『テューレリー庭園』戦略力、企画力…。IC(天底)とは何か

 占星術サイトから来られている方向けの話。
そろそろ初級講座を更新せねばと思いまして考えをまとめているのですが、意外と難関なのがIC(天底)の解釈です。
もちろん、テキスト通りに書けば簡単なのですよ。
「先祖・家系・家庭を表す」
「あなたのルーツ」
「あなたが最も心安らぐもの」
等々。
プロもこのまま解説していますね。

でも実際に解読していくと決してそうとは言い切れない結果が出て来る。

たとえば私のICは双子座2度(数え3度)。
『テューレリー庭園』。
比較的に最近手に入れた直居版のサビアン解釈を読んで、一般的なICの説明について考え直すことになりました。

…よい意味では戦略戦術に適性を持ち、卓越した先見性のある企画力となる。
一般的にいえば、頭の良い人だ。だが、エゴの思考は絶えず二元の光と影を持つので、打算、陰謀という側面も出てこよう。

『定本サビアン占星学』P68
追記。
すたくろさん解釈:
目指す方向性
・シンメトリー効果を活用していくこと。
・部屋をシンメトリーにしたり、また、自分をシンメトリーな状態に近づけていくこと。
・右脳と左脳の連動を生かして想像力と具体化する力を発揮すること。
・機能美や様式美、作法などを追求していくこと。
・論理的に物事を考えてシンプルな答えを導き出すこと。
・スケジュールを合理的に組み立てて無駄のない時間を過ごすこと。
・シンプル+豪華さの演出で人々に安心感を与えれるような場を作る、またそんな人になること。
・組み立てる思考力を発揮して目標達成のための美しい戦略を立てること。
・知性を発揮して自分を表現していくこと。
・安心感を手に入れるために自然界に手を加えていくこと。

この度数の人の特徴
・企画、戦略、策略などに優れている。
・スマートで賢い人。
・知的でお洒落な人。
・ソリッドな考え方の持ち主。

頭痛がしてきた。
また、「戦略戦術」ですか。しつこいな。

ほぼMCの『チェス』と同じような内容であり、これを自分の「心休まる場」などと言われても抵抗を覚えてしまいます。
むしろ心が騒ぐと言うか、こんな指摘をされたら落ち着きを失ってしまうね。
自分はそんな人間じゃない! と叫びたくなる。

ホロスコープは「生まれる前に自分で立てた人生計画書」であることは確かなのだけど、ホロスコープ自体は高次霊など他者の手で書かれ、本人は受け入れてサインする程度かもしれない。(起案は相手方の契約書みたいなもの。もちろんサインすることに関して自由意思あり)
最近、そんなふうに思いつつあります。

思えば私が中学時代に自分のサビアンの解釈に出会っていたら、
「全く当たっていない」
と笑って放り出していた可能性が高いです。
ゲームにすら興味がなく、戦略戦術など自分には関わりがないと思っていたし、そんな能力など僅かもないと思っていました。(いや今でも、そんな能力はないと思っていますが)
前世記憶の体験を経て初めてこの解釈が理由あるものなのだなと分かります。

だから自分のホロスコープが全く当たっていないと感じている若い人も、いずれ人生の秘密が明らかとなるにつれてホロスコープは正しかったと知ることになるのではないかな。
もう一件、せっかくなので先日触れたヘッセのホロスコープも見てみると、この方のICはさらに分かりやすい。

http://esotericastrologer.org/?articles=herman-hesse

牡羊座19度(数え20度)『冬に鳥に餌をやる若い少女』
強靭な精神で地道な行為を続ける人。孤立するが、恐れない。弱者への慈悲を持つ。

まさに一般読者が彼に対して抱いている人物像ですね。
なんと言うのか、やはりICも本人にとっての「心安らぐルーツ」なのではなくて、公のイメージの補完という気がするな。
あるいは押し込めておきたい自己イメージ。無視したいレッテル。
押し込めているつもりなのだが周囲には伝わっている、とか?

