詭弁」を責めているのではなく、ほんとうに「正論が嫌だ!」という意味でロジハラを主張している人たちもいるようです。

そんな正論を憎む人たち曰く、
「私がどんなに悪いことしても共感してナアナアにして欲しい。罪を責めずに、太い逃げ道を作って欲しい。(そうしない奴は悪!!)」
とのこと……。


確かに正論を言うべきではない時がありますし、言い方が悪ければ不必要に相手を傷付けますから、「ロジハラ」と言いたくなるのも分かります。
でも、いつもどんな場合でも「正論は悪」と主張。とにかく「正しいは悪」と意味不明のことを主張し、「どれほど悪いことした者でも正しく裁いてはダメ、無罪放免にすべき」と声高に叫ぶ。……これは完全に人としてアウトと思います。

私はこの「ロジハラ」という用語を知ったときに、昨今の自己中心的な犯罪(児童虐待・快楽殺人・レイプ)や、たくさんの死者を出す危険運転による悲惨な事故を思い出しました。罪は明白なのに加害者たちは「アタシ悪くないもん」と言い張る。彼ら彼女らは自分を裁く裁判官のことを「ロジハラきもい! あっちが犯罪者!」と責めているでしょう。

こういう我がままな人が、現代では実際たくさん増えています。私もプライベートで何度か遭遇しています。

なんだか、世の中がさらに我がままな方向へ流れている気がしますね……。

とにかく嘘や罪がばれても一切謝ろうとしない、それどころか被害を訴える人に対して「あなたたちのほうが悪い!」と逆に責めて正論を封じようとしますので、まるで価値観の違う異次元空間に迷い込んだかのような気分になる。被害者はもちろん、事件に関わった法律家たちもメンタルにダメージを受けてしまいます。

正しいことが潰されてしまう現代。何故か加害者だけが優遇され言い逃れを許す社会ですので、被害者は永久に救われません。


ハラスメント・ハラスメントに注意


なお、何もかもハラスメントとレッテル貼りして他人より自分を優位に置こうとする。こちらの行為こそ実は最近「ハラスメント・ハラスメント」と呼ばれ問題となっています。これは法的にも訴えることが可能と思いますので、気を付けていただきたいです。

ハラハラの定義は以下のサイトが分かりやすいです(太字強調は当ブログ筆者による):
ハラスメント・ハラスメント(ハラハラ)とはなんですか?

ハラスメント・ハラスメント(ハラハラ)とは、自身が「嫌だ、不快だ」と思った他者の行為や言動について、「ハラスメントだ」と過剰に主張する嫌がらせ行為です。

…被害者にとって声を上げやすくなった半面、本当に被害者なのか怪しい社員も声を上げてしまうという嫌がらせも発生中。それこそが、ハラスメント・ハラスメント(ハラハラ)です。


余談ですが、このように「ハラスメント」を主張して会社組織を潰す手法も、伝統的にあの集団が行ってきたものです。かつては「労働闘争」と呼ばれました。

(ややこしい話だったのでカット)


現代では「ハラスメント」というライトな言葉に言い換えているだけで、やっていることは同じ。

それだけではなく、正義正論破壊で社会全体・国家を壊し、人間性を奪うための謀略として計画的に行われています。

今、Twitterなどで「ロジハラ」との言葉を拡散しているのもあの集団でしょう。日本のコミックでも「正義なんか無い」と主張されて善悪反転の洗脳が行われています。


行きつく果てはあの殺戮地獄の世の中。これは大げさな妄想ではなく、現実として人間性を破壊することで地獄を実現させた歴史があることをどうか知っていただきたいです。

「ロジハラ」を責めているほとんどの女子たちはこういった背後の狙いに気付かず、夫や彼氏の理屈っぽさを責めるためだけにこの言葉を使っているのだと思います。でも、今のまま正論を潰す我がままを続けていたら子供の教育は一切できなくなりますし、いずれ自分が被害者となったときに誰も助けてくれない社会となっているでしょう。(すでに日本は概ね実現していますが)

もう一度下の記事を貼っておきます。道徳から出た正論は人間性を守るための免疫:


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引き寄せ法則と運命絶対論、どちらも信じ過ぎてはいけない理由〔運命論2022年版〕

 


「運命 VS 自由意志」の論戦が、未だにあちこちで繰り広げられているようです。
同じ話を繰り返して申し訳ないですが、この件について2022年の現在における考えを改めて書いておきます。

引き寄せ法則が相変わらず大声で叫ばれている

近年は“引き寄せの法則”大盛況のために、自由意志が絶対的に正しい・運命など完全に存在しないという主張のほうが有力です。

有力、と言っても正しさが証明されたわけではなく、
「人生は完全に自由意志で選択できる。どんな未来も思念で引き寄せて、好きな夢を実現できる!」
といったご都合主義を歓迎する人たちの声が大きいというだけです。
(例によって数は少ないが、工作員の声が大きいため多数派であるように錯覚させられている)

結果、この運命否定論は我がままな欲望家の言い訳として利用され、
「我々は何を求めてもいい。道徳は無い、神も罪も存在しない」
と叫んで蛮行にふける者が増えました。

“引き寄せ”を信じる人たちは誹謗中傷だと怒るでしょうが現実を冷静に眺めてください。
実際、そうなっていませんか?
今まさに、歪んだ自由主義による破壊活動が世界中で進行中ではないですか。

何故こうなってしまったのか源流を明かすと、“引き寄せ法則”もアンチ神つまり悪魔崇拝のサロンから生まれた魔術だからです。

引き寄せを推進している首謀者たちは、善悪を破壊し世界を反転させ地獄化すること=蛮行フリーダムを実現することを本質的な目的とし、実行しています。
(一見、“引き寄せ”は反唯物主義で蛮行に対抗しているように見えますが、実はそうではなく同じ集団からの分派なわけです。…ややこしい。いずれ整理して書きます)

そのような思想背景は数年前の私には見えていませんでしたが、“引き寄せ法則”の危険性には早いうちから気付いていて、当ブログでもたびたび「引き寄せの誤り」を指摘してきました。

たとえば:
危険なスピリチュアル、「色即是空」の甘い罠

今考えると「西洋人が知らないのをいいことに、仏教や陰陽道を適当にパクって繋ぎ合わせただけの詐欺思想」と言うのは誤りでしたけどね。アンチ神、アンチ世界の立場から生まれた彼ら独自の思想(願望)でした。
ただ、東洋思想を曲解で援用し箔をつけている部分はあると思います。

「引き寄せ否定者イコール運命論者」というわけではない


このように私は若い頃から“引き寄せは危険”と直感していましたし、自身の転生体験に照らしても誤りだと分かっていたので反対の立場をとってきました。

しかしだからといって運命絶対論者ではありません。
「人間を監視している神様が、人間に運命を押し付けている」
「神様の創った運命は絶対だから従わなければならない」
と考えているわけではないということです。

故に、キリスト教の牧師のように単純な
「上から目線の道徳教師」
でありたいと思っているわけではないのです。

こちらで書いた、道徳教師を受け入れるとは「周りが道徳教師と呼ぶから仕方なく受け入れる」という意味。私自身は地上に輝く義の星、動かぬ真善美を信じていますが、それを見つめることは羊を調教するキリスト教の牧師とは違うでしょう。

“引き寄せ法則”の誤りを指摘しただけで
「運命絶対論者。奴隷根性。偽善の道徳教師」
とレッテルし、反射的に石を投げつける癖やめましょう。

それはいわゆる「ネトウヨ」認定の弾圧と同じ、手当たり次第に敵とレッテルしたいだけの脊髄反射。
どうしても二極でしか生きられないのは人間の本能、逃れることが難しい癖なのかもしれませんが、そろそろ現実の相手を見て話をしていただきたいです。何度も説明するのは時間の無駄ですから。

