転生モノ大流行の時代 …願いが叶い過ぎたかもしれない

 


11/28日テレ『仰天ニュース』にて、“輪廻転生”特集がありました。
テレビ局が流す番組としてはめずらしい話題です。
(この番組、偏向や殺人話が多くて私は苦手なのですが時々変わったジャンルがあり、その時だけ眺めています)

内容は真面目に生まれ変わりの話でした。

第二次世界大戦中に空軍兵士だった頃の前世記憶を持つ男の子など、実際の体験談が再現ドラマで紹介されていて面白かったです。
今のところまだ動画サイトで配信されているようなので興味ある方は視聴してみてください。
生まれ変わり猫(笑)の話はほっこりします。


YouTube 生まれ変わり猫

 

※以下、辛口表現あり。この記事には「なろう系」ジャンルへ批判的な箇所もありますが、最終的には今の流れを称賛していますのでご容赦ください。


転生モノ大流行の時代。どうしてこうなった?


番組曰く。
なんでも最近、『推しの子』や『転生したらスライムだった』のように転生モノが一大ブームだとかで、
「ブームに乗って輪廻転生特集やってみました!」
だそうです。

――え。“最近”転生モノがブーム?

そんな最近のブームでもない気がしますが笑、確かにメジャー作品にも当たり前に転生設定が出てくるようになったのは最近のことでしょうか。

転生モノを流行らせたのはご存知、『小説家になろう』という投稿サイト。
「なろう系」と称されるこの転生小説とは、厳密にいえば生まれ変わりをテーマとするファンタジーではなくて異世界転移モノの変化型に過ぎませんね。

『ナルニア国物語』以来の古典的な異世界転移は必ずこちら側、つまりスタート地点の現実世界へ戻って来なければならなかったのですが、『十二国記』辺りから「異世界へ行ったまま」設定が出てきました。
行ったままにする必然を作るために「転生」という設定が編み出されたのではないか? と思われます。

「なろう系」はたいてい現世でニートだったり無能サラリーマンだったり、うだつの上がらない人生を送っていた人が死んで、異世界に生まれ変わりぶっちぎりのチート(ズルいほどの絶対能力者)として活躍するという物語でした。
そのチートな展開に酔う主人公や読者を揶揄して「俺TUEEE」と呼ぶネットスラングも生まれたりしました。

「しょせん読者の妄想を叶えるドリーム小説の亜種だ」
との批判も高く、大人たちからは低俗と見られていたのですが、当時の子供たちには大受けして大流行していましたっけ。

それが15年くらい前? もっと前かな。

私は流行した時にすでに大人だったので「なろう系(異世界モノ)」を読んだことがないのですが、子供だったら楽しんでいただろうジャンルだと思いました。

自分も現実で自信のないタイプだから、異世界でチートになる妄想が楽しいのは分かりますよ。
いっそパラレルワールドに行って理想の自分になりたいと願ったこともある。中学生の頃。
そのうちそんな妄想も卒業して、現実に目覚めた結果「何もできない脇役でいいや」と開き直り、今この感じになっていますけどね。これはこれで自分を見誤ったかもしれず、良くなかったなと思う。

何にせよ子供たちが夢中になれるエンタメが盛り上がるのは結構なこと。
子供たちが文化を作るのだから。

しかしなろう系の流行以降、オンラインノベルやライトノベルの小説ジャンルが「異世界転生」一色で染まって行ったことには閉口しました。

この頃、大人の小説ジャンルはすでにミステリ一色で染まっていました。殺人設定がなければ小説にあらず、という謎の法律があるかのよう。文学賞でデビューした作家たちも「ミステリー小説じゃなければ出版してもらえない」と嘆いていたようです。
いっぽう、自由だったはずの子供向けライトノベルまで「異世界転生」一色で染まっていき、異世界設定がなければライトノベルにあらずの業界となってしまいました。

小説にはSFや恋愛、純文学、日常を描いたほのぼの系など様々なジャンルがあったはずなのですが隅に追いやられ、消えかけています。

結果、日本の小説は貧しくなりました。
このために小説離れが加速したと思います。

それでも商業の人たちは金欲しさにワンジャンルのゴリ押しを続ける。
「異世界転生」も一時の流行だったはずが出版社は気付かずにこだわり続けているので、今の十代はライトノベルから離れてしまったと言われています。今、ライトノベルを買っているのは年齢高めの層だとか…。