ICの一般解釈を考え直すべきかもしれない。

 

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自殺者の運命は、計画されていない


 前記事で鏡リュウジ氏の推進する「心理占星学」について少しケチをつけてしまったみたいなのでフォローしておくと、『占いはなぜ当たるのですか』という本は私の心に長く残る名著です。

理由は、鏡氏が「自殺者の運命だけはホロスコープで読むことは出来ない」と述べていること。
この断言を読んだ当時は本当に衝撃を受け、以降上の本は私のバイブルとなりました。

――“自殺者の運命だけはホロスコープに刻まれていない”
これは正確には鏡氏の個人としての断言ではなく海外の研究データです。
統計を取った結果であるということがまた衝撃でした。

つまり、自殺だけは人間の運命として予定されていないということになります。

事件・事故・病気、あらゆる苦悩の可能性(あくまで可能性)はホロスコープに表れる。
しかしそこから逃げる自殺という可能性だけは不思議と一切表れない。

何故か。
それは人の魂が、苦悩を受けることすら予め自分自身で計画して生まれてきているから、だろうと私は思います。
人はこの地上で苦しみを受けて、それを自らの魂を磨く研磨剤とすることを選択する。

しかし現実には生きていることが嫌になり自殺する人がいます。
(私も何度かその選択を選びかけたことがあります)
この事実は、人間が生まれて以降に「計画変更」する選択の自由が完全に与えられていることの証明になると思います。

やはり、人に「神から与えられた運命」などないのですよ。
全ては自分自身で選択可能なんです。

ただし生まれる前に自ら予定していた運命(カリキュラム)を変更することは自分の望むところではないはずなので、よほどの意志力がなければ変えられませんがね。また、地上レベルの浅知恵で変更したところで、大きな視点から見れば必ず不都合は生じますが。

まして、全てを放り出して自殺することは最も自分としては本意ではないことなのだろうと思います。

「罪」などというものは魂にないので、自殺したからと言って罰してくれる神様などいません。
しかしその行為が自分にとってマイナスのことであるとは言えます。
もう一度苦しいカリキュラムを繰り返すだけであるし、もしかしたらさらなる負債を負ってもっと苦しくなるかもしれない。
自分自身が後で辛くなるだけだから、やめておいたほうがいいのではないでしょうか。

スピリチュアル的な経験を経た私が断言しますが、占いは決して運命(神)VS自分自身の二元論で引き裂かれる矛盾したツールではありません。

予定は未定、神イコール自分なのです。

全ては自己責任の世界。

これほど冷徹で数学的な原理はないと思います。
この原理を「神」と呼ぶのだとしたら、人は数学的システムを畏れるべきです。
私はただただこの冷徹なシステムを畏れ(畏怖)ながら過ごしています。


※「魂は孤独」と書いていた箇所、誤解する人が多そうだと考えてカットしました。ここで書いた孤独とは、“魂は自分の運命を自分で決断して責任を負わなければならない”という意味。温かく見守ってアドバイスをくれる先輩方、一緒に生きる仲間たちはたくさんいますので「独りぼっちで寂しい」という孤立状態とは違います。絆を忘れたり否定したりすると下の孤独感に陥ります。
【関連記事】人は地上でバラバラ? 勘違いの個人主義=孤独感が全体主義を招く 

 

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ユング心理学と占星術融合への疑問

 占い館でいずれ書こうと思っていますが、とりあえず備忘録で考えをメモしておきます。

鏡リュウジ著『占いはなぜ当たるのですか』を読み返していると、いつか歩みかけた懐かしい道を思い出します。
秋山さと子の『ユング心理学』を手に取ったのは高校一年の時だったか。
外向・内向、思考・感情・感覚・直観の分類は目からウロコで、衝撃を覚えたものです。
以来、ユング系の解説書や夢分析の本を読み漁りました。

そもそも、それらの本を読み漁るきっかけとなったのは16歳時に見たあの「狼の夢」を分析するためでした。
そしてお決まりの「シャドウ」だの「老賢人」だのアーキタイプに分類し、苦心しつつ夢解読を自分なりにまとめたりしましたっけ。
・オオカミ=シャドウ
・最後に表れる鳥=老賢人
等々。

しかし私が心理学にはまらなかったのは、それらの夢分析が完全なる間違いであったと後で知ったからです。
「シャドウ」だの「賢人」だのに苦しみつつ当てはめたシンボルは、全て前世の記憶の断片に過ぎず、何ら現在の精神状態も未来予測も示していなかったと判明したのです。

具体的に言うと、記憶が動物キャラにすり替わっただけなのでした。

・小動物=庶民
・オオカミ=権力者
・肉を食べる=庶民から搾取すること、独裁者になること
・肉が食べられない=搾取出来ない
・キツネ=最後に戦った敵将
・キツネの言葉=敵将が死後に言った言葉
・最後に表れる鳥=生前の主人


ついでに言えば、何故「オオカミ」というキャラが選ばれたのかと言うと、これは前々世のギリシャにて学んだ「独裁者(僭主)は狼である」という記憶が残っていたからでしょう。
つまり動物キャラへの変換の過程すら、記憶の断片に過ぎなかったわけです。