運命について、過去に筆者の考えを書いた記事はたとえばこちらです。

【運命論まとめ】 「幸せ」って何ですか? 因果応報、カルマの受け取りも自分で選んだ道

ここに引用したメール文の主は筆者に石を投げているわけではなく、他の人の主張と混同して疑問をぶつけてこられただけなのですが、おかげで考えをまとめることができたので感謝しています。
それにしても冗長な記事で、すみません。拾い読みでもしていただければ筆者の考えが見える… かもしれない。

簡単に述べると、私は“引き寄せの法則”を推進することには反対ですが、運命絶対論者でもないということです。地上では運命プログラムを実行すべきと考えますが、実はその運命を創造しているのは自分自身だと言っています。

だからつまり、筆者へどうしても分かりやすいレッテルを貼りたいなら
「仏教信者」
ということにしておいてください。因果律を説く仏教が私の思想に最も近いので。

もちろん特定の仏教宗派を熱狂的に信心しているわけではありません。
実家は何らかの仏教宗派に属しているはずですがはっきり知りません…申し訳ない。
ただ自分の体験した真理に最も近い表現をしているのがインド思想であるから共鳴している、というだけです。厳密なインド思想や仏教の各宗派とは違うところもあるはずと思いますね。(そもそも、仏教も正しくはインド思想と言えないし)

「引き寄せ」「運命絶対論」どちらも地上を地獄化する


以上の運命に関する私の思想は、完全に自身の体験から語ってきたものです。
何かの教科書で植え付けられた思想を布教してきたわけではないのですね。
ぶっちゃけ私はこのジャンル好きの他の方々に比べ、圧倒でスピリチュアル本の読書量が少ないほうでは?と思います。
(たびたび引用してきたワイス氏やニュートン氏の書籍は、あくまでも他の方の体験と比較し自分の体験を分析するために読みました。体験事例は参考にしていますが、思想部分を盲信しているわけではなくニュートン氏個人の思想も私とは異なります)

したがって、純粋に体験事例としての“真理”を述べてきただけに過ぎず、宗教団体まして社会思想とも何の関わりもありませんでした。

しかし最近思うに、どうやらこの運命に対する考え方は想像以上に社会へ影響を与えているようです。

たとえば“引き寄せ法則”の
「未来は完全に自分で選べる、ワクワクするなら何を求めてもいい」
という思想が我がままな人たちへ免罪符を与えてしまった。
欲望のままの現実を引き寄せていいとされるから、邪魔な政治家を殺していいと思っているし、金持ちから財産を強奪することは正義だと思っているし、都合のいいように歴史を書き換えることが可能だと思っている。そうして欲望を引き寄せるために嘘を唱え続けている。
“引き寄せ”が犯罪を引き寄せてしまったのですね。

いっぽうで“運命絶対論”も、
「悪いのはこの運命を創って押し付けた神様。私が悪いことをするのは、私のせいじゃない」
と責任放棄するための言い訳として使われがちです。このため犯罪が増える。
あるいは、教会や政府などの権力が民を奴隷化し、従わせるために「神の命令」で弾圧する。実際、欧州の暗黒時代にはこの思想に基づき、神を振りかざした全体主義が横行しました。今はまた別の物神が全体主義を推進していますが。

どちらの思想も欲望を貪る人、我がままで無責任な人の言い訳に使われてしまい社会を地獄化します。
と言うことは、社会プログラムとしても現実に害をもたらすから、引き寄せ・運命絶対論を信じ過ぎてはいけないと言えるでしょう。

そのように二極の地獄を招かない第三の道は、やはりカルマ論・因果律しかないと思います。

因果律は欲望を無制限に貪ることを許さず、強奪や無慈悲な殺戮を許さず、無責任にならず、それでいて奴隷にもならない。
「他人にしたことは自分へ帰る」という報いの思想が自然と善を行わせ、犯罪の抑止になる。
自分自身の責任において未来を創造(クリエイト)しながら、自身で選んだ約束事(運命計画のこと)を果たすために生きていく。

…社会プログラムとしても完璧※な思想と思います。

私は真理への道として因果律を説いてきただけですが、真理にかなう思想は地上の社会プログラムとしても優れていることになりますね。

※補足:実際には「因果律」も社会プログラムとして実行した場合、罪を犯したい者たちの言い訳に悪用されることがあります。たとえば「虐待されている子供は自らその人生を望んだ」などと言って、虐待を正当化したり。快楽殺人者たちが、「被害者が望んだ」と言ったり「前世の悪事が本人に帰っただけ」と言ったり。現実そこまで単純な運命計画はありません。続きの記事参照。
未熟な人間の社会では弱者を守るための刑罰は絶対必要ですし、道徳教育も必須です。そのような仏教の不足を、東洋では古典的な儒教が補ってきたと言えます。


続き>>未来も過去も書き換え可能!? スピリチュアル量子力学を考える〔運命論2022年版-2〕
 
 
 
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ホールサインハウスは当たりますか? 自分のネイタルで考察してみた

 


久しぶりに占星術へ興味が戻ってきました。

と、言うより、占星術こそ世界の思想戦争の最前線であったことを確信したため一周回って戻った感じです。
“知識欲が湧いて眠れなくなる”という子供のような体験をしました。今さら本当に遅過ぎるのですが。

さて、この件に関し、昨晩はもう一つ占星術館にて記事を上げました。

【別館】ホールサインを考える。伝統に偏り過ぎないこと

ホールサインハウスという、東の地平線上にあった星座そのものを起点とした古代の計算手法があります。
最近このハウス計算を激しく推して、「伝統が正しい」と他の手法を全否定する人たちが出てきたらしい。
それはそれで偏った形での「伝統回帰」の思想。
伝統的な善悪を復興させるべきと考える私にはありがたい流れですが、原理主義はいただけない。
あまり伝統復古という思想活動にのめり込み過ぎないでくださいね、という話です。

経世済民で大切なのは生きている人々の生活、現存の国を守り継続していくこと。
同じように、占いで大切なのは鑑定対象のための真理です。

そのために原理主義で思考停止するのではなく、現実に照らして道理・合理の方法をその都度選んでいくべき。
これが「第三の道」つまり中道です。

面倒ですが、常に思考活動していくしか人の生きる道はないと言えますよ。
車の運転に似ていますね。運転手はハンドルを調整しながら車線内の中央を走り続ける。両端へ寄り過ぎては車がぶつかって大事故になります。
(AIなどに完全に委ねて思考停止するのも危険です)

ホールサインハウスは当たるのか、実例


前置きが長くなりました。ここからが本題です。

その「ホールサインハウス」は実占で当たるのかどうか?
別館で曖昧に所感を書きましたが、ここではプライベート館らしく自分を例として具体的な話をします。当ブログへ通ってくださっている方には分かりやすいのではと思います。

では、主な違いを上げて考察してみます。

【参考】筆者ネイタルチャート(書籍読者様限定)

ハウスが一つの星座で占められる違和感


まず当たり前のことですが、アセンダントではなく上昇星座0度を起点とすると、ハウスが全て一つの星座で占められることになります。

だからこそホールサインはシンプルに占うことができて初心者向きではあるのですが、各ハウスに入る星座の割合で読むようになった後では違和感を覚えるのではないでしょうか?

