風の星座のコミュニケーション


  最近、風の星座の方が
「自分はコミュニケーションが苦手だ」
 と悩んでいることが多い気がします。

 ※ここで言う「風の星座の方」とはもちろん太陽星座のことではなく、主としてASC・月など総合で最も風の元素が強い方のことを指します

 不可解ですよね。
 風の星座 = コミュニケーション能力が高い
 と昔から言われているのに、です。

 どうしてでしょうか。

 これは思うに、現代で言うところの「コミュニケーション」というものの定義が、古典星座で表されるコミュニケーションと食い違っているからと考えられます。

 古い時代で言うところの「コミュニケーション」は、日本語に直すとしたら「折衝」となるでしょうか。
 主に国家外交や、組織における人の扱い(操作)。
 風の星座のコミュニケーション能力とは、このような交渉・人事に長けていることを表しています。

 そもそも何故、風の星座が折衝ごとや人事に長けるのかというと、他人と距離を取るのがうまいからと思います。

 たとえば双子座は抜群の折衝能力を持ちます。
 組織のなかにおいて自分の位置をはかり、周囲とうまく調整して生きていく。
 このようなことは人と適度に距離を取らなければ出来ません。
 他人との距離が近過ぎては、全体の動きなどとても把握出来ないからです。
 少し距離を置いてこそ全体が見えるというものです。

 また天秤座は、集団が求める理想という鋳型に自分を合わせることが出来ます。
 これも蟹座のように、集団に本心からどっぷり浸かるのでは鋳型が見えません。
 外国などの離れた視点からでなければその国の姿は見えて来ないのと同じです。
 他人と歩調を合わせるために、あくまでも突き放した視点で集団の情報を収集し、分析する必要があるわけです。

 水瓶座はもはや集団も超越した視点に飛んでしまいます。
 身近な人と交わることは水瓶座には難しいでしょう。縦社会などに従うこともとうてい出来ません。
 だから水瓶座は社会不適合者に見え、時に集団から疎外されて流浪します。
 ただ遥かに距離を置いた人との、精神的な交流は得意です。
 このため人種・性別を超えたグローバルな精神交流を持つことが出来ます。
 これも日常社会から離脱しなければ出来ない業です。

 
 このように、どの風の星座でも言えることは
「他人と日常的・肉体的な一体化は決してしない」
 ということです。

 つまり、他人とは(物理的に)一歩も二歩も距離を置いた関係でなければならないということですね。

 だから頻繁にお隣さんと醤油を交換するような密接な付き合いだったり、血の契りや命の奪い合いのような関係はむしろ苦手というわけです。


 ところが現代で求められている「コミュニケーション」とは、お隣さんと醤油を交換し合うような日常付き合いのグレードアップ版です。

 “インターネット時代になり日常を超えた精神の交流が可能になった”
 などと言われていますが真っ赤な嘘で、SNSを見れば分かるように、単に日常のご近所付き合い/
井戸端会議がネットの場に移されて拡大されたというだけ
です。

 さらに風の星座にとってキツいことは、そのべとっとした日常的な、ディープなご近所付き合いがパソコンやスマホを通して24時間襲ってくることです。

 家のドアを閉じれば自由になれた古代と違って、そのご近所付き合いが世界中に大公開されて監視にあう。

 四六時中、全人類規模のご近所さんの監視を受けているようなものです。
 と言うよりもはや、ゴシップ好きの隣人と一緒に住んで常時べったりつきまとわれているようなもの。
 
 これは他人と物理的な距離を持たなければ生きていけない風の星座にとって、大変な時代でしょう。


 特に辛いのではないか?と私が想像するのが、双子座の方です。

 天秤座は表面的にはスマートに周りに合わせることが出来ます。
 生理的に嫌だなぁ、と思いながらも顔には出さず、とりあえずのお付き合いが可能です。

 水瓶座はそもそも社会を超越していますので、ご近所さんとのお付き合いなど「どこ吹く風」です。
 生理的に受け付けないと思ったら露骨に顔に出し、スマホもPCも遮断してサヨウナラと旅に出るでしょう。

