気付けば師走。
何故か私にとって畑違いの会計を任されているため、明日から決算で忙しくなります。
今日は休日を取り、某所へ紅葉を見に行きました。
「紅葉を見るためにちょうどいい日を狙って出かける」という行為は初めてかもしれない。
とても贅沢な休日でした。
完璧な日本の景色です。きれいですね。
こんな景色を堪能できるのも平和あってこそ。有り難いです。
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私が「ホロスコープの運命を受け入れたほうがいい」と言う時は、何かの宗教みたいに神様の言うなりになれと押し付けているのではありません。
ただ、
「あのさ。自分で立てた返済計画なんだからさ、ちゃんと真面目に返したほうが自分のためだよ? 今返さずに、いつ返すの? 借金も返さずにまた“派手な生活がしたい”なんて言って闇金にまで手を出すなんて、今後ますます自分を追い込むだけだよ」
という、友人なら誰でも言うごく当たり前のことを言っているだけです。
思うに、輪廻転生の概念がない(または薄い)人の一部は、「短期間で欲望を満たさなければならない」という強迫観念にとり憑かれています。
どうにか最短で欲望を満たさなければならないと焦るので、風水や自己啓発法等の“裏ワザ”でも使って、無理やり勝ち組になろうとする。人によっては詐欺などの犯罪もやる…。
今の人生は一度きり。それは真なり。そんなことは生きている間でも一緒です。今日という日は二度と来ない一度きりの日。今は二度と味わえない一度きりの瞬間。
だけど「今という瞬間は二度と来ない」からと言って、刹那の欲望を貪るだけでいいのですか?
やるべきことをやらずに、ただ金持ちになって他人を見下すのが幸せと言えるのでしょうか。
運命の法則、信じるか信じないかはあなた次第。だけど信じて損することは何もないと私は思います。
いいではないですか、自分で選んだ人生を精一杯に生き抜くだけで。※
どうして既に在る人生を受け入れずに、もっともっとと、貪る必要があるのでしょうか。
「成功」
「勝ち組」
「ぱっとした人生」
が口癖の人たちは貧乏人を見下すでしょう。
無為に生きている人たちを見下します。
それどころかいずれ邪魔者扱いするはずです。
彼らの理屈で言えば、「負け犬」は「社会のゴミ」なのではないでしょうか。
何を信じるのも自由ですが。
私は貧しい人や障害ある人を「負け犬」などと呼ぶような人間にだけにはなりたくない、と思っています。
※ホロスコープに社会的成功が計画されている人は大勢いますから、貧乏だけに甘んじろと言っているわけではありません。運命に向かう本能が正常に発動されていれば、生まれ持った計画へ着実に向かいます。その時、人は「ワクワク」するはずです。ただ妙なセミナーなどを受けて他人に極度に洗脳されてしまうと本能がストップし、目標を見失うでしょう。せっかく計画されていた遠大な夢を見失い、「金持ちになる」などという浅い夢しか実現できないのは怖いことです。
※アイキャッチはイメージ画像
この時の率直な感想。
「マジか」。笑
偶然なのかなと思い、虹が消えてきた頃に試しにもう一度願ってみた。
「もう一度、虹が見たい」
するとまた虹が濃くはっきりとなっていき、頭上で丸くつながった。
感動で全身鳥肌が立った。
……どうやらマジで神様に願いが通じているらしい……。
それからしばらく経ったある日。
相方が風邪をひいているのに外出したいと我がままを言うので、冗談で
「神様。このおバカさんが外出したいと我がままを言って聞きません。どうか雨を降らせてください」
と言ったら30分後に雨が降ってきた。
相方は「お前のせいで雨が降った!」と本気でご立腹だった。
(天気予報では翌日の夜から雨のはずだった。早まったのはお前のせいだ、と怒られた)
何か最近こんなふうに天が自分の願ったことを実現してくれることが多い気がする。
これは私が天気を念力で左右しているという勘違いの自慢話ではないので(笑)、念のため。
しかしこういう出来事で「天意」を感じなかったら、さすがにバカかもしれないと最近は思うになった。
あの虹事件や雨事件はたぶん、
「お前を見捨てていないよ。まだ見ているよ」
という高次霊からのメッセージなのではないかと受け取っておく。
以上、プライベート談でした。
先日のレスでも少し「天意」が話題となりました。
色々なことがごちゃ混ぜとなっており、「天意」が何であるのかよく分かっていない方が多いようです。
天気を動かすような「天意」とは、地上に近い位置にいる高次霊たちの仕業。
地上の我々はただ「神様」と呼んでいますが、神にも色々な段階があり、我々に影響を与えるのは地上を卒業した後の先輩たち「高次霊」です。「究極の神」の使い、西洋的に言えば「天使」ということになるでしょう。
彼ら高次霊たちは「天使」として表れる場合は善意の存在であり、その地に生きる人類にとって善いと思う側に味方します。
その際、
「君たちを応援しているよ」
という証拠に虹を見せることもありますし、逆にそちら側に有利であれば雨を降らせることもあります。(もちろん、風を吹かせることもあるでしょう)
人間感覚では、ただ見た目の晴れがましさから
「晴れていれば吉」
とだけ考えるのですが、高次霊たちはそこまで単純なメッセージばかり送るわけではありません。
人間が「天、神」と呼ぶところの高次霊たちは、人間の感覚に近いので、時に名映画監督のような演出・支援をほどこします。
究極の存在である真の意味の「神」はこのような人助けをしません。ごちゃ混ぜにしてはいけません。
そもそも究極の神が、人類の一民族の戦争など手助けするわけがないのです。
たとえばジャンヌ・ダルクのもとに表れた天使は、フランスに属する高次霊です。