特に、本人自身の性格を表す第1ハウスが一つの星座で占められることは激しく違和感ですね。
これで性格占いをするとなると、結果として太陽星座占いとあまり変わらない単純な12分類となってしまいます。
それでも上昇星座占いは、太陽星座占いよりも遥かに当たると思いますが。

何故、ハウスを一つの星座が占めるべきではないのか。
それはアセンダントが後半以降にある人には特に実感として分かりやすいと思います。

たとえば私の場合、上昇星座は「水瓶座」です。
しかし私は純粋な「水瓶座」と言えるほど完全合理な人間ではありません。

たとえば道理を合理と同一視しているが、純粋な水瓶座はそうは考えないかもしれない。
自分の場合はウェットな部分が無意識の大半を占めているらしく、やはり半分は魚座なのだなと実感しています。

前に読者様からのご提案で確信した、『私が「よく泣く」理由。パーソナリティは第1ハウスのサイン全てであること』の分析が妥当。

このように私自身が良い例ではありますが、多くの人を鑑定していても同じ結論を得ます。
誰にとっても純度100%の星座が1ハウスを占めるとは、現実に照らしてとうてい考えられません。

木星は第12ハウスのほうが妥当


ホールサインで計算すると私の木星は第1ハウスに入ります。

1ハウス木星の解釈は、
「おおらかでお気楽、善良な性格。人気者。自我が拡大することがある(自己主張が強くなる)」
などとなります。

“お気楽”な性格であることは否定しません。笑(もっとも気楽さはアセンダントのシンボルにも表れています)
“人気者”は微妙…前世では人気を得たのかなと思いますが、現世はそうでもありませんね。圧倒で無名。
それと、ブログや創作では仕方なく延々と自分について話をしているので「自我が強い」と勘違いされていそうですが、現実では自己主張が得意なほうではありません。

これと比較をすれば普及しているハウス計算(プラシーダス等)で出した場合のほうが現実を表していると分かりますね。

通常計算で、私の木星は第12ハウスとなります。
12ハウス木星の解釈は、
「隠れた存在。加護を受けている(神秘な世界、または隠れた組織などバックが強い)。気付かないうちに助けられ、助けている」
など。

やはり今の私の実人生はこちらのほうが正解だと言えます。
たとえば有名ではない。ある意味、強制的に隠されている。
神秘なオーディエンスから強い加護を受けているらしく、身動きが取れないほどの箱入り。
たぶん気付かないうちに助けられている。
また、面識のない人から時々「あなたに助けられた」と言われる。
等々。非常に的中しています。

第9ハウスが主題?


ホールサインの場合、通常計算では第8ハウスに集まっていた重要惑星が第9ハウスに入ることになります。
9ハウスが主題となるホロスコープです。

9ハウスは
「遠方、外国(移住)、哲学、思想」
の室。
哲学や思想と解釈すれば当たっている気がしないでもない。
しかし9ハウスが強い人は現実で遠方に移住したり、外国への憧れを抱く傾向があります。ところが私には外国に移住する計画も願望も今のところありません。外国との縁も薄いです。
若干、中華には縁があるようですが、中華に「遠方の外国」というイメージは無いですね。自分にとっては心の故郷ですから。

どちらかと言えば第8ハウス
「死と再生」
が強くなっている通常計算のチャートのほうが、輪廻転生と死後世界を主題としている私の実人生に近いです。

第10ハウスに惑星なし? 神秘が消えるのは不可解


ホールサインで計算すると第10ハウスに惑星がなくなるのですが、さすがにそれは無いかなと思います。
まあ「お前なんかに天職などない。お前なんかお呼びでない」と言う人は多いでしょうけど、オーディエンスたちにとってはそうではなさそうです。

特に、あの惑星が10ハウスから消えてしまうのは違和感ですね。

ホロスコープの天頂であの星がスタンバイしていることが、自分のテーマを表しているという気がするのですよ。ずっと。

進行チャートで最終的にその星と金星が重なることも、10室が自分の人生の中心である証。
前前世で見た「明けの明星」を意味しているのだろうと思いました。
 →この話の詳細



シンプルなホールサインは若い人向きか


…考察はこのくらいで充分でしょうか。他、細かい話は割愛します。

全体に眺めますと、私のホールサインで描き出される人生はのどかでお気楽な人気者。友人に囲まれて楽しく暮らしていくような人生となり、「羨ましい」と思いました。
もしこれが自分の現実なのであれば、肩の荷が下りてラクなのにと思ってしまいました。
しかし実人生はこのホロスコープとかなり違うので、少なくとも私にとっては「ホールサイン計算は誤り」という結論になります。

ただ、この結論が得られたのはもしかしたら私の年齢のせいもあるかもしれません。
若い頃と違って、複雑な自分の性格や人生がよく見えるようになったからです。

若い頃なら「ホールサインこそ正解!」と思っていたかもしれませんね。
シンプルゆえに、大雑把に“当たりを付けやすい”。と言うことは初心者でも「当たる」という感覚が得られやすくなるわけです。

それに、若い人にとっては大雑把な地図こそ有用となることがあります。細かい道筋に縛られると動きづらくなることもある。だから歩き始めは細かい道を省いた、ざっくりとした陸を描いたイメージ図のほうがいい。
そのようにホロスコープを見る第一歩として活用できる点が、ホールサインの利点と言えるでしょうか。
慣れてきたら精度の高い地図を見れば良いのです。

いずれにしろ私にはホールサインという手法を全否定するつもりはありませんので、ケースに応じて役立てていただきたいと思います。
「ホールサインは唯一正しい手法だ」などと他人に強要するのは違う、とだけ言っておきます。

 

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戦争or嘘の平和? 知恵者となり、真実がかなう世の中を目指せ!


 以前から当ブログで何度か触れてきた、戦争or平和のテーマについてです。

虚構の平和より前世のほうがマシだったかも

 

前記事で、最後のほうちょっと追加しています。

大事なことなのでここにも転載しておきますね。

(『パリピ孔明』)冒頭の
「願わくば… 次の人生は、命のやり取りなどない平和な世界に… 生まれ変わりたい」
というフィクション孔明の台詞には私も激しく同意です。でした。

〔追記〕
ただし今のような180度善悪反転、堂々たる嘘がまかり通るディストピアは望んでいません。嘘だけが信じられているこんなディストピア上の平和ならやはり「地獄」と呼ぶべきでしょう。
私が本当に願うのは真実が実現する世の中。
誰も不当に殺されない。蛮行をした者が裁かれる、努力した人は報われる。そんな人として当たり前のことが通る世の中です。

ぶっちゃけ、現代のような善悪反転の嘘がまかり通るおぞましいディストピアだったら戦乱時代のほうがマシかもしれないと私は思います。

これはボンヤリしたイメージで思うことではなく
極端な戦乱状態(前世):極端な平和状態(現世) 
の両極を生きることになった、自分自身の記憶を比較して言えることです。

当たり前のことながら戦乱は地獄でした。しかし精神的には、人々がメディアの奴隷となって嘘だけを強制されている現代より幸福感・充実感がありました。

当時は本当に殺戮などの悪行した者が批判され、救済に努めた者がとてつもなく持ち上げられたからです。評価は大げさではありましたが、立ち位置は事実通りだった。(事実がデフォルメされ拡大されている感じ)
力だけが正義となってしまう暴力至上の世の中であったのに、人々は恐怖に屈することなく心(人道・天道)に照らし合わせて善悪を裁定し、軟弱で思考力しか取り柄のない者まで「知恵者」として持ち上げてくれたのです。

腕力などなくても知恵さえあればテッペン取って英雄になれる”※
というこの東洋でよく耳にする考え方は「柔よく剛を制す」にも共通する思想であって、勇気ある弱者の抵抗論だと思います。
そんな気概を人々は持っていたから『三國演義』のような伝説話を未来へ繋いだのです。そして驚くことに、遠く1800年を経た現代まで当時の風(時代の本質)が封印されたまま伝わった。