 双子座だけはそうはいきません。
 器用そうで不器用ですから天秤座のように他人の気持ちを慮ることが出来ない。
 さらに双子座は社会での自己実現を目標としますから、水瓶座のように社会と縁を絶って放浪の旅に出ることも出来ません。
 このため神経をすり減らしながら、周りとの距離をはかりつつ生活することになります。
 
 実際、最も「コミュニケーションが苦手」とご自身で思っているのも双子座の方が多いようです。


 だけど自分で苦手意識を持っているということは、そもそも他者との関わりを大切に思っているからではないでしょうか。

 やはり「コミュニケーションが苦手」と意識すること自体が、コミュニケーションを象徴する星座である証なのだと思います。

 
 確かに現代は風の星座にとって辛い時代ですが、うまく折衝する力をもともと備えているはずです。
 もう少し慣れていけばこの社会で生きることもラクになってくるのではと思います。

 慣れるコツとして、現代ではあまり周りに振り回され過ぎないことです。
 たまにはスマホ・パソコンを切ったほうが良いでしょう。

 コミュニケーションのやり方は他人と同じでなくともいいのです。
 心と体が密接した関係を我慢したり、嫌な相手に尻尾を振ることだけが交流ではありません。
 密着を求めて来る相手は自分の寂しさを埋めるためにあなたを貪ろうとしているだけかも。
 (自分の我がままで他人を欲しがる人ほど、「コミュニケーションが大事」と大声で叫んでいるので分かりやすいです。彼ら・彼女らは自分に尻尾を振らないことを悪と呼び、「心が貧しい」などと犯罪者のように責めます)

 そういう人から"逃れる術"、"うまく切り抜ける術"を作って、心の「マイスペース」を確保してください。
 どうかストレスを溜め過ぎて参ってしまいませんように。




たくさんの拍手ありがとうございました。
同じことを思っている人がいた!と知ることが出来て嬉しかったです。

 

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ホロスコープの人生計画について。人は何のために生まれるのか

 




ホロスコープは最善の計画書


占星術で鑑定をしていると、
「ホロスコープは人生の最善の計画書なのだ」
といつも感じます。
 ※2018年現在、ご依頼での占星術鑑定は行っていません

何故ならホロスコープ全体を読み込んだときに悪い結果が出る人は誰もいないからです。

もちろん「悪い結果とはならない」とは、大局(大きな視点)から見てという意味です。
 
私の鑑定では前世から今世の終りまでを見ています。
「前世での経験 ~ 現在の生き方 ~ 今世の目的・最終計画」
です。
この方法だと過去・現在・未来という大きなストーリーの流れでしか眺めることは出来ませんので、現在の狭い視点しかない人にはなかなか理解出来ないかもしれません。

だからご本人にとってどうしても納得いかない結果が出ることはあるようです。
たとえば、その時にたまたま「海外でずっと暮らしていきたい」という夢を持っている方が鑑定を頼んできて、
「海外に行ってもいずれ再び故郷に戻って来るでしょう」
などという鑑定結果を受け取ったとします。
すると、ご本人はその結果を否定したくなります。
自分の夢と反対の結果にはどうしても我慢ならないからです。

相性も分かりやすい例です。
たまたま今の好きな相手について好ましくない相性結果が出ると、反発したくなってしまう。

おそらくその反発心は、一時期だけのものです。
人間は意外に自分の本心を無視して、その場その場で短期の夢を抱いてしまうものです。
将来遠回りしていたのだと気付くのだとしても、その時は夢中で本来の計画と違う道を選択してしまいがちです。

それでも今の一時期の夢のほうが大切だと言うなら、思った通りの道を選ぶことも可能です。

(何度も書くように、今の自分の夢を断固選ぶという意志がある人は始めから占いで自分の本心を探る必要などなく、刹那の夢を選択していけば良いのだと思いますが。わざわざ運命に抗うために占いを使うことだけは、間違っています)

究極のテーマ。人は運命に抗うことが可能かどうか?