ユング心理学の信奉者の方には申し訳ないのですが、やはり夢は集合無意識からのメッセージであることは滅多になく、ほとんどの場合このように退屈な記憶の断片の組み合わせに過ぎないのではないでしょうか。
現実で思い当たらない記憶が含まれる場合、ぞれは前世の記憶だからかもしれません。
 

私はこの経験を経て心理学的な夢分析に疑いを持ちました。
完全に疑ったわけではないが、「全ての夢をアーキタイプで分析するのは間違い」と思いました。
それで、占星術に関しても【心理占星学】というジャンルには踏み込めなかった次第。

その後、出会ったのが松村潔の『夢分析』という本でした。
これが松村潔との著書の最初の出会いだったのですが、彼はその本の中で
「夢に淫するな」
と書いていました。
つまり、
「あまり夢のイメージを深読みし過ぎて誇大に解釈し、こだわってはならない。冷静に、現実の日常に添った解釈をしなければならない」
という意味です。
事実として神秘的な夢が記憶の断片でしかなかったという経験を経て、心理学一辺倒の夢分析に疑問を持っていた私は「これだ」と思いました。
基本的には松村氏も夢のイメージを集合無意識的に解釈していたと思いますが、彼の凄いところは、彼自身がオカルティストであり神秘や占いを「事実」と捉えることが可能だったことでしょう。

神秘は「事実」とするなら一気にその後光を失い、地上の現実と同じく広がりのないイメージとなってしまいます。
地上の人たちから見れば前世・来世も「あり得ないこと」ではありますが、いったんそれを事実と受け入れたなら、一段階上の狭い現実に過ぎないのです。

固定された現実にはもはや広がりなく、退屈です。
その退屈を避けるため、心理学好きな人たちはイメージを広げよう広げようとするのでしょうか?
もしかしたらユング自身もそうだったかもしれません。
(ユングの場合は自分自身にも霊感があり、死後の世界もたびたび行き来していたようですが、宗教的な背景や反オカルティズムに遠慮して「科学」の心理学領域から出ることが出来なかったのかもしれない)
 
でも実際、鑑定をしていると思うんですよね。
「占星術は拡大解釈ではなく、広いイメージの中から一つだけ解釈を選び取ることだ」
と。素人のくせに生意気ですが。
つまり占星術は、氾濫するイメージの濁流の中から、その人だけの現実的な解釈を選ばなければならない。そうでなければ鑑定にならないし、実生活に何ら役立たない。

むしろ拡大より縮小です。
そのほうが遥かに難しい。

 
【心理占星学】のファンは激しく反論するでしょうが、やはり占星術は技術であって、事実・現実としての神秘を写し取った写真を「正しく」読みとることに意味があると思います。

私に対して
「土星から苦手な分野は何であるのか分析してください!」
などと土星=シャドウとする技法をしつこく言ってくるお客様がいたのですが、私は土星をシャドウとは思っていないので受け入れることは出来ませんでした。
(その技法を行っている先生のところへ行ってください、と丁重にお断りしました)

無論【心理占星学】が全て間違っていると言うわけではないです。
参考にして取り入れるべきところは取り入れたいと思います。
しかし何にしても、他人が唱えた説を無考えに鵜呑みにし、誰にでも強要することだけはやめたいものですね。

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ユング心理学と占星術融合への疑問


 占い館でいずれ書こうと思っていますが、とりあえず備忘録で考えをメモしておきます。

鏡リュウジ著『占いはなぜ当たるのですか』を読み返していると、いつか歩みかけた懐かしい道を思い出します。
秋山さと子の『ユング心理学』を手に取ったのは高校一年の時だったか。
外向・内向、思考・感情・感覚・直観の分類は目からウロコで、衝撃を覚えたものです。
以来、ユング系の解説書や夢分析の本を読み漁りました。

そもそも、それらの本を読み漁るきっかけとなったのは16歳時に見たあの「狼の夢」を分析するためでした。
そしてお決まりの「シャドウ」だの「老賢人」だのアーキタイプに分類し、苦心しつつ夢解読を自分なりにまとめたりしましたっけ。
・オオカミ=シャドウ
・最後に表れる鳥=老賢人
等々。

しかし私が心理学にはまらなかったのは、それらの夢分析が完全なる間違いであったと後で知ったからです。
「シャドウ」だの「賢人」だのに苦しみつつ当てはめたシンボルは、全て前世の記憶の断片に過ぎず、何ら現在の精神状態も未来予測も示していなかったと判明したのです。