「ライトノベルに若い世代がついてこない。未来がない」と嘆いているけど、そんな状況を作っているのはワンジャンルの一神教で他を排除している自分たちだと思いますよ。
マンガ界のように目先の利益だけに飛びつかず、様々なジャンルを保護し打ち出していけば良かったのに。
(そのマンガ界も今や外国勢力に狙われていて危ういが)

小説ジャンルが貧しくなった結果、人の心も貧しくなったと感じます。
文化は心を作る。
だから文化が貧しいと社会もすさみ皆の心が貧しくなる。

「チートな主人公でなければ生きている意味がない」と考える勘違いな絶望世代も、このワンジャンルな貧しい文化で育てられたと思います。
ワンジャンルでは他の考え方を学ぶ機会がないからです。思考の逃げ道がなくなり、現状を受け入れるための発想の転換ができなくなるんですね。

【関連記事】 みんな主人公になりたい? モブキャラとは何か


転生モノの新ジャンル、「現世での生まれ変わり」


そのようなわけで、あらゆる方面で弊害が出て批判の声が高くなりつつある「転生モノ」ジャンルですが、最近は新たな傾向が生まれているようです。

それは
『推しの子』
『パリピ孔明』※
などのように、異世界へ行かずに現実世界で生まれ変わるという設定です。

※私から見ると『パリピ孔明』はフィクションの孔明が、生まれ変わらずにそのまま転移してきたのだから「フィクションから現実への異世界タイムスリップ」設定に思えます。ただ、作者はこの設定を「転生」と言い、読者も納得しているみたいなのでまあいいんじゃないですか。ジャンル定義は作者と読者の合意?なのだから。

異世界縛りのない自由なマンガ作者が、なろう系から転生要素だけ取り入れ新たなジャンルを生んだと言えますね。

結果、一周回ってオーソドックスな生まれ変わりファンタジーに戻っている気もします。

が、『ぼくの地球を守って』などの古典と違うのは、生まれ変わりを真面目に描く気はさらさらないところです。前世確認などはどうでもいい感じで話が進み、ただ特異な設定を活かした新天地でのあれこれが描かれます。

つまり読者の夢想を叶えるための転生設定、という本質は「なろう系」の異世界モノと変わらないと言えます。

〔夢想とは〕
『推しの子』…もしも推しに愛される子供に生まれ変わったら?
『パリピ孔明』…もしもフィクション孔明が今に転生して軍師になってくれたら?

等。

とは言え、転生モノが異世界から現実世界へ変わってきたのは良い傾向です。

このたび私は久しぶりに「なろう」さんをお借りし眺めていましたが、異世界チートのワンパターンではなく生まれ変わりの苦悩を描く大人な作品も増えましたね。

善きかな善きかな。

そういった新・転生ジャンルには
「現実→現実」
「異世界→異世界」
の2パターンあり、さらに未来だけではなく過去に転生するパターンもあります。
ただどちらも同じ次元でがんばる! という設定で素晴らしいと思いました。

この同一次元で生まれ変わり頑張るというスタンスが大事なんですね。
関係ない世界へ飛んでしまわない。
現状(過去)を都合良くチャラにしない。
前世があり、良いことも悪いことも引きずって、その流れのなかで生きる姿勢を見せなければならない。

つまり何の努力もしないで移動しただけでチートになることはないのだ、過去の罪は無条件にチャラにできないのだ、…という人類として当たり前の価値観を描かなければならないのですよ。
その肝心なところをカットしたファストフード小説が子供の心を貧しくするのは当たり前。

今後この方向で進化していけば、「転生ジャンル」も文化作品として大きく成長していくのではないかと思います。
もちろんエンタメ要素を完全に捨てる必要はありませんので念のため。
チートだろうがモブだろうが主人公として「ここで頑張る!」の気概があれば良いのです。


願いが叶い過ぎた昔…やっと理想に近付いたか


かつて、私は世の中に「生まれ変わり」をテーマにした創作が少ないのを嘆いていました。

なろう系が流行る以前の日本では、『ぼく地球』や三島由紀夫の『豊饒の海』くらいしか転生を扱った有名作品が無かったと思います。マイナーな作品では時々見かけましたが。

もう少し転生をテーマにした創作が増えて欲しいな……。
(そうなれば輪廻転生の話も伝わりやすくなる)