さて、ホロスコープに抗い、自分の意志で“遠回りすることも物理的に可能”。
これは言い換えれば、ホロスコープに表れている計画書は人間の意志で変更出来るということにもなります。

「ホロスコープは人生の最善の計画書」と書きましたが、残念ながら「絶対の計画書」ではないことは確かです。
運命(人生計画)は、本当にあっさりと人間の意志で変えられます。
その究極が自殺というものではないでしょうか。

占星術師の鏡リュウジ氏は、著書『占いは何故当たるのですか』(講談社)のなかで
「自殺だけはホロスコープで予測することが出来ない。自殺という選択肢は人間の人生に計画されていない」
と述べています。

計画されていないにも関わらず、その道を人間が選択できるのは、生きている人間の意志の力とはそれだけ強力だということになります。
ただ私は“前世の記憶がある者”として何度でも強調しますが、ホロスコープで計画されている課題と異なる選択は単なる遠回りというだけに過ぎません。

今の課題が苦しくて死という選択肢を選んだとしても、また同じような課題を背負って生まれて来ることになります。
回避してラクになったつもりでも繰り返し、繰り返し、同じことが続きます。
むしろ前より課題が重くなり、苦しみが増していくかもしれません。

死ぬことでは決して回避は出来ないのです。

★全ての苦しみに立ち向かえと言っているわけではないのでご注意を。課題は、生きながらにして逃げるという方法で解消できるものがあります。逃げていいのです、失敗しようと成功しようと。ただし死ぬ瞬間ぎりぎりまで、生きるために逃げたいという意志を持たなければなりません。みずから死に逃げるのは、残念ながら逃げたことにさえならない。


鏡リュウジ氏が言うように、「自殺という選択肢だけはホロスコープに表れない」のが何故かというと、死んでしまえば課題をクリアする機会が一切失われるからです。

極端な例で言えば、実は休むことさえ死んだら出来ません。
……こう言うとまともな常識のある人なら「当たり前じゃないか」と思うでしょうが、世の中には、休むために死を選択する人もいるのです。
一見、死ねば安らかに眠れるように思えるのでしょう。
ところが死んでいる間は魂の状態はストップするため、眠ることさえ実は出来ていません。

と言うのは根拠がありまして。
私は前世でどうやら睡眠をとる暇がなく結果として「過労死」したようなのですが(記憶からの推測)、死んでいる間は休息することが出来ていなかったようです。
今世、生まれてから今日まで、眠くて眠くてたまらない状態がずっと続いてきました。体がだるくてたまらず、引きずりこまれるように眠い。
もちろん原因不明。医者は「病気ではない」と言うのみ。
ある日これはおそらく前世で足りなかった睡眠を取り戻そうとしているのだ、と気付きました。
以来、眠さを感じることにも意味があるのだと思うようになりました。私はたぶん休息を取るために生まれたのです。休息するためにも生きることが必要なのです。
バカバカしいと思われるかもしれませんが、経験者は語るですよ。笑。

だからどんな状態であっても生きていることに意味があると言えるわけです。

ベッドの上で眠って過ごすだけの人生で、「何も人の役に立っていない。生きている意味が全くない」と思うのは間違い。
実は、自分自身が休むためにその生が必要だったりします。

死んだら無。
これはある意味で正しい。
完全なるストップ状態です。

追記:ここで言う「死んだら無」とは、唯物論者の言うように本当に無となったり、永遠の闇へ閉じこめられるという意味ではありません。ここでは「地上において」という前提で「無」と表現しています。死後世界では魂として存在し、活動もあります。

再生ボタンを押せば、またその途中から始まります。それだけのことです。

たとえば若くして亡くなり、人生計画の半分も果たせずに終わった場合でも、来世はその途中から始まります。
今の人生で刹那の夢を追いかけ計画を放棄した人も、来世では同じ課題を負って生まれます。
ですから、「意味のないホロスコープ」・「実現されないホロスコープ」というものも実は皆無なのです。
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人生は35歳から


  多くの方の鑑定をさせていただいて感じたのは、「人生は35歳から」ということでした。
 と言うより、「ホロスコープに描かれた人生設計が現実化するのは35歳から」かな?