具体的に言うと、記憶が動物キャラにすり替わっただけなのでした。

・小動物=庶民
・オオカミ=権力者
・肉を食べる=庶民から搾取すること、独裁者になること
・肉が食べられない=搾取出来ない
・キツネ=最後に戦った敵将
・キツネの言葉=敵将が死後に言った言葉
・最後に表れる鳥=生前の主人


ついでに言えば、何故「オオカミ」というキャラが選ばれたのかと言うと、これは前々世のギリシャにて学んだ「独裁者(僭主)は狼である」という記憶が残っていたからでしょう。
つまり動物キャラへの変換の過程すら、記憶の断片に過ぎなかったわけです。

ユング心理学の信奉者の方には申し訳ないのですが、やはり夢は集合無意識からのメッセージであることは滅多になく、ほとんどの場合このように退屈な記憶の断片の組み合わせに過ぎないのではないでしょうか。
現実で思い当たらない記憶が含まれる場合、ぞれは前世の記憶だからかもしれません。
 

私はこの経験を経て心理学的な夢分析に疑いを持ちました。
完全に疑ったわけではないが、「全ての夢をアーキタイプで分析するのは間違い」と思いました。
それで、占星術に関しても【心理占星学】というジャンルには踏み込めなかった次第。

その後、出会ったのが松村潔の『夢分析』という本でした。
これが松村潔との著書の最初の出会いだったのですが、彼はその本の中で
「夢に淫するな」
と書いていました。
つまり、
「あまり夢のイメージを深読みし過ぎて誇大に解釈し、こだわってはならない。冷静に、現実の日常に添った解釈をしなければならない」
という意味です。
事実として神秘的な夢が記憶の断片でしかなかったという経験を経て、心理学一辺倒の夢分析に疑問を持っていた私は「これだ」と思いました。
基本的には松村氏も夢のイメージを集合無意識的に解釈していたと思いますが、彼の凄いところは、彼自身がオカルティストであり神秘や占いを「事実」と捉えることが可能だったことでしょう。

神秘は「事実」とするなら一気にその後光を失い、地上の現実と同じく広がりのないイメージとなってしまいます。
地上の人たちから見れば前世・来世も「あり得ないこと」ではありますが、いったんそれを事実と受け入れたなら、一段階上の狭い現実に過ぎないのです。

固定された現実にはもはや広がりなく、退屈です。
その退屈を避けるため、心理学好きな人たちはイメージを広げよう広げようとするのでしょうか?
もしかしたらユング自身もそうだったかもしれません。
(ユングの場合は自分自身にも霊感があり、死後の世界もたびたび行き来していたようですが、宗教的な背景や反オカルティズムに遠慮して「科学」の心理学領域から出ることが出来なかったのかもしれない)
 
でも実際、鑑定をしていると思うんですよね。
「占星術は拡大解釈ではなく、広いイメージの中から一つだけ解釈を選び取ることだ」
と。素人のくせに生意気ですが。
つまり占星術は、氾濫するイメージの濁流の中から、その人だけの現実的な解釈を選ばなければならない。そうでなければ鑑定にならないし、実生活に何ら役立たない。

むしろ拡大より縮小です。
そのほうが遥かに難しい。

 
【心理占星学】のファンは激しく反論するでしょうが、やはり占星術は技術であって、事実・現実としての神秘を写し取った写真を「正しく」読みとることに意味があると思います。

私に対して
「土星から苦手な分野は何であるのか分析してください!」
などと土星=シャドウとする技法をしつこく言ってくるお客様がいたのですが、私は土星をシャドウとは思っていないので受け入れることは出来ませんでした。
(その技法を行っている先生のところへ行ってください、と丁重にお断りしました)

無論【心理占星学】が全て間違っていると言うわけではないです。
参考にして取り入れるべきところは取り入れたいと思います。
しかし何にしても、他人が唱えた説を無考えに鵜呑みにし、誰にでも強要することだけはやめたいものですね。

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『シークレット』のシークレット。人生の創造とは何か

 


 『シークレット』などの引き寄せ法則、成功哲学書について思うことを書いてみます。

モラトリアルから卒業し、「分をわきまえる」ことがクリエイト

友人がメールで引用した文書にインスピレーションを受けました。
以下、引用の引用。
You are not discovering yourself, but creating yourself anew. Seek,therefore, not to find out Who You Are, seek to determine Who You Want to Be.