密かにそう願っていたところ、なろう系で爆発的に「転生モノ」ジャンルが流行ったので驚きました。

でも、何か違う。
異世界への逃避は「輪廻転生」ではない。

どうも私の願いは始め叶い過ぎてしまう傾向があるようです。それも願ったのとは違う変な方向に。

あれから十数年。
今ようやく少し均整が取れて願いが正しく実現しそうで、嬉しく思います。

いずれ皆が「現世→現世」の輪廻転生を自然に受け入れる時代が来ますように。
その真理から得られる価値観が人類を成長させ、幸せにしますように。(それは価値観が古代へ戻る、ということかも)

善い方向へこの芽が育つことを願います。
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みんな主人公になりたい? モブキャラとは何か(『フェルマーの料理』感想)

 久々の雑談です。

10/20から始まったドラマ『フェルマーの料理』、第1話から面白くて魅了されています。

ドラマ感想


数学者になる夢を絶たれて退学を言い渡され、人生を諦めていた高校生の岳。彼は自分を「モブキャラ」と呼んでいた。
しかし有名なシェフに料理の才能を見出されて告げられる。
お前はモブキャラじゃない。主人公だ

素晴らしくスピード感があって意表を突く展開。しかも夢がある。マンガって凄いな。
前期の『トリリオン・ゲーム』に似た、高みへ昇り詰めるサクセスストーリーが期待できる設定です。それでいて人生の残酷さも匂わせている。

男の子はこういうの好きでしょう。
私も嫌いではないです。

ただ私が最も心をつかまれたのは片親で息子を育てたお父さんの物語でした。
岳の思い出のシーン、幼い頃から「ねえ、見て見て」と声をかけると何をしていても振り返って笑顔で答えてくれたお父さん。岳が東大進学を蹴って「料理人になる」と言ってから口をきいてくれなくなったお父さんだが、旅立ちの日にはバス停まで追いかけ応援した。岳を抱き締めたシーンにうるっとしてしまいました。
料理の才能も本当は数学のおかげではなく、お父さんから受け継がれたものだったという話。
あんな短いシーンなのに、長編映画に負けない親子の感動物語で泣けました。

でもそんな親との絆を(岳をスカウトする)シェフは「父親の呪い」などと呼んでいた。
ここに今どきの思想が入っていて気味の悪さを感じましたね。
確かに具体的な目標に縛られてしまうと挫折したとき終わり。だから達成できなかった過去の目標は「呪い」と呼んで断ち切ることが必要。親の夢であれ、自分の夢であれ。
しかし愛情や絆そのものを「呪い」と呼ぶのはカルト思想であり、悪質なイデオロギーです。信じてついて行くと心ない非人間に改造されてしまうもの。

思わず
「あれは現実だとスカウトした側は詐欺師で、騙された未成年は借金を負わされて沈められる展開だな。結局、自分のことを想ってくれていたのは父親だけだと十年後に気付いて泣くパターン」
などと大人の観点で感想を呟いてしまい、家族の不興を買いました。
…ごめんよ、つい現実の厳しさを投影してしまった。

でも現代は怖いから、若い人たちは気を付けてね。
スカウトを装った詐欺があります。投資もボランティアも罠だから、ついて行かないように。

スカウトが詐欺かどうか? 見抜く方法


ではスカウトを受けたとき、詐欺か本物か見抜くにはどうしたらいいでしょうか?

まず大事なのは自分の才能・価値に対する“読み”。そのために心の声に耳を澄ますことが必要です。
相手の称賛が真実かどうか、一番分かっているのは実は自分自身だと思います。

謙遜していても自信がなくても無意識では気付いている。本当は自分が何者なのか。

(「お前は自分が何者なのか知らない」というセリフ、ドラマで聴いたときは驚きました。私は現実でも夢の中でも言われたことのあるセリフで、確か小説にも書いたので一瞬パクられたかと思いました笑。…すみません冗談です)

その無意識の読みに反する称賛を浴びせてくる人間は詐欺師ですからついて行かないで。
相手は君をいい気分にさせて釣り上げ食おうとしているだけ。

“違和感”には敏感になることです。
詐欺師はこちら側のことをよく見ていないので言葉のチョイスが見当はずれだったりします。

本物のスカウト主は、見当はずれなことは言いません。細部までよく見ている。
そして全身全霊で推して来ますね。
どこにそんなエネルギーがあるんだ? と思うほど通い詰めてきたり。無言で支援したり。言葉はもちろん行動で示す。
それとスカウトしても最終的には、無理強いはしません。何故なら本気で相手のことを想っているからです。