 若い方のホロスコープを見せていただきますと、まだまだホロスコープに描かれた人生の目的が体現されているとは言い難い。
 十代や二十代前半では兆しすら見えていない場合もあります。
 そのため鑑定は、それこそ「未来予測」という一般的な意味での占いとなります。
 しかしこれが35歳を過ぎた頃から、本人が明確な意志をもって目指している目標がホロスコープと合致してくるのですから驚きます。

 特に50歳に近付きますと、この
「ホロスコープと本人の意志決定の合致」
 が顕著に表れてきます。

 たとえばある方は長年外国を渡り歩いていた。
 50歳となるその方の身を家族は案じていて、
「日本に帰ってくればいいのに」
 と思っていた。
 けれどホロスコープを鑑定したところ、その方は見事なまでに海外生活(遠方生活)をするべくして生まれたというホロスコープを持っていたのです。

 本人は無自覚だったり、迷いを持っていたりしますが、やはり人間はホロスコープの通りの人生を送るよう意志決定するようです。
 それは
“運命に動かされている”・“神に操られている”
 のではなく、本人が心から望んでそうしているように思われます。
 (言い換えますと、本人が心から望んでいる人生はホロスコープに既に描き出されているということになります)
 このことから言えるのは、ホロスコープとはやはり神でも運命でもなく、自分自身が生まれる前に組んだ人生設計であるということです。

 十代や二十代では、そのことに自覚を持つのは難しいかもしれません。
 心の底から湧いて来る本当の人生目標だけを見据えるには、若い頃はあまりにも余計な情報が多過ぎるのでしょう。

 二十代で自分の道に悩んでいる方は、まだまだ。
 もしかしたら三十代でも自分という人間の枠を決めるのは早過ぎるかも。

 焦らなくとも、40歳までに少しずつ道は見えて来ます。
 そして迷いながら闇雲に歩いたつもりで振り返って見ると、実はそれは最初から自分で決めた道であったことに気付いて驚くはずです。

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ネイタルホロスコープは出生時の現況

 

 

ここのところ公開で書けないような記事を非公開(読者限定、パスワード記事)で書いております。

最近、個人ブログでUPしたのは前世と今世のホロスコープの「ビフォー」・「アフター」です。

世間的にアウトな記事でして、事情をご存知ない方は驚かれると思うのでパスワード付となっています。
⇒筆者ネイタルホロスコープ

公開で書けることをここに記しておきます。

ホロスコープのビフォー・アフターを比べて分かることは、
ネイタルのホロスコープは、出生時の現況である
ということです。

現況とは:
 ■前世の死の直前の出来事(月・ドラゴンヘッド・その他総合)
 ■生まれる前に自分で計画した人生設計(太陽・MC・~晩年に対応する惑星、ハウス)
この二つを含みます。

私のホロスコープは前世の影響が強過ぎる、ちょっとイレギュラーなものです。
このため参考にする場合は充分ご注意いただきたいのですが、皆様もある程度は前世がネイタル・ホロスコープに刻まれていることは確かです。

では、どうしてネイタル・ホロスコープで過去だけではなく未来を占うことが出来るのか?
それは本人が計画した人生設計であるからです。
意識のうえでは自覚なくとも、魂レベルではそのホロスコープが実現するように動いています。
背後の守護霊や高次霊たちも、ホロスコープが実現するよう支援し誘導しています。