他に昔から聖書で描かれた「神々」も同じく民族に属する高次霊と思われます。
より本当の「神」に近い存在は地上の善悪がなく、地上から見れば残酷で、悪魔(悪魔は存在しないが、人類にとって害ある行いをする者のこと)さえ召喚して地上をかき乱すことがあると思われます。
ただ言えることは、善良な高次霊たちはその時代・地域において最も正当と思われる集団に味方するということです。
決して人間の言う「正義」とイコールではないので注意してください。
わたしは、死後の世界があると思う場合と、死後の世界は存在しないと思う場合とでは、人生の過ごし方が、大きく違ってしまうと思っている。
死後は存在しないと考えている人たちには強い否定性が潜んでいると感じることが多いのだ。常に何か暴力のようなものを隠し持っているようにも見える。…(略)…
私がここで否定性に支配されているというのは、根底的なところで、人間は死んだら何も残らないと考える人々のことである。
どんなものも終わる、決して何ものも続かない。何をしても最終的には何も残らない。「こんにちの世界観は絶望の上に打ち建てられる」(バートランド・ラッセル)
バートランド・ラッセルらしいが、死後の世界がないと思うことは、根本的に絶望に支配されることを意味する。最後はすべてを失う。子孫に託すといっても、子孫は自分ではない。ある時期が来ると、どんなに努力して手に入れたものも失われる。そうした考えに至ると、何事にもじっくり本気で取り組む気にはなれないのではないか。
たとえば、会社をやめてしまうと、会社にいる間に関わっていたプロジェクトがどうなろうとどうでもよくなる。…(略)…
だが、もしわたしたちの生命がなんらかの形で死後も継続し、何ら変わることがなく、自殺することで帳消しになるものなど何もないとしたら、どうだろうか。
以下は昔書いたことの繰り返しになりますが。
「自殺する人は死後の世界がないと思っている」
という話は、現実に松村氏の仰る通りです。
何故なら私は16歳~17歳の頃、自殺ばかり考える日々を送っていたからです。その当時の私は死後の世界や、魂の輪廻転生など一切信じていませんでした。
死後を信じない人が暴力を隠し持っているという松村氏の主張も、おそらく事実です。犯罪者たちは17歳当時の私と同じように「死ねば無」と考えて刹那的になり、欲望に打ち勝てず犯罪に及ぶのだろうと推測されます。
もちろん死後を信じない全ての人が犯罪をするわけではありません。犯罪したいという欲望を持ち+死後は無だと考え+神も存在しないと考える人が「どうせ死んだら消えるだけだから欲のまま生きねば損」という屁理屈で実行するという意味です。
また、心理学者や脳科学者たちの調査によれば、幽霊や生まれ変わりなど魂の存在を信じない人ほど「精神病になる確率が高い」そうです。
それだけ唯物主義は人間に絶望を与え、精神的な耐性を奪うということです。
私へよく寄せられる批判・説教に、
「あなたは人生が何度もあると思ってるのよね? ってことは、今の人生なんて大切だと思っていないんだわ。いつでも人生棄てられると思ってるんでしょ!?」
「吉野さん、永遠なんてないんですよ! 人生は一度きり! 目を覚まして今の人生を大切にしなさい!」
というものがあります。
(何故か妙な宗教にはまっている女性からの批判が多かったので、女性言葉で再現しています)
でも上の批判は完全に誤解で、逆です。
私は今の人生をとてもとても大切に思っています。
きっと上の批判をしてきた人たちの誰よりも、遥かに今を大切に生きています。
そもそも私が自殺を思いとどまったのは、前世記憶を思い出したからでした。
その時の感情について、詳しくは痛い私小説『僕が見つけた前世』に書いているのですが、自分の現在の苦しみの原因が過去生にあったことを知り「生きていていいんだ」と悟ったのが第一の理由。
次に理性では、
「自殺しても状況は変わらない。いや、自殺したら今よりもっと酷い苦しみを背負うことになる」
という恐怖の未来を考えました。
非常に利己的ではあるけれども、「死後は無ではない」「自殺しても苦しみは消えない」という恐怖があると、自殺を思いとどまるしかないのです。
「全部チャラにしたい、無に溶けて終わらせたい」
というのが自殺志願者のたった一つの願いです。そんな人にとって、
「終わらないんだ。消えないんだ。もっと酷いことになって今が繰り返されるんだ」
という想像は最大級の恐怖なのです。
次に私が悟ったのは
「今の人生は、一度しかないんだ」
ということでした。
ある前世について
「あの頃に帰りたい。あの人に会いたい」
どれほど強く、強く願ったとしても、過去の人生には戻ることは出来ません。
誰でも過去の想いにかられた時はそうなると思いますが……会いたくて、帰りたくてのたうち回るほど苦しいのです。
私は前世で親しかった人々を想って泣きました、さんざん泣きました。帰ることが出来ない現実に苦しみました。
しかし過去は過去でしかなく、建物や人も今は全て幻となって消え去ってしまっています。これが厳しく残酷な現実なのです。
また、たとえ魂が個性を保ったまま生まれ変わるのだとしても、完全に同じ人生は二度とありません。
前世の友人に再会しても、魂レベルでは再会した喜びに浸っているのですが、二度と同じ状況では会えない。
つまり同じ人生は、――いや今世でも同じ日・同じ時は二度と訪れない。
今この一瞬を生きられるのは、今の自分だけ。
そんな当たり前の事実を激しい痛みを伴って思い知らされました。
(時間は永遠に存在し、過去も未来も同じく存在します。しかし時間軸を移動する我々の魂は、今この瞬間にしか存在することが出来ないのです)
そのため逆説的に思われるでしょうが、私は今この瞬間・今この人生がどれほど大切か、ということを思い知ることになりました。