『フェルマーの料理』というドラマで言えば、お父さんがその本物スカウト主に相当するでしょう。

何を言っているか分からないかもしれませんが、「青い鳥」は遠くにいるとは限らないということ。
旅に出なければそのことにも気付けないので青年はいったん家を出なければなりませんが。

最終的には「自分がどうしたいか」です。
表で活躍したいか。それとも素朴な愛を大事にし、少数の人たちを幸せにしたいか。

どちらも同じ価値ある人生でしょう。
表で注目を浴びることだけが主人公の生き方ではない。

主人公⇔モブという分け方


「親の呪い」というカルトワードに加え、もう一つ。
このドラマで気になったのが

・君は主人公になれる!

に対応する

・モブキャラ、サブキャラ、脇役

との言葉でした。

モブとは名もなき群衆の意味で、モブキャラと言えば「村人A・B」のような名前を与えられない役のことですか。

最近は若い子たちが「サブキャラ」や「雑魚キャラ」と言う代わりに「モブキャラ」を使っているらしい。
主人公と戦って負けたりする雑魚や、主人公を助けるサブですらない。存在感の全くない通りすがり。ただの背景です。ドラマで言うところのエキストラ。

人をチートな主人公か、その他大勢の「モブ」に分けたがる。
全ての場面でこの価値基準において分類しているなら、かなりまずい考え方だなと思いました。

私も少し前にいただいた小説の感想で、作品中に登場する名前のない人物たちを「モブ食客希望者」と呼んでいた若い人の表現が面白くて笑っていたのですが。

確かに、私はあの小説に書いたイメージのなかで他の参加者を「木偶(でく)」などと呼んでいました。申し訳なかったです。
何故そう呼んだのかというと、彼らが他人の言葉を繋ぎ合わせて語っているだけのAI人形のように思えたからでした。

私は常々多くの人が自分の考えを持たず、他人の言葉を繋ぎ合わせて吐き出しているだけであることが不思議でならないと思っています。
ChatGPTが登場してから「あの人たちは対話型AIのようだ」と表現できるようになりました。本当にそっくりです。

左のイデオロギー集団も、陰謀論にはまった人たちもそうですが、どうして誰かが作った台本をそのまま飲み込み口から出してしまうのだろう?
自分が属する団体の主張からはずれたことを言うのが怖いのか、たとえ本能で「これは嘘だ」と違和感を覚えていても嘘を叫び続けている。

団体と違うことを言うと殺されるんでしょうか? 家族を人質に取られているの?
(隣国の人たちは実際そうだから仕方ないですね。日本人でも左側は組織に反する意見を口にすると社会的に抹殺されるか、実際殺されてしまうのだろうな)

もし「殺すぞ」と脅迫されていないのに、周りの様子を見ながら同じことを喋ろうと努めているだけなら愚かなショッカーです。
おそらく出世のためにショッカーとして振る舞っているのだと思う。
実際たいていの場合そんなショッカーのほうが出世する。
創作の世界でもテンプレのまま書いたAI代筆みたいな作品だけが流行ったり……。

そのような生き方をしている人たちは事実として「喋る木偶」と言えるでしょう。

私は彼らの生き方を軽蔑し指摘しますが、そういう悲しい生き方をやめて欲しくて言っているだけです。
人間に始めから「モブ」「主人公」という製造ラベルがあるとは考えていません。

ショッカーとして生きている人たちは、自らショッカーとなることを望み選択してそうなっただけ。
そのような安易な生き方は卑しいのだといつか気付いて欲しいと思います。

事実、自分の考えがなく教義に従って「イー!」しか言えないショッカーたちは必ず殺戮マシーンになるので有害。その安易な生き方は人類にとって迷惑です。
早く目覚めて自分の言葉で生きる「主人公」になって欲しいですね。

「主人公」は集団のなかの立ち位置ではない


このドラマもそうですが世間を眺めていて私が気持ち悪いなと感じているのは、最近「主人公」という定義が
“集団のなかで優位な立場にある者/勝ち組・有名人・富裕者・権力者”
という意味で使われていること。

だから「モブ」はそれと反対に
“集団のなかで劣等な立場にある者/負け組・無名人・貧者・無権力者”
という意味となっていて、他人や自分に対する蔑みや嘲笑のために使われています。

現実に社会の立ち位置で差があるのは仕方ない。
親ガチャは実際ある。
能力に差があるのも仕方ない。
(スピリチュアル的に言えば能力とは過去世の努力。経験値が違うだけなので今から努力すればいいが、出生時に差があるのはどうしようもない。死ぬ想いで訓練してきたオリンピック選手と一般人の自分を比べて嫉妬しても意味なし)

でも、「主人公」の定義はそんな集団の中の立ち位置とは一切関係ありませんよね?