※テッペンとはヤンチャな表現ですが。これは筆者の高校時代の教師(元ヤンキー。笑)の発言を参考にしたもの。彼が私に、「お前なら頭脳でテッペン取れる」と本気で言ったのを思い出して。…当時は聞く耳持たなくてすみませんでしたT先生。

それに比べて現代は、まさに当時とは正反対です。

我々は、「虚構の平和」という地獄に住んでいる


アメリカ圏に属する我々西側社会では長いこと戦争がなく、見た目に分かりやすい暴力に遭遇することは滅多になくなりました。
命を脅かされる体験をする人も非常に少なくなった。
私自身この人生で身体への暴力を体験したことはありませんし、目の前で殺される人も見たことがありません。
戦乱の世界にいる人が夢にまで見る「平和」な社会が実現していると言えます。
その一方で、私を含めて人々は圧倒の孤独と絶望のなかで暮らしている……。

『パリピ孔明』の冒頭で、主人公の少女がかつて自殺しようとしていたというストーリーは衝撃的でした。
私もかつて十代の頃は自殺志願者だったのですが、現代日本で生まれ育つと神経過敏な子のほとんどがこうなるのかもしれません。

「生きづらさ」を覚えるほうが正常という現代社会は、やはり異常。
戦乱時代から直行したフィクション孔明には理解できないことでしょう。戦乱時代には自殺志願者などほとんどいませんからね。
現代は、戦乱時代よりも閉そく感を人に与える「精神の地獄」だということです。

つまり三国時代と現代日本を比べると、

戦乱だが真実が叫ばれる自由社会 VS 平和だが嘘を与えられる奴隷社会

ということになります。
どちらが人間にとって過酷かと言うと、実は後者(現代)のほうかもしれません。

善悪反転。
本質から事実が歪められている。
努力した者が一切報われず、能力ある者は叩き潰され、殺戮者などの悪魔だけが勝利する完全不公平な世の中。
どんな蛮行も裁かれず推奨されている。
被害者は永久に救われず殺された後も辱められ続ける、加害者は死体の山の上に君臨し「正義の味方」と称賛される…。

完全なる嘘の世界、孤独の世界
現代人は人類史上、最も過酷な精神地獄のなかに閉じ込められていると言えるでしょう。

皆が知恵者となってほしい。ディストピアを打ち破れ


最近は私の若い頃よりディストピア化が進み、何のオブラートにも包まない露骨な嘘が堂々と叫ばれる世の中となりました。
特に2019年以降、認知戦が本格化した後はいっそう酷くなったと言えます。
360度、どの方面を向いても「真実」が無いように見える。

民族ヘイトの分断も、陰謀論デマデマ!攻撃もある。
志が同じ人と手を結ぼうとしても、嘘を叫ぶメディアによって分断され人々は完全に孤立させられています。

メディアの明白な嘘に憤りを抱き「それは嘘だ!」と叫んだところで誰も聞く耳を持たない。
一般人はデマデマ唱えるお題目に幻惑され、大手メディアや学位などの肩書に乗せられ、何も考えずに与えられた話を鵜呑みにするだけです。

――もうお手上げ! と言いたいところですが。
テッペン取れると言われた知恵者(笑…)としては現代の若い人たちを見捨てるわけにはいきません。
せめて自分の目で見えることは発信していきますので拡散よろしくお願いします。

知名度が低く影響力が低いのが痛いですが。
先日、友人から「レア賢者」※と呼ばれたのが嬉しかったのでもう少し頑張ろうと思います。

※アクセス過疎地帯の筆者ブログ。人気YouTuberなどと違い、自分から検索して探さなければ見つからない「賢者」という意味でこう呼んでくださいました。…ありがとう、恐縮です。たまには本気に受け取って頑張ってみます。

皆様もどうかご自身で「知恵者」となり、真実を発掘していってください。
21世紀以降、水瓶座時代を「真実」がかなう時代にしてくださいね。どうかお願いします。

私の運命として前世と今は反転しているらしい。
だから遠い未来に「真実」が滅んだと知ることにはならないと信じます。
今度こそ、人が人らしく生きられる人道の実現を。永遠に叶い続ける真実の世界を! 

 

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癒しアニメ『百妖譜』 純な妖怪たちに心洗われる

 嘘つきだらけの世の中に疲れてしまい。
この週末はなるべく世間を見ないようにして、小説やアニメなど物語に触れるようにしていました。

そのなかで究極の癒しを与えてくれるアニメに巡り合いました。

『百妖譜』という掘り出しもの


こちら『百妖譜』。読み方は、日本語読みだと「ひゃくようふ」ですね?

主人公の女の子、桃夭は妖怪の名医である。彼女は妖怪を治療する代わりの条件として、その妖怪と「今後、薬として体の一部が必要な時は無条件で差し出すこと」という契約をする。
2話でひとつの物語が完結する美しい作風の感動アニメ。中国の有名妖怪小説「山海経」に出てくる妖怪が取り上げられている。妖怪の視点から見る人間はーー。(全12話)

私は昨今の異世界転生ものの賑やかなアニメが苦手でして、ちょっと一昔前な(90年代~00年代)和風アニメが観たいなと思って探していました。
タイトルやイラストからてっきり和風と思ってクリックしたこの作品、なんと100%華人制作アニメで驚きました。

華流アニメか。
さすがに観ようかどうしようか迷いましたね。

国ぐるみでの著作権侵害問題やアニメーター引き抜き(人材横取り)、日本漫画界のプロパガンダ利用など、社会的背景を考えると複雑な気持ち。
それと、以前観た華流アニメがいまいちだったこともあり躊躇しました。

しかし一応どんなものか観てみようと思って、再生したところいきなりオープニング曲で魅了され。
最初のストーリー『灰狐』で完全に虜となってしまいました。


参りました……。涙が止まらなかった。

以降、12話まで全てボロ泣き。
(…笑。今回は夜中泣いているのが家族にバレて心配されてしまった)
的確にツボを突いて来られるので抵抗しようがありませんでした。諸手を上げて降参です。


突っ込みと賞賛


たぶんアニメとしての技術はあと一歩なのでしょう。
突っ込みを入れようと思えば色々ありますね。
この設定は『夏目友人帳』のパク…リスペクトではないのか?とか。ギャグ顔が物語の世界観と合っていないよ、とか。キャラの顔は日本アニメを観てコピーしているようだが、様々な作品をごちゃ混ぜに真似たから数人の作家が混在している感じになっちゃってるよとか。

しかし、ストーリーは一級だと思います。
いや、格付けするのもおこがましい。少々次元を超えている。

「昔話」ふうに素朴な設定ではありながらも、まるで本当にその体験をした妖怪たちが語るように、ありありと切ない想いが描写される。
ダイレクトに伝わってくるその想いに心を鷲掴みにされ揺さぶられるので、気付けば涙腺崩壊しています。

“涙腺崩壊”するのは私だけかもしれませんが。笑

妖怪たちの人間に対する想いは純そのもの、妖怪たちを見つめる主人公たちの眼差しも優しい。
物語に泣いた後は心が洗われて満たされている。
そんな究極の癒しアニメだと思います。

(キャラの顔のバラバラ感はともかく)風景描写や音楽も美しさを究め、眺めているだけでも癒されるはず。
それといわゆる“中華モノ”としてイメージする作品世界ではなく、どちらかと言えば和風イメージに近い作品なので※、中華が苦手な人も大丈夫ではないでしょうか。たぶん。