もし死後世界を信じる人に対して
「あなたは今の人生を大切にしていないでしょ!」
などと言う人がいるとしたら、その人はおそらく今日の一日を大切に思っていない人です。
昨日と同じように見える今日について、その人自身が「どうでもいい取るに足らない一日。くだらないから棄てていい」と考えている証拠なのです。
その人たちは、貧乏だったり平凡だったりする人生を
「ぱっとしない人生」
などと言ってけなすでしょう。
中国系の風水などをやる人や、ビジネスセミナーを主催する人によくいるタイプですが、「成功、成功、成功」とばかり繰り返す。
価値基準が貧し過ぎるからです。有名になったり金持ちにならなければ成功ではないし、無意味な人生と思う。そんな「ぱっとしない」人生は棄ててしまっていいとさえ言う。
しかしどんなに貧乏でも退屈に思える人生でも、かけがえのない人生です。
無名だからこそ味わえる穏やかな人生もあります。苦悩も病すらも大切な経験です。それを目標として選んで生まれて来る人生もあります。
大切ではない人生、大切ではない日など一日たりともないし、大切ではない時間も一瞬たりともありません。
そんなことすら知らずに生きている人は、死後について「在る無し」を論じたり宗教を騙ったりする資格は全くないと思います。
前世は決して、
「甘いファンタジー」ではないし「痛い妄想」などではありません。
どんな人にとっても必ず厳しい現実です。
まず「過去に戻れない」というこの明白な現実を突きつけられるだけでも辛い。
そのうえ、失敗したり殺されたり殺したりのネガティブな経験ばかり思い出すことになります。
(前世記憶は失敗した過去のトラウマがなければ思い出さないからです)
「貴族だった頃のアタシを思い出した~い♪」などと言って前世療法カウンセラーの元へ通い続ける夢見がちな人たちの願いなど、本物の前世記憶は徹底的に踏みにじることでしょう。
甘い妄想など今すぐ捨てるべきです。
全ては「因果応報」です。
貴族様のお花畑に遊ぶのが前世ではなく、お婆さんが夜中に語った恐怖の物語こそが真実です。
いつだか江原啓之氏がやっていた番組を見ていた小学生が、
「今の人生が嫌だから来世で頑張りたい。来世で会おう、バイバイ」
と書き遺し自殺したことがありました。
これは輪廻転生という「悪い思想」が招いた惨事だと偏った報道が行われました。
でも、もし輪廻転生を信じる人の全てが「来世があるから自殺しちゃえ♪」などと思うとしたら、昔の日本人は全員自殺していることになります。
昔の日本人はほぼ全員が輪廻転生を信じていたでしょう。
しかしそれと同時に、幼い頃から因果応報の思想を叩き込まれていました。
自殺したら来世ではもっと苦しむ、悪いことをしたら来世で同じ目に遭う。
輪廻転生思想を子供に話す際はまず先にその恐怖から教えたわけです。
日本に唯物思想が入り込み、輪廻転生思想の根幹(因果応報)が途絶えたからこその惨事だったと思います。
「来世があるから、今の人生を大切にしなくていいんだ」
などと大人が考えれば、子供は「来世があるから今の人生はリセットしていい」と思ってしまいます。
輪廻転生思想を全否定し、あるいは甘い夢として考え、「因果応報」を教えない文化こそ最も危険です。
お約束していた蝶の話です。
〔蝶々〕http://kyoumosiawasearigatou.ti-da.net/e7010861.html より引用
モンシロチョウや白い小さな蝶は、親戚や友人からのメッセージ。
頑張って!そばにいるよ。良いことがあるよ。ちゃんと、あなたを見守ってるよ。
という良い虫の知らせ。
白い蝶からのメッセージ。
それはあなたがとても感謝されている、愛されているということ。
アゲハ蝶は高次元からの守護霊様、守護神様、
ご先祖様、氏神様からの一番良いメッセージが具現化したのもの。
もしアゲハ蝶が自分の周りを飛んでるとしたら、高次元の方からあなたに
「近く良い知らせが届くよ。」
「あなたに良いご褒美が待っているよ。」
「あなたを悪いものから、いつも守っているからね。」
といった、とても有難いメッセージだとか。
今年も早いもので、8月に入りました。
8月は私にとって特別な月です。
毎年、また今年もこの月が来たな……と少し憂鬱になります。
もちろん自分の誕生月だから意識しているのですが。
子供の頃はただ楽しみだっただけの誕生月の訪れが、
「また一つ無駄に年を取るのか」
と憂鬱に思うようになったのは自分でも意外ですね。
それだけ自分も年を取ったということで、こんな年齢まで生きて来られただけでも感謝したいです。
しかし私がこの時期に憂鬱になるのは、実は「年を取るから」だけではなかったと近年気付きました。
まずこの月に入ると怒涛のごとく放送される、戦争特集番組。戦争ドラマ、戦争映画。
不可抗力で戦争の映像に触れてしまうことが憂鬱の原因ではあります。
さらに、……それだけではなく、自分自身の死をも連想してしまうのだと思います。
8月は私の誕生月であると同時に、前世で死の原因を作った月だからです。
ただし命を失ったのは8月ではなくて9月後半の秋口のはずですが。
(※注 こう言うのは、他人の記録を見て妄想しているわけではなく、私自身の記憶によります。私の記憶は、あらゆる文献やフィクション=他人の世界と完全に切り離されています)
真夏に生まれた私は子供の頃からよく、
「夏に強くて夏バテなんてしないでしょ?」
などと言われるのですが、そうでもありません。
先日も軽い熱中症で頭痛が止まりませんでした。
水分補給などに気を付けているのですが、どうも夏には弱いようで、いつも秋口になると体力を消耗しています。
それで、
「夏生まれの人ほど意外と夏に弱いんだね」
と周りの人たちに笑われ、そうなのかなと漠然と信じてきました。