だからネイタル・ホロスコープには出生時の人生計画のアウトラインが刻まれるのであって、決定ではないことは念頭に置かなければなりません。
よく言われているように、ホロスコープは神の手によって押し付けられた決定プログラム書ではないのです。

(この計画を変えることは、精一杯がんばれば不可能ではないと思います。これを裏技で実現させるのが、たとえば中国系などの運勢を変えるとされる占術ではないかと思います。ただし今世の課題から逃げてしまうと未来に負債を先延ばしにすることになりますので、来世以降が大変となります。今世の課題は今世で消化するのが最も簡単です。このため、たとえ辛い試練であっても、魂は積極的に受けようとするのです。もし逃れられない運命があるとしたら、魂レベルでぜひとも実現しようとしているということです)


現実に何が起こったか、何を選び取ったかの詳細が書き込まれるのは、あくまでも
 来世のホロスコープ
です。

それはアカシックレコード的なものの個人版の写しです。

つまりネイタル・ホロスコープは、将来の引越し予定先も込みで記載された「戸籍謄本(戸籍の全写し)」みたいなものと思えばイメージしやすいでしょうか。
アセンダントが、本籍地ですね。

(と、いう喩えでイメージできますか? 笑)


【補足】
上の喩えは、「申請すれば手に入る本人の身分証・現況書」という意味で言っております。
「アセンダントが本籍地」と言うのは、魂の出生地というほどの意味です。

ちなみに現世の日本国における戸籍は、手続きすれば本籍地変更できます。そういう現世の戸籍法の話をここでしているわけではありません(笑)ので、混同してお間違いのないようにお願いします。


やはり戸籍だと喩えとしてちょっと異なり、混乱させてしまいそうです。

ホロスコープ=「前世の終了科目証明書 + 今世の学習カリキュラム」
と喩えたほうが正確ですね。

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努力は必ず報われる … のか?

 S様、メールありがとうございます。遅くてすみません。
 ご質問に回答させていただきます。
 (回答と言うか、雑談になってしまいますが)
 たぶん今まで書いてきたことの繰り返しになる部分もあります、ご容赦を。


「努力してもなぜか報われないことがある」とのお話。
 その通りと思います。
 現世において、努力が報われないことは絶対にあります。
 厳しいことを言うようですが、それが現実です。

 「努力が報われない」代表みたいな人生が、今の私の人生かもしれません。

 ご存知の通り、頑張って目標達成して晴れて夢が叶うはずだったのに、その直前でシャッターを降ろされたように夢が絶たれるということがありました。

 学生時代から何度もそのようなことがあり、
 何一つ夢が叶わないまま年齢だけ重ねてしまい、
 もう最近では未来を想う気力すら無くなってきました。

 「自分はあきらめるために生まれたのか」
 「自分の人生は生まれた時からなかったのか」
 「自分には生きる資格がないのかもしれない」 
 「(過去に)人殺しだったから生まれる資格がなかったのでは」 ……
 何度もこう思いました。

 でもね、最近ではこうも思うんです。
 夢が叶わなかったために今の穏やかな日々があるんじゃないのか?
 そして実は、生まれる前に願っていたのはこの「何もない平和な日常」だったんじゃないのか?と。

 仮に自分の見たイメージが現実だったとすると、
 確かに筋道の通る話ではあるのです。

 戦争の時代を生きた過去の私は、心から平和な日常を願っていました。
 そんなかつての私の最大の夢と言えば、
 「一生、のんびり読書して暮らすこと!」
 だったように思います。
 ところが、その夢は過去には実現しなかった。
 だから今の「戦争のない国で過ごす読書三昧の人生」は、
 過去の自分から見れば切望し続けた夢の日々なのだと思います。
 これこそ生まれる前に自分で計画していた人生なのであって、
 実は夢が叶った結果なのではないかと思うのです。