※何故「和風」なのかと言うと古代設定だからです。「中華」として我々がイメージするのは主に清代の服装・建物なのですが、古代の中華文化は日本に近く一見「和風」に見える景色なのです。折り紙、小坊主、妖怪…等々「和」にも見えるモチーフがたくさん。それと、このアニメ自体がかなり日本アニメに影響されているようですから、日本制作?と錯覚するほど違和感は少ないです(←これは本当にどうかと思うが)。

この物語の難を言えば、切なさのツボを深く深く突いて来るところでしょうか。これでもかというくらいに。
つまり、感情描写が「濃厚」ということ。
ほのかに癒されたい人には向いていないかもしれません。
外側をやんわりと描くものが好きな人には日本アニメのほうが向いていると思います。

民族ヘイトなどの偏見を持たない方で、強めな“心の洗濯”を求めている方には『百妖譜』をお奨め致します。



『蟲師』のこと


このアニメの後で日本の『蟲師(むしし)』を観ましたが、これはこれで本当に素晴らしい芸術作品。別の意味で癒されます。

「蟲師」が中華とは違って敵を倒すためではなく、見えないもの(死者と生者の中間)と同居するために存在するというのも日本らしい。

感情も妖怪も蟲も曖昧模糊としていて境界がないのが日本文化か。
だからこそ訳も分からず欧州の悪魔崇拝まで受け入れ、侵されてしまうのでしょうが。
曖昧過ぎて悪しきものに対する免疫が低いのは、日本人の長所でもあり弱点でもあります。


『百妖譜』で癒されたもう一つの理由


最後に、少し世間話も含む感想です。

私が『百妖譜』で癒されたのは、純粋に物語に感動したからだけではありません。

「こういう人道・天道に即した価値観が今もこの世に存在するのか」
という衝撃に打たれ、感動したせいでもあります。

唯物思想とは正反対の情感溢れるストーリーそのものにも感動しましたが、オープニングやエンディング曲の歌詞にも衝撃を受けていました。

たとえば

夜が明ければ その善悪は明らかに
(原文は「等天亮 白黒自明」)

その善悪はすべて明白
(原文も「皆分明善悪」)

などに。

ちょうど前記事で書いた悪魔崇拝の歌を聴いて絶望を覚えていたところだったので、この歌詞に救われる想いがしたわけです。

日本人の多くは
「善悪なんて、正義なんて存在しない!!」
と叫ぶのが大好きです。
善悪否定、もしくは善悪反転の屁理屈を叫んで得意がっている。正義にクエスチョンするのがカッコイイと勘違いしている厨二病のメンヘラばかり。
正義を掲げた虐殺魔を批判するなら妥当ですが、そうではなく自分たちが蛮行するために正義と善を殺したがっているだけです。
これを「悪魔崇拝」と呼ぶ。(現代では)

残念ながらこの国では小説も漫画・アニメも、音楽も全てにおいて悪魔崇拝が浸透しきっていますね。
もはや義は嘲笑され、地獄虫たちが天道や人道を凌辱し卑しい快楽の声を上げているだけ。

そんな日本人ばかりではないことは知っていますが――と言うより私もこの状況を憂えている日本人の一人ですが、この国において悪魔崇拝は圧倒の勢力。

ところが、何故か「悪魔国家」と呼ばれているお隣から光明が差し込んできました。
隣の国家は悪魔思想の党に支配されていますが、意外なことに一般庶民は悪魔崇拝にほとんど侵されていなかったようです。

もしかしたら隣の悪魔思想家たちは国家を支配し、人民を定期的に虐殺しながら恐怖支配しているため安心して、一般庶民を放置してきたのかもしれません。
いっぽう日本は国家体制としては表向き違うので、むしろ必死で小学校からの教育や、アニメ・音楽・テレビ番組などで悪魔思想の洗脳を行わなければならなかったのかも。

とにかくこのような義の心、人間らしい感情を現代まで受け継いでくれた華人に心から感謝したいと思います。

自由に言論できる国ではありませんのでずっとこのまま純粋な作品を作ることはできないと思いますが、今この瞬間の光明を受け取っておきます。

あなた方がいれば、きっと未来の人類は大丈夫だと信じることができました。

 

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うざい?嫌い? SEKAI NO OWARI『Habit』に違和感を覚える理由


 SEKAI NO OWARIの新曲、『Habit』がヒットしているのか各所で耳にします。彼らの暗いほうの曲にしてはめずらしい。

『Habit』に不快を覚える人は多いはず


この『Habit』、楽曲はかっこいいしダンスも面白く、流行るのも分かります。が、なんとなく不気味な感じゆえ不快を覚えている人もいるのではないでしょうか。

〔2023/1/3 追記〕やはり、『Habit』には発売後しばらくして「気持ち悪い」「うざい」「嫌い」といったネガティブな感想がSNSに溢れるようになってきたらしい。NHK紅白歌合戦で『Habit』が歌われた際もネットが荒れたようです。

ファンの方、すみません。批判として書いているのではありませんので念のため。むしろ「不快」は彼らには賞賛として響くのでは。

不気味さのエッセンスを入れるのがSEKAI NO OWARIのコンセプトであり、目指している芸術でしょう。
言ってみれば確信犯的に「メンヘラ厨二病」の旗を掲げているグループだと思いますので、不快と感じる大人が出ることこそ彼らの狙い通りかと思います。

それにしても今回は不気味さの割合が高いように思います。
MVも今までのように視覚的に地獄や悪魔を表現しているわけではなくて、“普通に学校で踊っているだけ”だからなおさらなのでしょうか? 日常の光景と狂気ダンスの不調和がまた、なんとも不気味。

しかし実はこの不気味さの根源は、狂気ダンスでも、歌詞の表面的な言葉でもなく、背景にある「思想構造」にあるはずです。

今回はこの歌詞に含まれる本当の意味と目的――おそらくこの曲を創った彼ら自身も気付いていない、構造そのものが導こうとしている未来を解読してみます。

YotTube公式:


「分類壊せ」で、永遠のモラトリアムへ


まず先に言っておくとこれは決して悪いばかりの曲ではありません。

第一に届けようとしているのは若者へのエールだと思います。

以下のような歌詞に、「支配の軛(くびき)」を断ち切る力強いメッセージを感じて救われる子が多いでしょう。
君たちったら何でもかんでも
分類、区別、ジャンル分けしたがる
ヒトはなぜか分類したがる習性があるとかないとか

隠キャ陽キャ?
君らは分類しないとどうにも落ち着かない
気付かない本能の外側を
覗いていかない? 気分が乗らない?