他の夏生まれの人もそうなんだろうと思ったり。
でも占星術的によく考えてみれば、そうではないということになります。
自分の出生ホロスコープを見ると、「死の領域」である第8ハウスは乙女座後半~天秤座に当たります。
この第8ハウス上を太陽が通過するのは、毎年9月半ば~10月ということになります。
つまり一年に一回、私の場合は9月半ば~10月に体調の危機を迎えることになるわけです。
「夏生まれの人ほど夏に弱い」
と言うのは誤りだったことになります。
同じ月日生まれでも出生時間が違えば、危機となる季節は全く異なる。
代わりに他の季節生まれであっても、私と同じ8室に乙女座~天秤座の来る方は秋口に弱い、ということになるでしょうか。
なおこれは「死期」というほどには強い意味を持たず、毎年その季節に体調を崩しやすいだろうという予測になります。
皆様も同様に、第8ハウスに来る星座の月は体調を崩しやすいと言えるでしょう。
怯える必要など全くないのですが、体調管理にはお気を付けください。
他人の死の時期を占うのは公序良俗に反するため、占い師の方は依頼されても断らなければなりません。
(ケースによっては法律に引っ掛かる場合がありますのでご注意を)
ただもし「体調管理を重視すべき時」ということで大まかな占断を出すなら、冥王星に着目すると答えが出やすいと思います。
この公転周期の遅い冥王星が出生太陽のサインに入る年があり、なおかつその年のトランジット太陽が第8ハウスに入る季節は充分に気を付けなければならないでしょう。⇒完全例としてのホロスコープ『古代人で冥王星クリーンヒット→死、の事例 』
ただそれはあくまでも病気など、
「非常に体調を崩しやすい時」
と考えるのが正しいです。
寿命という意味で言えば、やはり人の寿命に最も近い天王星が、ネイタルの天王星に合となる時なのではないでしょうか。当たり前な考え方ですがね。
他にも、天王星×火星などの「不慮の事故」、トランジット冥王星または土星のネイタル8ハウス上通過の「不運」等、人の死期は一概に言えません。
私は特別な天命を持つ人でない限り、人の死期は定まっていないものと考えています。
ホロスコープに表れる死期はあくまでも「可能性」で、気を付けるべき時としか言えません。
通常は定められた運命などないので、避けられる死期もあるはずです。
占い好きの皆様には大変長らくお待たせしました。
占い館更新しております。
「西洋占星術初級講座6 土星で読む晩年と障害」
これを書いていて気付きましたが、孔明の出生時刻は推測通りでほぼ正解ですね。
第6ハウス土星の解釈――これは私個人の考えではなくてオーソドックスなテキストを参考にしたものですが――がぴたりと符号します。
第6ハウス土星:
仕事は地味ながら責任ある職務に就きます。重役にも抜擢されやすいでしょう。しかし厳格過ぎて職場での不和を招きやすく、部下の裏切りに遭いやすくなります。 困難アスペクトがある場合は健康面に不安があります。
ご存知の通り、史実として大々正解です。
孔明がこれを読んだら傷口に大量の塩を塗りこまれる感覚になるだろうと思います。
(「だろう」と言うか……)
恐ろしや占星術。
当時は知られておらず何ら影響力のなかったはずの古代東洋人の人生まで正確に当ててくるところが、恐ろしい。
※ちなみに孔明の出生時刻は土星など詳細を見ての判断ではなく、木星カルミネート(合)=大出世と六芒星の特殊アスペクトを根拠としたものです。なお孔明の土星/獅子座11度「宵の芝パーティ(セレブリティたちの気楽な集い)」は、晩年を生きなかったため実現していないものと思われますがどうでしょう? 人物イメージとして気楽なセレブリティの印象はありますでしょうか? 私にはよく分かりません。
また私は現在、第5ハウスに土星があるのですがこれも非常に当たっています。
第5ハウス土星:
幼い頃から遊びが苦手で、消極的な人格となります。恋愛でも奥手。困難アスペクトがあると子供に不幸が起きやすくなります。 安易アスペクトがあれば慎重さや真面目さが目上に買われて成功するでしょう。
占星術サイトから来られている方向けの話。
そろそろ初級講座を更新せねばと思いまして考えをまとめているのですが、意外と難関なのがIC(天底)の解釈です。
もちろん、テキスト通りに書けば簡単なのですよ。
「先祖・家系・家庭を表す」
「あなたのルーツ」
「あなたが最も心安らぐもの」
等々。
プロもこのまま解説していますね。
でも実際に解読していくと決してそうとは言い切れない結果が出て来る。
たとえば私のICは双子座2度(数え3度)。
『テューレリー庭園』。
比較的に最近手に入れた直居版のサビアン解釈を読んで、一般的なICの説明について考え直すことになりました。
…よい意味では戦略戦術に適性を持ち、卓越した先見性のある企画力となる。追記。
一般的にいえば、頭の良い人だ。だが、エゴの思考は絶えず二元の光と影を持つので、打算、陰謀という側面も出てこよう。
『定本サビアン占星学』P68
目指す方向性
・シンメトリー効果を活用していくこと。
・部屋をシンメトリーにしたり、また、自分をシンメトリーな状態に近づけていくこと。
・右脳と左脳の連動を生かして想像力と具体化する力を発揮すること。
・機能美や様式美、作法などを追求していくこと。
・論理的に物事を考えてシンプルな答えを導き出すこと。
・スケジュールを合理的に組み立てて無駄のない時間を過ごすこと。
・シンプル+豪華さの演出で人々に安心感を与えれるような場を作る、またそんな人になること。
・組み立てる思考力を発揮して目標達成のための美しい戦略を立てること。
・知性を発揮して自分を表現していくこと。
・安心感を手に入れるために自然界に手を加えていくこと。