人生とは自分自身を発見することではなく、創造することであり、自分が何者なのかを見つけようとするのではなく、自分自身がどうなりたいのか決めること。

『Conversations with God』

この引用箇所、私も全く同様に思います。
私の輪廻転生の記憶から言えば、自分が何者になるかは自分で決めることが出来るようです。
全ての未来は完全に自分自身で選び取っていくものです。

ただ上の文書はあまりにも神々の世界の言葉に近すぎて、地上では誤解されるでしょう。

上の文書は、「自分」という個性が全く無いのだとは言っていないし、過去も全く存在しないのだとも言っていない。したがって「自分が何者なのか考えることは意味のないこと」とは、少なくともこの地上においては言い切ることは出来ないはずです。

何故なら地上生活では時間が確かにあり、過去は存在するからです。
大きな宇宙の真理から見れば「時間は幻想」が真実だとしても、地上生活において「時間は幻想」だと主張する人は生きていけません。
もし一秒前のことも記憶できない人がいたらそれは障がいとなります。
時計を放棄し、自分勝手な行動をしていたらとても通常の社会生活は送れなくなる。

この地上の時間軸で人生を生きる限りにおいては、立ち位置が必要なのです。
立ち位置とは個性や役割のことです。

「立ち位置」を探すためには、直近の過去の経験は確かに役立つこともあるでしょう。
人によっては過去生の経験が邪魔して先へ進めなくなってしまう場合があります。
このような人の場合は、過去生を探ることが重要な意味を持つはずです。

しかし「自分探し」のためだけに過去生を探っても、玉ねぎを剥いていくようなもので永久に核心には辿り着けないでしょう。
数万年や数十万年の長い期間にわたって培った個性であっても、それは魂の故郷の性質と経験が混ざり合ったものに過ぎず、「真性」とまでは言えないからです。
辿り着くとしたら、全ての魂が一つであるという核心です。
個性は無なのだ、という真実です。

結局、ゼロの地点に放り出されてしまうだけです。

自分探しのモラトリアム(猶予期間)を与えられた若者たちは、無理にでも自分自身で立ち位置を選ばないと大人にはなれません
いつかは自ら選択しなければ先に進めないのだと思います。
これが「クリエイト」、人生を創造することだと言えます。


ところで、地上において我々が混乱してしまうのは、この「選択」がいつ行われたかの自覚がないことです。
生きているうちに行動を選択し人生を変えていくことも可能ですが、ほとんどの場合、大枠の計画は生まれる前に決まっています。
この大枠の計画は誰が決めるのか?
これも自分自身です。
神様などいません。 人間の運命を定めて押し付ける神様、都合良く地上の願望を満たしてくれる「一般イメージの神様」などいないという意味です

だから不幸なことが起きて神様を怨んでも無駄。
全ては自分で決めたのです。この人生でそれを経験するために。
経験して行動して、その行動により未来を「クリエイト」するために。

生まれる前の自分は完全に公平で、不幸も幸福も地上感覚では分けていませんから、いざ地上に降りて来て「無理」と思うようなことでも平気で選択してしまうのです。
とは言え、それは必要な経験だし、必ず現時点の自分で乗り越えられるようなものを選んでいるはずです。

現実化する思考が生まれるタイミング

この生まれる前の人生設計こそが唯一、「現実化する思考」と言えます。

ですから残念ですが、いくら現世で思考してみたところで、地上感覚におけるエゴや欲が叶うことは滅多にありません。
生まれる前の自分はそのような地上感覚でエゴを満喫することを願っていなかったからです。

もし「思考が現実化した」と主張する有名人がいたとすれば、その人は生まれる前に立てた計画を明確にイメージ出来たというだけのことです。
(大富豪にこの人種が多いように感じられるのは、成功哲学書がインタビューしているのが大富豪だけだからです。彼らはたまたま、今世では大富豪になる計画で生まれてきただけのことです)
生まれる前の計画は、生きている間にイメージしようがしまいが叶います。

それで私は、
「『ナポレオン・ヒル』や『ザ・シークレット』は間違っていないが、不十分」
と言っています。

あのような本が必ずヒットしてベストセラーになるのは、いかに人間の欲が深いかということを表していますね。
地上に降りてくると人間たちは金や名誉ばかり欲しがるように変わってしまう。

誰もが願うだけで大富豪になり有名人となれる。
そんな浅ましい願いを叶える魔法の杖が存在するわけないでしょう?

思い出すべきです。
我々が生まれる前に欲したのは、金や名誉ではなかった ことを。

どのような不幸な人生であっても、自ら選択して求めた宝であることを。

本来はポジティブな人生も、ネガティブな人生も存在しないのです。どちらの人生も同じです。

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