つまり それは そんな シンプルじゃない
もっと 曖昧で 繊細で 不明瞭なナニか

夢を持てなんて言ってない
そんな無責任になりはしない
ただその習性に喰われないで
そんなHabit(習性)捨てる度 見えてくる君の価値

俺たちだって動物
故に持ち得るOriginarlな習性
自分で自分を分類するなよ
壊して見せろよ そのBad Habit
うん、
「その習性に喰われないで」
「Originarlな習性」
というところ、とても正しいと思うし私も若い頃ならこの言葉を好きになっていたと思います。

特に、「陰キャ?陽キャ?」など他人のレッテルと支配を跳ね除けてオリジナルに生きろと言うメッセージはとても良い。世界中の若者にとって必要なメッセージです。

ただしここまでで止めれば、の話。
その先のメッセージ……「自分で自分を分類するな」
は、唱え続けるのは危険な言葉
です。

他者に押し付けられたレッテルの支配を打ち破るために、ここぞという時だけ叫ぶのは良い。
「限界を自分で決めるな! 可能性を信じろ!!」と言う意味で使うのも良い。ただそれは心の底から湧いてくる夢がある場合に限る。

「自分を分類するな(自分の道を決めるな。モラトリアムで生きろ)」
と唱えるのはできれば人生で一回限り、せめて二回までが限度でしょう。

何故ならこの呪文は何度も唱え過ぎると腐る性質があるからです。
何者にもなりたくない、責任を果たしたくない言い訳として、自分にかける「モラトリアムの呪い」へ変貌するのです。

※モラトリアム:猶予(ゆうよ)のこと。俗語では学生など社会人になるまでの自由時間を指すが、「永遠のモラトリアム」を標ぼうして何者にもならない道を選ぶ人たちもいる。彼らはたいてい、責任を果たしたくないことの言い訳として「分類されたくない」「自分で自分を決めるのは悪だ」などとのたまう。

【参考サイト】モラトリアム人間とは?意味や特徴・モラトリアム人間脱却法を紹介
「モラトリアム人間」という言葉の意味を知っていますか?主に「自分が何者かを見つけられない大人」という意味で使われます。あなたには心当たりがありませんか?ここでは「モラトリアム人間」という言葉の意味や、「モラトリアム人間」からの脱却法を考えていきます。
日本でも1960年代~80年代に永遠のモラトリアムはカッコイイとして、「分類(カテゴライズ)を打ち破れ!」呪文を唱えることが流行した時期がありました。

でも実際、自分で自分を決めることを永遠に拒否し続けたその人たちはどうなったかご存知でしょうか?

たとえば就職するのが嫌なのでフリーターをしながらバックパッカーとなり自由を満喫した若者は、バブル崩壊と高年齢で就けるバイトがなくなってしまいました。
仕事もできず生活手段がなく、家族も家もない彼らはもちろん年金など払っていません。最後には生活保護の世話になるしか選択肢がないでしょう。

若い頃バックパッカーで世界を眺めるのは素敵な経験です。最終的に生活できなくなったとしても、それはそれで自分で「決めた」人生なのだからと納得できるなら立派と思います。
しかし、そもそも「決める」ことを嫌がる人たちなので納得できるはずもなく。
差別されてそうなったわけでもないのに何故か社会を逆恨みし、絶望して犯罪に走る人もいます。
(当たり前ですがそうなっていない元バックパッカー・フリーターもいます。その人たちはどこかの段階で自分で自分の道を決め、納得した人生を送っているわけです)

フリーターたちは実はまだマシなほうで、反抗の破壊活動からスタートした人々はもっと悲惨です。
60歳や70歳になっても未だに世界革命を夢見る反抗期を続けて、テロ活動をやり続けることでしか食えない孤独な老人となるのです。
国家を滅ぼすためという理由で生活保護も不正受給している、本当に保護が必要な人たちを差し置いて。こうなると明白な「寄生虫」と呼べます。
(日本では「赤**」と呼ばれるあの集団です)

いつかは自分で自分を分類し、どの箱を選ぶか決めなければならない時が来ます。
それが「一流企業の社会人」か「フリーランスで生きる自営業者」なのかは、人それぞれ。
他人が良しとする決まりきった価値観に縛られる必要は全くないのですが、自分では選び取ることが絶対必要。
その時を乗り超えなければ、上に書いたような世界を呪い嘘をつき続け他人に危害を加えるだけの、「寄生虫」として余生を送るしかありません。

余談。ヘッセの場合


かつてヘルマン・ヘッセも当時流行していた悪魔崇拝的なモチーフ(『デミアン』)を使い、
自分自身へ生まれ変われ!
と檄を飛ばして世界中の若者を救いました。
一見、セカオワと似たようなメッセージを叫んでいるようですが、似て非なるものであることお分かりですか。

ヘッセは分類を棄てるのではなく、“自分”という存在を選び取るように説いたわけです。そのためには一度死んで生まれ変わるほどの決意が必要、つまり厳しい責任を受け取れと説いています。

この場合はモラトリアムとは正反対で、大人になる道を説いたものです。

押し付けられたレッテル、敷かれたレールに抵抗して新しく生き直すために「分類」を剥がすのはいい。
でも、その後に必ず自分で選び取ったOriginalな道を生きなければなりません。それは大変な孤独と苦しみを伴いますが、そうでなければ人として大人として生きることなど不可能なのです。

選び取った人たちの人生が、
分類された普通の箱で燻ってるやつら

などとバカにされる理由はありません。
イージーモードか何だか知らないがそちらの人生のほうが魅力ありませんね。懸命に泥まみれで生きている人を見下す資格はないでしょう。



『Habit』の背景にある悪魔崇拝の構造が呪詛をかける


この通り『Habit』のメッセージはレッテルを剥ぎ取る「救い」にも、聴く者をモンスターに変えて地獄へ連れていく「呪い」にもなると言えます。

薬は病気のときに飲むなら命が救われますが、ずっと飲み続けていればジャンキーとなって脳を溶かされ身を亡ぼす。それと同じ。
芸術として愉しむなら良いが、あまり現実に引き入れ唱え続けないように。

どうして彼らの歌にそういう悪魔的な性質があるのかというと、文字通り欧州の「悪魔崇拝」思想を素材としているからでしょう。

『Death Disco』が典型。これは扮装が悪魔そのものだから分かりやすいのでは。


(私はこの歌詞の悪魔崇拝メッセージは受け入れがたいですが、曲はとても好きです。ピアノが主となっているバージョンのほうが良い)

欧州では悪魔崇拝からロックやパンクが生まれポップなものへと変化していきました。
しかしそれを飛び越えて日本人が過去を直接に掘り起こし、イメージとしての「悪魔崇拝」を表現しているのは面白いこと。
ヨーロッパから遠く離れた外国だからこそ、このようなイメージの抽出が可能だったのだと言えます。中華や日本文化も、欧米人のほうが純粋なイメージ表現がうまいことと似ている。

おそらくSEKAI NO OWARIは欧州ファンタジーを描くアニメなどの影響を受けてこういう世界観を作ったのだと思っていましたが、今回『Habit』を聴いて欧州哲学もよく勉強しているのだなと分かりました。
それと同時に、彼らは本気で「悪魔崇拝」サタニズムをやろうとしているグループなのだな、とも確信しました。

どこまで自覚しながらやっているのか?
本人たちの意思なのか、それとも偉い大人たちがコントロールしているのか?
分かりませんが、少々危険を覚えました。

単なるイメージの抽出なら芸術ですから歓迎するけど、これ以上の思想プロパガンダは危険。
もしかしたらすでに何かの団体に取り込まれていたりして。
明確に計算してこの歌詞をプログラムし、洗脳目的でばらまいているなら良くないですね。

『Habit』を構造的に読み解く


具体的にどこが「悪魔崇拝」であり、危険だと言うのか。
言いがかりではない証拠に、歌詞を引用しながら指摘していきましょう。
自分で自分を分類するなよ 壊して見せろよ
分類するなよ →これは上にも書いた通り、永遠のモラトリアムへ誘導する呪詛です。

また、「分類」は思考の基礎でもあります。
単純な二元論で止まってしまうと逆に思考停止となりますが、複雑な分類をすることは思考の足掛かり。論理的な回答を得るためには不可欠と言えます。
そんな分類を禁じるということは、思考を封じる呪詛になります。

原典は19世紀に盛んに叫ばれた、階級破壊・国家破壊でしょう。
神によって分類され支配される羊(奴隷)という箱を壊すことで自由になろうとした。

自由民主を手にする時点で終われば何の問題もなかったのですが、彼らは永遠のモラトリアムを願っていたため安定社会を呪い、革命をやめることはありませんでした。
当然ながら誰も何者かになりたがらないので、生産性のある仕事が行われることはありません。彼らにできることと言えば、破壊と殺人、盗むことだけ。
こうして「地獄の虫」や「寄生虫」となり、世界を荒らすようになります。