この度数の人の特徴
・企画、戦略、策略などに優れている。
・スマートで賢い人。
・知的でお洒落な人。
・ソリッドな考え方の持ち主。
頭痛がしてきた。
また、「戦略戦術」ですか。しつこいな。
ほぼMCの『チェス』と同じような内容であり、これを自分の「心休まる場」などと言われても抵抗を覚えてしまいます。
むしろ心が騒ぐと言うか、こんな指摘をされたら落ち着きを失ってしまうね。
自分はそんな人間じゃない! と叫びたくなる。
ホロスコープは「生まれる前に自分で立てた人生計画書」であることは確かなのだけど、ホロスコープ自体は高次霊など他者の手で書かれ、本人は受け入れてサインする程度かもしれない。(起案は相手方の契約書みたいなもの。もちろんサインすることに関して自由意思あり)
最近、そんなふうに思いつつあります。
思えば私が中学時代に自分のサビアンの解釈に出会っていたら、
「全く当たっていない」
と笑って放り出していた可能性が高いです。
ゲームにすら興味がなく、戦略戦術など自分には関わりがないと思っていたし、そんな能力など僅かもないと思っていました。(いや今でも、そんな能力はないと思っていますが)
前世記憶の体験を経て初めてこの解釈が理由あるものなのだなと分かります。
だから自分のホロスコープが全く当たっていないと感じている若い人も、いずれ人生の秘密が明らかとなるにつれてホロスコープは正しかったと知ることになるのではないかな。
もう一件、せっかくなので先日触れたヘッセのホロスコープも見てみると、この方のICはさらに分かりやすい。
http://esotericastrologer.org/?articles=herman-hesse
牡羊座19度(数え20度)『冬に鳥に餌をやる若い少女』
強靭な精神で地道な行為を続ける人。孤立するが、恐れない。弱者への慈悲を持つ。
まさに一般読者が彼に対して抱いている人物像ですね。
なんと言うのか、やはりICも本人にとっての「心安らぐルーツ」なのではなくて、公のイメージの補完という気がするな。
あるいは押し込めておきたい自己イメージ。無視したいレッテル。
押し込めているつもりなのだが周囲には伝わっている、とか?
ICの一般解釈を考え直すべきかもしれない。
占い館でいずれ書こうと思っていますが、とりあえず備忘録で考えをメモしておきます。
鏡リュウジ著『占いはなぜ当たるのですか』を読み返していると、いつか歩みかけた懐かしい道を思い出します。
秋山さと子の『ユング心理学』を手に取ったのは高校一年の時だったか。
外向・内向、思考・感情・感覚・直観の分類は目からウロコで、衝撃を覚えたものです。
以来、ユング系の解説書や夢分析の本を読み漁りました。
そもそも、それらの本を読み漁るきっかけとなったのは16歳時に見たあの「狼の夢」を分析するためでした。
そしてお決まりの「シャドウ」だの「老賢人」だのアーキタイプに分類し、苦心しつつ夢解読を自分なりにまとめたりしましたっけ。
・オオカミ=シャドウ
・最後に表れる鳥=老賢人
等々。
しかし私が心理学にはまらなかったのは、それらの夢分析が完全なる間違いであったと後で知ったからです。
「シャドウ」だの「賢人」だのに苦しみつつ当てはめたシンボルは、全て前世の記憶の断片に過ぎず、何ら現在の精神状態も未来予測も示していなかったと判明したのです。
具体的に言うと、記憶が動物キャラにすり替わっただけなのでした。
・小動物=庶民
・オオカミ=権力者
・肉を食べる=庶民から搾取すること、独裁者になること
・肉が食べられない=搾取出来ない
・キツネ=最後に戦った敵将
・キツネの言葉=敵将が死後に言った言葉
・最後に表れる鳥=生前の主人
ついでに言えば、何故「オオカミ」というキャラが選ばれたのかと言うと、これは前々世のギリシャにて学んだ「独裁者(僭主)は狼である」という記憶が残っていたからでしょう。
つまり動物キャラへの変換の過程すら、記憶の断片に過ぎなかったわけです。
ユング心理学の信奉者の方には申し訳ないのですが、やはり夢は集合無意識からのメッセージであることは滅多になく、ほとんどの場合このように退屈な記憶の断片の組み合わせに過ぎないのではないでしょうか。
現実で思い当たらない記憶が含まれる場合、ぞれは前世の記憶だからかもしれません。
私はこの経験を経て心理学的な夢分析に疑いを持ちました。
完全に疑ったわけではないが、「全ての夢をアーキタイプで分析するのは間違い」と思いました。
それで、占星術に関しても【心理占星学】というジャンルには踏み込めなかった次第。
その後、出会ったのが松村潔の『夢分析』という本でした。
これが松村潔との著書の最初の出会いだったのですが、彼はその本の中で
「夢に淫するな」
と書いていました。
つまり、
「あまり夢のイメージを深読みし過ぎて誇大に解釈し、こだわってはならない。冷静に、現実の日常に添った解釈をしなければならない」
という意味です。
事実として神秘的な夢が記憶の断片でしかなかったという経験を経て、心理学一辺倒の夢分析に疑問を持っていた私は「これだ」と思いました。
基本的には松村氏も夢のイメージを集合無意識的に解釈していたと思いますが、彼の凄いところは、彼自身がオカルティストであり神秘や占いを「事実」と捉えることが可能だったことでしょう。
神秘は「事実」とするなら一気にその後光を失い、地上の現実と同じく広がりのないイメージとなってしまいます。
地上の人たちから見れば前世・来世も「あり得ないこと」ではありますが、いったんそれを事実と受け入れたなら、一段階上の狭い現実に過ぎないのです。
固定された現実にはもはや広がりなく、退屈です。
その退屈を避けるため、心理学好きな人たちはイメージを広げよう広げようとするのでしょうか?