 つまり私は夢を絶たれたように思って苦しんでいましたが、実は全て生まれる前に自分で計画した人生のための道だったのかもしれません。
 そして夢を絶った外部からの圧力とは、その夢に導く「守護霊」たちの援助だったのかもしれない。
 (前にも書いたように、休憩するための人生を与えてくれたのかもしれないとも言えますが。どちらにしろ実は自分が望んだ気がする)

 人間、過去に自分で願っていたことは忘れてしまいます。
 前世なんかではなくても十年前の自分が何を考えていたか、正確に覚えている人などいないのですよ。
 十年前の日記を見つけて
「こんなこと願っていたのかー」
 とびっくりすることはよくあります。
 そのわり困ったことに、この世のシステムとしては思い描いたことが正確に実現するように出来ています。
 自分ではすっかり忘れていた夢が遥か未来に突然叶って、その時はそんな気分ではないので「邪魔が入った」と勘違いしてしまう。
 そんなこともままあります。

 あとは他の人との運命が科学変化した結果としての、「宿命」の問題です。

 「宿命的な不幸」などと言いますが、それも全て自分でまいた種です。神様なんかが決定するわけじゃない。

 十年も経てば忘れてしまう債務も実は自分で作ったものです。
 否定したくなるでしょうが、決定権は全て過去の自分にあったのです。

 しかしこの債務の表れ方が実に複雑で、人間の計算能力では結果を想定することが出来ないため、まるで「神から押し付けられた悪運」のように見えてしまいます。

 それで神を殺してしまった、「運命(宿命)否定論者」というのが近代に出て来ました。

 だけど神を殺しても「宿命」という債務を避けることは出来ないんじゃないでしょうか。だって神様なんか関係なくて、自分でやったことなんだから。

 科学的・物理学的には原因があれば結果は避けられないよね?
 法律だったら自己破産で免責されるけど、物理は人情関係ないからそれも無理だよね。
   
  ――と言うのが『我傍』執筆15年を経た、私の結論です。
 
 もし「宿命」や「運命」を避ける方法があるとするなら、唯一、新たな科学変化(物理的な作用)を起こすことだけだろうと思います。
 つまり今に力を加えて未来の軌道を変えていくわけです。
 これがいわば、努力というもの。


 で、勘違いして欲しくないのは、
 「努力は必ず報われる」という言葉は正しくないのだけれども、
 「努力は無意味」という言葉もまた真実ではないのだということ。

 今という現実に加えた努力の作用、これは心の中で願ったというだけでもいいのだけど、それは必ず蓄積されて未来に影響を及ぼします。
 その未来が十年先か五十年先か、千年先かは分からないが、必ずです。

 ……と言うのも、生きているうちに夢が叶わない人にとっては虚しいですがね。
 私だって、何度
「努力は無意味だった。自分の人生は全て無意味だ」
 と思ったことか。
 こういう気持ちになるのは人間の感情として仕方のないことです。
 だけどこの世のシステムとしては、努力が未来に作用を及ぼすように出来ています。
 人間ごときが嘆こうがわめこうが関係ない。真実、そのようです。


 ここまでくると、「信じるか信じないかはあなた次第」という話のレベルになってきますが、
 生きたこと、 
 ここに存在したこと全てが無駄ではなかった

 と信じて良いと思います。そのほうが人生、楽しくなります。

 ※ただ現実的な話をすると、しなくて良い努力や掛ける必要のなかったお金はありますよね。
 苦労を避け、自然体で生きていても「生まれる前の計画が実現された」結果になることはよくあります。
 何が今の自分にとって一番大切なのか、常に自分の心に問いただすようにするべきなんでしょうね。

 (という自戒)



 ちなみに、ですが、私は最近うっかり現世の夢を叶えてしまいました。
 そのため忙しくなってサイト更新も出来なくなっているわけです。
 結果、のんきに読書三昧という日々が終わってから気付きました、
「あれ これ 本意じゃなかったんじゃない?」と。(笑)
 人間というのはバカなものです。私だけかもしれませんが。

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