マルクスやニーチェたち、近代欧州で流行した悪魔崇拝の信者たちが願った「地上での地獄の実現」を招くのが、この永劫モラトリアム回帰※です。

※筆者の造語です。ニーチェ「永劫回帰」より

俺たちだって動物
こーゆーのって好物
俺たちだって動物 →ここは現実的な意味での「人間は動物の一部」という分類なのではなく、魂を否定する純粋な肉体優先としての「唯物論」の刷り込みです。

これもニーチェ思想ですね。
「唯心論」への反逆として、我々は肉体だけで動いている機械的動物なのだと説く。

心も魂も存在しないと説いているのですから、この思想を貫けばいずれ感情は否定され、愛なども禁止されることになります。

唯物論者にとっては心を動かして泣くことなどあり得ない現象です。
だから愛や感情などを持つことはバグ、異常分子なので殺処分せねばと考えます。

事実かの国で、子供が親を殺して内臓を引きずり出して食べることを強要されたことがあります。
家族の肉が食べられなかった人、愛する家族を失って泣いた人たちは死刑となっています。(実話です。⇒閲覧注意

これが
「俺たちって動物」
と唱え続ける者たちが招く世界です。

大人の俺が言っちゃいけない事言っちゃうけど
説教するってぶっちゃけ快楽

その後なんか俺興味ないわけ
大人の話は全部くだらない説教。大人の話を聴くな →世代間の分断を目的とする呪詛です。情報伝達を断ち、歴史継承・文化継承を断ち、若者を洗脳して奴隷支配しやすくするための呪詛。

まあ、この歌詞は前向きに読めば
「若者よ。大人の言うなりになるな」
という意味にも捉えられます。でもそれは表面的に読んだときだけです。

この呪詛の正体も19世紀、悪魔崇拝から発祥した反哲学が原典。
世代間を分断すれば、文化が継承されることがなくなり伝統文化は永遠に滅びます。賢さを養い、カルト思想から脳を保護してくれる文化という免疫が破壊されるので、若者は洗脳されやすくなり奴隷に身を落とすことになります。

「説教するってぶっちゃけ快楽」
とか、最低ですね。
そんな大人ばかりではありませんよ。
そういう最低上司がいることも事実ですが全員そうであるはずがない。

ちなみに…
私が説教するときがあるとすれば、それは快楽のためではありません。
そもそも自分の場合、年下だろうと年上だろうと、「言わねばならない」と思うことを言っているだけなので説教のつもりもないですけどね。酒の肴にするシチュエーションとは無縁。
言う時は最終手段。言わなければ相手が身を滅ぼす(または他人が激しく迷惑する)と考えられる時だけ。
だから、意見を言うときは激しい精神的負担を伴うのだけど、そういう気持ちは現代人には一切理解されないようです。内容で判断することもなく、ただ「上から目線で意見された!」「説教された、許せない!!」と脊髄反射で怨みを持つだけの人が多いらしい。
現代人の多くが、深瀬氏の侵されている思想と同じものに侵されているのだなと分かります。

私自身、若い頃に自分の将来を真剣に考えてくれた教師たちの説教に救われた経験を持ちます。
あの年上の人たちがいるから、私は今ここに生きています。
そういう経験を持たずに年上の話を完全無視している人たちは気の毒だなと思いますね。

憂慮


『Habit』の呪詛をこれだけ歓迎している人が多い現状を見ると、今後ますますこの悪魔崇拝思想は浸透していくでしょう。
モラトリアムな寄生虫や、サイコパスなメンヘラがさらに増えそうです。


〔当ブログ内関連記事〕
「自分探しの旅」追記
「分をわきまえる」という言葉の本当の意味。自分さえ見失った現代人の不幸

【歴史別館】歴史が得意な方向けの話です。
当記事に書いた「呪詛」を唱え続け、人間らしい感情を棄てた者の実例がこちら。彼ら彼女らは本気で『出師表』の文を「口出しをさせないための策略」「泣いたという文末はただの挨拶文」だと思っています。
 ⇒この人たちが『出師表』の歪んだ解釈を声高に叫ぶ理由



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策士ではなく“ナイチンゲール”だったらしい【エゴグラム詳細】

 前に上げた性格診断の記事、『ディグラム(エゴグラム)診断』について私自身の誤解があったようなので改稿しておきました。

⇒ディグラム診断 「先読みはお手の物!寡黙でクールな策士」…苦笑

あれはもともと何故上げたのかというと「策士」というワードが面白かったからなのですがね。自虐。

一部の人たちには
「マイペース」「融通がきかない」
というところだけしか目に入らなかったようで、誹謗中傷の材料に使われています。

【別館(閲覧注意)】一部の人たちによる誹謗中傷とは

おそらく筆者(と言うより諸葛亮)を
「自己中心で独裁の父権主義者」
ということにしたくてたまらず
、例によって針小膨大※で極限まで弱点を拡大して誹謗中傷しているのですね。
そして一般の人が長所と考えそうな話は完全に嘘の捏造話で否定して潰す。
さすがカルト思想信者、狂っているとしか言えない事実反転脳です。日ごろ平気で嘘をついているだけあります。

※誤変換ではなく。針小棒大では足りないくらい拡大しているので、「膨大」

あのような者たちに対しては何を言ってもムダ、すべてを悪口として利用するだけ。
そもそも現実を理解する脳がないから無意味なのですが、一般読者の方が誤解しないように専門サイトより正確な話を上げておきます。



一般的な「策士」は逆N型(筆者の型と正反対)


私自身エゴグラムについて正しい知識がなかったため、たまたま見かけたサイトから解釈文を適当に引用したのは悪かったなと思います。
何より同じタイプの方に申し訳なかったです。

記事冒頭で紹介したのは「ディグラム診断」で、開発者オリジナルの解釈が加味されたものでした。しかし、エゴグラムとしてはかなり解釈が違っていたらしい。

開発者自身も後に解釈を修正されたのか…?
たとえば『マイナビ転職』のディグラム診断では、“クールでキレる天才策士”は逆N型という定義となっています。

【参考】マイナビ転職 ディグラム・ラボ より

周囲の人はすべて駒!? クールでキレる天才策士

 

まさにこれこそ一般的な「フィクション孔明」のイメージですかね?
しかし史実孔明は、「正反対」ではないでしょうか。…残念ながら。

少なくとも筆者はこれとは正反対の波型、N型Ⅲでした。

「お前は関係ないだろ!」と言われるでしょうが、上の赤**氏ら誹謗中傷している人たちが筆者を材料に孔明の悪口を言っている現実がありますので、筆者で証明しておきます。

N型は、策士になりづらいのでは?