もしかしたらユング自身もそうだったかもしれません。
(ユングの場合は自分自身にも霊感があり、死後の世界もたびたび行き来していたようですが、宗教的な背景や反オカルティズムに遠慮して「科学」の心理学領域から出ることが出来なかったのかもしれない)
でも実際、鑑定をしていると思うんですよね。
「占星術は拡大解釈ではなく、広いイメージの中から一つだけ解釈を選び取ることだ」
と。素人のくせに生意気ですが。
つまり占星術は、氾濫するイメージの濁流の中から、その人だけの現実的な解釈を選ばなければならない。そうでなければ鑑定にならないし、実生活に何ら役立たない。
むしろ拡大より縮小です。
そのほうが遥かに難しい。
【心理占星学】のファンは激しく反論するでしょうが、やはり占星術は技術であって、事実・現実としての神秘を写し取った写真を「正しく」読みとることに意味があると思います。
私に対して
「土星から苦手な分野は何であるのか分析してください!」
などと土星=シャドウとする技法をしつこく言ってくるお客様がいたのですが、私は土星をシャドウとは思っていないので受け入れることは出来ませんでした。
(その技法を行っている先生のところへ行ってください、と丁重にお断りしました)
無論【心理占星学】が全て間違っていると言うわけではないです。
参考にして取り入れるべきところは取り入れたいと思います。
しかし何にしても、他人が唱えた説を無考えに鵜呑みにし、誰にでも強要することだけはやめたいものですね。
『シークレット』などの引き寄せ法則、成功哲学書について思うことを書いてみます。
You are not discovering yourself, but creating yourself anew. Seek,therefore, not to find out Who You Are, seek to determine Who You Want to Be.
人生とは自分自身を発見することではなく、創造することであり、自分が何者なのかを見つけようとするのではなく、自分自身がどうなりたいのか決めること。
『Conversations with God』
この生まれる前の人生設計こそが唯一、「現実化する思考」と言えます。
ですから残念ですが、いくら現世で思考してみたところで、地上感覚におけるエゴや欲が叶うことは滅多にありません。
生まれる前の自分はそのような地上感覚でエゴを満喫することを願っていなかったからです。
もし「思考が現実化した」と主張する有名人がいたとすれば、その人は生まれる前に立てた計画を明確にイメージ出来たというだけのことです。
(大富豪にこの人種が多いように感じられるのは、成功哲学書がインタビューしているのが大富豪だけだからです。彼らはたまたま、今世では大富豪になる計画で生まれてきただけのことです)
生まれる前の計画は、生きている間にイメージしようがしまいが叶います。
それで私は、
「『ナポレオン・ヒル』や『ザ・シークレット』は間違っていないが、不十分」
と言っています。
あのような本が必ずヒットしてベストセラーになるのは、いかに人間の欲が深いかということを表していますね。
地上に降りてくると人間たちは金や名誉ばかり欲しがるように変わってしまう。
誰もが願うだけで大富豪になり有名人となれる。
そんな浅ましい願いを叶える魔法の杖が存在するわけないでしょう?
思い出すべきです。
我々が生まれる前に欲したのは、金や名誉ではなかった
ことを。
どのような不幸な人生であっても、自ら選択して求めた宝であることを。
本来はポジティブな人生も、ネガティブな人生も存在しないのです。どちらの人生も同じです。
TBSで『アルジャーノンに花束を』が再びドラマ化された。脚本は野島伸司。(※脚本監修、だそうです)
第一回目を観たところ、「野島ワールド」と言えるオリジナルな世界観に創り変えられていて、これはこれで悪くないと思った。
古くて良い曲をBGMとし、物悲しくも心温まるシーンを連ねるスタイルに、ちょっと懐かしい『未成年』を思い出す。
いしだ壱成に河相我聞、萩原聖人など、往年の少年俳優たちが出ているのも懐かしく思った。皆さんあまりにもオジサンになっていて始め気付かなかったが(笑)。
野島ドラマなので最初はこのように雰囲気の良い感じで始まるのだが、そのうち泥沼になるぞという警戒感はある。
今回は原作があるのだから、どうか原作に頼って落ち着いて物語を続けて欲しいものだけど。どうなることやら。また泥沼が始まるまでしばしのお付き合いだ。
『アルジャーノンに花束を』のドラマ化については、いつも期待はしていない。
2002年のユースケ・サンタマリア主演のドラマは今回のよりは原作に忠実だが、ドラマはドラマ。二次は二次。
そもそも『アルジャーノンに花束を』は小説で、日記形式のあの技巧を味わうのが醍醐味だからドラマなどの二次作品は「別物」と思っている。
本当は小説を読むべきだと思う。
日本語訳が素晴らしいので、日本語で十分に(噂によれば原文以上に)堪能できるはず。
アルジャーノンに花束を 改訂版 単行本 – 1989/4/1
ダニエル キイス (著), 小尾 芙佐 (翻訳)
ただ設定だけでも、この物語が持つ力は確かに大きい。
「知的障がい者」として仲間に可愛がられながらもバカにされていた主人公が、科学の力で高い知能を獲得し、自分が置かれていた立場に気付いていく。
それとともに周りの態度も変化し、どんどん孤独になり、最後は……。
この哀しい物語について多くの人が様々な感想を言うはずだ。
その感想に人の本性が出るから、観察すると面白い。
たとえば前回のユースケの時のドラマでは、ある種の人たちが主人公に対し
「知恵遅れだったときは可愛かったのに、頭が良くなってからはすっごいムカつく!」
という感想を言っていた。
この感想には人の非情さと残酷さ、嫉妬という醜い心が映し出されている。
アルジャーノンと主人公を見ているのだと思って物語をていると、実は自分の姿を見せられてしまうのだ。
そんな真実を映す鏡のような物語が、『アルジャーノンに花束を』。
だからこの物語を「恐ろしい」と感じる人もいる。
感動作だと思って見ていると、思わぬ自分の本性を目の当たりにして衝撃を受けるかもしれませんよ。
2015年版『アルジャーノンに花束を』は最後まで見てしまいました。
原作『アルジャーノン』のドラマ化と言うよりは、『アルジャーノン』設定をモチーフとした新しい物語という感じかな。
美しく整え過ぎですから、おそらくこのドラマは「不朽の名作」とはならないでしょう。
原作は「名作」です。悲しい物語ですが、人の心を暴き出す鏡として今も読み継がれているのだと思います。
ただ、今回のドラマ、私は好きですね。
全体に流れる人への優しさに涙せずにはいられませんでした。
何故か懐かしい情景にも、優しく心を撫でられた気がします。
このドラマを眺めながら私は色々考えました。個人的なことなどを。
人は、「普通」が一番幸せです。
でも「普通」であることは、とてもとても難しいです。
私は天才だった瞬間など一瞬たりともなかったのですが、それでも何故かずっと疎外感だけは感じてきました。
精一杯、「普通」であろうとしたのについに「普通」にはなれなかった気がします。
他人より余分に持っていると言うよりも、足りないのです。
これも一種の障碍のようなものです。
人と対等になれないことの悲しみをこの物語はうまく描き出している。
下でも上でも仲間になれないのだという悲しみを。
今回のドラマは優し過ぎるファンタジーでしたが、主人公への共感の涙で、ほんの少し傷を癒してくれました。
脚本家さんへ。ありがとう。
『我傍に立つ』は、催眠中に見たイメージがベースになっております。
映像の内容:友人が部屋の蛍光灯をつけたので唐突に映像が途切れた。
荒地のような(草の少ない土の広場の)景色が見える。
激しい砂埃が舞い上がり、その中で多くの馬と馬がぶつかりあっている。
ちらちらと光が見えた。武器が光っているのだと分かった。
小さな人影が、ばらばら馬から落ちていく光景が見えた。――あれは戦争だ、と悟る。
〔略。下記小説参照〕
男の顔を見ようとした瞬間、それが“過去”の自分の姿だとはっきり分かった。
自分の顔は直視することが出来ない。だが、完全に自分だと感覚で分かる。
“過去の私”は、死んでいた。
死んだ後に生きている時と同じ服を着てそこに立っていたのだった。
……そう悟った瞬間、一気に“過去の人生”を思い出す。
★「記憶」の具体的な内容はこちらの小説をお読みください。『我傍に立つ』は小説であるためフィクションを含みますが、巻末にフィクションと実際見たイメージを分ける解説を掲載しています。
★または、こちらnoteで一ページにまとめています。(このページは見たままの表現です)
回想が終わると映像は切り替わり、空の景色。
どこまでも青く澄み渡った空、天と地の狭間に居る。
とても安らかな気持ち。
辛い人生だったが、今は苦痛はない。罪もない。
〔略〕
あの人とは確かに、魂の伴侶だったと悟った。
今、どこかで生まれ変わっているかもしれないが、あの人ならきっと良い人生を送っているだろうと思う。……
この話で何を伝えたいかと言うと、読書好きになる「きっかけ」なんて何でも良いのだ、ということです。
「面白い本と出会ったから」
でも良いし、
「好きな人が読書を薦めてくれたから」
でも良いと思います。
私のように哀しいきっかけは経験してもらいたくありませんが。
そして誰もが幾つになっても、子供の頃に勉強が嫌いであっても本好きになる可能性はあります。なにしろ私が読書好きとなったギリシャ時代では始め文盲で、先生に文字を教わり初めて読めるようになったのですから。
それとこれが一番大事。
子供を本好きにしたかったら、本を読むことを強制しないでください。
私が強く思うのは、読書は趣味であるべきだということです。
いったい、いつから読書は「良いこと」になり、大人が子供に強制するものになったのでしょうか?