本家エゴグラムの解釈について、色々なサイトを読みこちらが一番分かりやすかったので引用させていただきます。

【別サイトリンク】エゴグラム結果の見方!性格判断、相性判断だけじゃない!診断結果の見方 より『自分がわかる心理テスト―知らない自分が見えてくる』(ブルーバックス)からの再引用
テスト結果は、7つの代表的なパターンに分類されるとしています。
このパターンは、その人の生き方の「くせ」のようなものとも考えられます。

パターンは以下の7つです。

①円満パターン(アベレージ)    『へ』型
②献身パターン(ナイチンゲール)  『N』型
③自己主張パターン(ドナルドダック)『逆N』型
④葛藤パターン(ハムレット)    『V』型
⑤苦悩パターン(ウェルテル)    『W』型
⑥明朗パターン(アイドル)     『M』型
⑦頑固パターン(ボス)       『右下がり』型
このなかで私の最新結果は『N』型、献身パターンの「ナイチンゲール」に当てはまるようです。

ナイチンゲール… な、なるほど(汗

この表現は痛いところを突かれていて、ものすごく恥ずかしいと感じます。若い頃だったら激しく抵抗していた定義ですが、今の年齢になると人生経験の反省から「そうかもしれない」と素直に受け止められます。

客観的に観て、史実の諸葛亮もこのN型Ⅲタイプとして生きたに違いないと思います。
※晩年、厳しさを演じていた時期はCPが高くなり「ウェルテル」型となって苦悩したでしょう

そしてこういうタイプは、一般的な意味での「策士」にはなれないでしょう。
NP(優しさ)が強いと相手を騙したり傷つけたりすることが辛い。姑息な策がとれなくなる。
AC(従順さ)が高く、FC(自由度)が低いとハイリスクな策が選べない。

N型Ⅲは知能が高いので、策略もやってやれないことはないのですが、倫理性の高さが邪魔して「実戦下手」となるでしょう。
史実評価の通りです。

〔補足〕エゴグラムは永久不変な性格を調べるものではなく年齢や環境によって変わります。しかし、訓練して性格を変えたとしても戻りやすい「生き癖」のようなものがあり、年を取るほどそれが出現しやすいようです。

N型の正しい定義


では、同じタイプの方のためにもここへN型の正しい定義を引用しておきましょう。

上のサイト様のN型の説明より
N型は、NP を頂点とし AC も高く、FC を底とするグラフになっています。
人に優しく、自分の身を粉にして他人のために尽くす献身タイプです。
その反面、人に頼まれるとノーと言えない、自ら楽しむことをほとんどしない人でもあります。



このタイプは、自己否定的で他人に依存的になりがちな、献身するタイプと言えます。
人に優しく、自分を犠牲にすることを良しとしている、人生を楽しむことが苦手です。

I am not OK , You are OK.(自分は×、相手は○)と考えがちなタイプです。



このタイプの男性の場合には、会社への忠誠という形で現れてきます。
会社の仕事は、自分を犠牲にしてでも忠実にこなすタイプです。
気分転換を忘れ、会社への献身が行き過ぎると自律神経失調症などストレス病を発症しやすい人と言えます。

献身はよいですが、行き過ぎないようにし、自分らしく生きるために FC を上げることが大切になります。

このなかでもA=知性が高いN型(筆者はこのタイプ)の場合。
AC が高く、低い CP は共通ですが、NP ではなく A が高いタイプです。
このタイプの人は、高い A は仕事での実行力を発揮しますが、AC が高く CP が低いという特徴から、周囲の人に気を遣う友好的な人なので、仕事を頼まれると断りきれません。
また FC が低いことでほとんど遊ばないので、仕事中毒になりやすい傾向があります。

う、うむ。そうかもしれないですね。痛い…。

史実孔明、特に後半はまさにこれだったと思います。
赤いカルトたちは今、必死でこのイメージを潰すための捏造話をばらまいているのですが、現実の諸葛亮にこのような性質があったことは改変しようのない事実です。

いっぽう筆者は幼い頃からこういう自分の性質を自覚していましたので、ボランティアに走らないようブレーキをかけてきました。
“遠い他人より近くの家族を大事にすること”。
これが現在の私の戒律です。
大勢の他人の代わりに家族へ身を捧げるようになった、と言えるでしょうか。

しかし、
「イイ子」「従順」「忠誠なだけ」
と思われるとまた違います。ということは何度も書いていますが。
暴力主義者の言うなり、奴隷には決してなりません。奉仕する相手を決めるときも、奉仕すると決めるときも自分の意思です。
だから実は誰よりも「自分らしく」生きている。
それでマイペース・我が道をいく、との側面があるのでしょう。

エゴグラムは少し解釈がステレオタイプで表面的過ぎると感じますね。(だから私は昔からこのテストが苦手でした)
むしろ本質個性は占星術のほうが正しく表しているのかもしれない。

ただ、少なくとも「逆N型」との違いだけは明白に表現されているようです。


逆N型こそ赤**氏が批判しているタイプなのに、なぜ賞賛してるの?


比較のために逆N型の性質を引用しておきます。正確に正反対のようで、興味深く思いました。
逆N型は、CP 、FC が高く NP 、 AC が低いグラフになっています。
自己主張が強く、自己中心的な傾向があります。
理想や目標に向かうエネルギーが高く、好奇心が旺盛で想像力も豊かなので、新しい目標を見つけチャレンジすることができますが、人の意見を素直に聞かないという特徴もあり、 ワンマンタイプと言えます。

この特徴が良い方向に回ればカリスマ性を持ったリーダーとなるでしょうし、悪い面だけが強調されてしまうと傲慢なリーダーとなってしまいます。

また、このような欲求(特性)を芸術や芸能分野で活かせば、その世界で力を発揮するでしょう。


人に共感できないので、自分の思い通りにならないので、よりよい人間関係を築くのが苦手です。

I am OK , You are not OK.(自分は○、相手は×)と考えがちなタイプです。

自分を肯定的(自分は正しい)に評価し、相手を否定的(相手は間違っている)に評価するので、自分の意見を曲げず、自己主張が強いタイプです。

相手の意見が受け入れられないので、相手の意見に強く反論したり批判したりします。
そして、自分に都合の悪いことは責任転嫁することもあるので、対人トラブルは常に付きまといます。

このように、対人関係のトラブルが多いということは周りから批判され反感を買うことになります。

ただ、周りから批判されても、本人は意に介しません。
自分は正しく、周りが間違っていると考えているので、人がいくら意見を言っても聞きません。
自分が間違っていたとしても、間違いを認めず、周りのせいにするでしょう。
…いかがでしょうか? 史実の曹操みたい、と思ったのは私だけではないはず。

I am OK , You are not OK.(自分は○、相手は×)
が、まさに曹操の言葉として有名な
俺は人に叛くが、人が俺に叛くのは許さん
そのものだったので噴きました。
本当に私のタイプと正反対ですね。
自己中心の独裁者、父権主義者とはこちらの逆Nタイプのことを言うのではないでしょうか?

つまり赤**たちが諸葛亮に対して、
「人の言うことを聞かない孔明は自己中心の独裁者だー! 父権主義者だー!」
と叫んでいるのは、実は彼らの教祖である曹操様に向けて叫んでいたことになりますね。笑

ところが彼らの思考では、曹操様のことだとなぜか自己中心の蛮行も「素敵ぃ~」と嬌声を上げてしまう行為だし、民衆虐殺も「素晴らしい正義」にすり替わり、拷問処刑も「痺れちゃーう。曹操様の拷問受けたぁい!」という発想になる。
どこまでもご都合主義で異常思考、狂っています。

ともかく現代の科学的な性格診断ではこのような分析結果となりますので、皆様カルトによる史実反転を信じないようお願いします。

〔念のためフォロー〕


逆N型の人が全員、曹操のような虐殺魔になるということはあり得ません。

曹操ほどのサイコパスで人殺しを趣味とする者は障碍です。ほとんどの逆N型は、性格タイプが自己中心なだけでサイコパスと呼べるほどの有害行動をする人は少ないでしょう。

【別館参照】サイコパスとは何か? 先天障碍と後天性とがある

逆N型はいわゆる一般で言うところの「策士」タイプであり、競争社会で勝ち抜く可能性が高いなどの長所もあります。
犯罪スレスレのことをやるのが常套のため通常は嫌われがちですが、現代社会ではむしろこのようなタイプのほうが賞賛されやすいのではないでしょうか? 

 

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