今、ほとんど本を読む人がいなくなってしまった時代にこんなことを言うと出版業界から怒られそうですが、読書は好きな人が行うべき行為。
趣味は「他人に勝ちたいから」とか「頭が良さそうに見られたいから」という目的で行うものではありません。
これからの読書はマニアックな趣味となり、心底から読書に耽溺する同類が増えることを期待します。
「占いは好きですか?」
「どうやって占いを戦争で使ったんですか?」
などというご質問メールを多くいただきますので、回答しておきます。
ご質問前に再読お願い致します。
本日のテレ東・特番が素晴らしかった。
事件を知らない若者たちが次々と餌食になっているので、こういう番組を定期的に流すべきと思います。
なおこの番組はカルト宗教に騙された人々の実録ですが、対極のように言われ、「悪しき宗教と戦う正義の思想」と言って宗教弾圧している経済思想こそ人類史上最凶のカルトであること付け加えておきます。騙されて洗脳されていく構造は同じ。と言うよりも現代における洗脳プログラムの源は全てそのカルト思想がモデルとなっています。
【別館参照】洗脳とは何か? 価値観を破壊する洗脳から身を守る方法
特番とは:
報道スクーププロジェクト ~総力追跡!地下鉄サリン20年~
この番組を観ていた相方がぼそっと一言。
「カルト宗教にはまる人ってさ、宗教を知らないよね。宗教に慣れていない。きっと、ああいう本を読むのが初めてなんじゃない?」
なるほど。その通りだと思いました。
例のカルト宗教の幹部だった女性信者は、かつて宗教を毛嫌いしていたそうです。
ところがあるとき興味本位で新興宗教の本を手に取る。
本を読んだ彼女は衝撃的な感動を受け、一気にはまっていく。
そしてすぐにその宗教団体へ駆けこみ、全財産を差し出して「出家」し幹部にまで上り詰めていく……。
思うに、そういった新興宗教の本は色々な過去の宗教本からコピペしているのでしょう。
だから
「素晴らしい(ふう)のこと」が書かれていて当然だし、
「衝撃的な感動」が得られて当然なのです。
コピペであることは幼い頃から古今東西の宗教古典や、哲学本、思想本を読んでいれば自然と気付くはずなんですね。
考えてみれば例のカルト宗教にはまった人たちは、理系の方々が多かった。
理系でなくても進学競争に追われ、学校教育オンリーで脳を満たし大学まで上がった人が多いのではなかったか。
おそらく、幼い頃から趣味として思想本などに触れる機会はなかった人たちだったのではないかと思います。
現代はもっと酷くて、幼い頃から知識も教養もほとんどないままテレビ番組やアニメやゲームで脳を満たし、親に言われるがままぼんやりと大学まで行き、自分の行く道も分からずふらふらと「居場所」を求めている。
そんな時、「居場所」を与えてくれる宗教があったら即座に飛びついてしまいますよね。
だから世間一般に、スピリチュアルや精神世界に興味を持たせること自体が悪いのだと思われているが実は逆です。
知識がなく、教養が貧困だからこそ何かの拍子に偽物に触れたとき騙されてはまってしまうのです。
もっと幼い頃から古今東西の思想に触れさせ、教養レベルを上げて、精神世界を豊かにすべきではないでしょうか。
※用語について:この記事での「教養」とは単なる知識のことではなく、読書や人生体験で身に付けた「自分で思考する力」のことです 参考記事 教養とは何か
魂の宝はそうやすやすと手に入るものではありません。
地上の人生はしょせん一つの長い闘いであり試練です。
悟りの道に近道はありません。代りの手段もありません。安易な道を見つけるための祈りも儀式も狭義も聖典もありません。いくら神聖視されているものであっても、そんな出来合いの手段では駄目なのです。師であろうと弟子であろうと新米であろうと、それも関係ありません。悟りは悪銭苦闘の中で得られるものです。それ以外に魂が目覚める手段はないのです。
最近『我傍に立つ』をお読みいただいた方からのご質問です。
Q.(過去生の記憶は)どのくらいあるのでしょうか?
『我傍』や最新本に書かれたことが記憶の全てでしょうか?
それ以外の瑣末な話があれば、是非お聞きしたいです。
西洋占星術であまり取り上げられない感受点、「バーテクス」「アンチバーテクス」について筆者ネイタルを例に解説です。
2021/4/10文章推敲
〔目次〕
・「バーテクス」「アンチバーテクス」とは何か
・両バーテクスで、他者から押し付けられる宿命を読む
・事例(筆者)
…大変能力的に恵まれた人で、…特に優れているのは思考力でいわゆる頭の良い人であろう。
…ただこの人にはひとつだけ致命的な欠点があり、気を付けないとそれによって立場が保てなくなることがある。その欠点とはすべてを鋭利な思考で片付けようとする余り、割り切って悪に走ったり、逆に裏切られたりすることである。…
<現実の傾向>優れた思考能力を生かすことによる活躍。…
(『定本サビアン占星学』魔女の家BOOKS P270-P271より引用。太字は筆者による。…も筆者による略記箇所)
となります。
私はこれを読んだ時、衝撃を抑えられなかったものです。
これはあくまでも集団から押し付けられる役割を意味しているので、事実として本人にこのような能力や役割があり、事実このような性格であるという話ではありません。
しかし、筆者について色々と情報を漁っている方はお気付きではないでしょうか。
このシンボルはまさに私の前世~今世に社会・周囲から押し付けられたイメージを表しているものであると。
特に
「思考で割り切って、どんな悪行でも成してしまえる」
というステレオタイプな知的犯罪者のイメージは、今も避けがたく自分に付きまとっている気がします。(今世、私の過去を知らない人たちからもそのようなイメージで非難されることがあります)
※追記 念のため書いておきますと、現実の私は「思考で割り切って悪行を成せる」人間ではありません。むしろ逆。
裏付け…になるかどうか分かりませんが、よく言われる「サイコパスでは?」との疑いへのお答えはこちら。
→性格なサイコパス診断
悪に走りやすいと誤解される要因としては →スキゾイド傾向 のせいもあるかもしれないと分析しています。
この集団から押し付けられた役割、と言うよりも悪評的な「イメージ」を受けての私自身の反応は、バーテクスによく表されています。
乙女座10度、サビアンシンボルは
『影の向こうを覗く二つの頭』。(訳文著作権者:同上)
松村版も直居版も、似たように「恐怖」と書いています。
実力を越えて無理をした結果、自己が分裂したかのような恐怖を覚える、と。
松村版に至っては、「自身の存在が消去される根底的な畏れ」と強い言葉で書いています。
まさに私はアンチバーテクスに描かれた役割を社会から押し付けられた結果、バーテクスの通りの恐怖を味わったものです。
(嫌なのはこれが前世のホロスコープではなく、現世のホロスコープであるということですが)
いかがでしたでしょうか。
私の場合は前世の影響が強いために、やや前世寄りの解釈となっていますが、やはり皆様にとってもこのポイントは現実の評価として重要になるようです。
「自分の社会からの評価を予測したい」と考えている方には、バーテクス・アンチバーテクスを調べる意義は深いものと思われます。
よろしければ、ご自分のバーテクス・アンチバーテクスを調べてみてください。