主人公の定義は、物語のなかで視点の中心となる人物のことです。
物語にはさまざまな設定があり、主人公が不遇となるストーリーもありますので、“集団のなかのチートなキャラ”だけを主人公と定義するのはそもそも言葉の使い方としておかしいのです。
チートな人の隣にいるキャラ、取り巻きとして遠くから眺めるキャラも「主人公」となり得るでしょう。

つまり「主人公」の定義に集団における立ち位置は関係ないのです。

いつからでしょうか? チートなキャラだけが主人公だと誤解されるようになったのは。

(投稿場所として借りておいて申し訳ないけど)
やはりネットの小説投稿サイトが推し進めた、「俺TUEEEE」創作量産のせいでは?

世の中に偏ったジャンルの創作しかなくなっていつか弊害が出ると思っていたら、やはりこういう時代になった。
食べ物と同じで創作もバランスが必要だったなと思います。
エンタメばかり偏食していると現実を生きる力が育たず、心の健康が保てなくなってしまうかもしれない。
もう少し色んなジャンル、純文学系も読むようにすると不遇なまま終わるキャラも主人公だと理解できるようになるのですがね。


主人公がぶっちぎりに強いパターン・サクセスで駆け上がっていくパターンの創作だけを読んで育つと、現実を突きつけられたとき
「自分は主人公ではなかった…」
とショックを受けて自殺してしまうかもしれません。

実際に最近SNSでも若い子たちのそんな呟きを見かけることが増えました。

先日見かけたときの私の呟きを転載:

こう言っている私は前世?がチート扱いされている者でして。
でも現実で(前世・今世含め)チートだったことは一度もありませんね。
フィクションの扱いを見て得意になる――わけがない!! 不当だと感じて怒りを覚えます。今はフィクションの多才ぶりが羨ましい、などと笑い飛ばすことにしていますが。

前も書いた通り、私自身は集団のなかでずっと自分を「サブキャラ」だと思ってきました
今も「サブキャラ」態度だと思います。いや、社会のなかの立ち位置で言えば「モブ」か。

それでも、自分の人生においては「主役」だし「主人公」ですよ。
どんな情けない人生であっても自分の人生を生きられるのは自分だけ。

こう思えるのは純文学の不遇な物語に触れてきたせいもあるでしょうが、スピリチュアル体験で得た輪廻転生の記憶が裏付けてくれます。

ほとんどの人生記憶で私は不遇で無名でした。幼い頃に死んだ悲惨な人生も覚えています。
しかしどの人生でも私は「主人公」でした。当たり前。
有名でも無名でも同等、同価値の人生です。
有名になって騒がれた人生は、仲間がいたので楽しかったですがね。苦労も多く今も苦しんでいますので、悲惨な人生と同等な感覚。

だから集団のなかでの立ち位置は関係ないと言えます。

ショッカーをやめれば「どんな人生でも君が主役」という言葉は真理なんですよ。納得いくかどうかは知りませんが。
欺瞞でも何でもなく、宇宙の真理でしかない。



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振り返れば「ほのぼの」でまとまる人生でした。人生の結末は心向きが決める

 

 

このたびの電子書籍化不具合のおかげで、『僕前』という自分の私小説を何度も読み直すことになってしまいました。


修正作業のためじっくり読み直すこと三回。
書籍化した後のチェックも含めれば計五回くらい……。

本当に疲れてしまいましたが、何度も読み直すことであの当時へ心が戻ったのは良かったと思います。
こんな作業の機会でもなければ自分の書いた小説を読み返すことはないので、貴重な体験だったと言えます。
(と、前向きに考えて夏休みを失った自分を慰めてみる。笑)

前世記憶を“ダウンロード”した時の衝撃、パズルのピースをはめるように記憶が記録文へ正確に当てはまっていくドキドキ感などを再体験しました。
図書館での理子との対話シーンはフィクションですが、似たような場面で「あなたはあなた!」「今の君が好き!」と言ってくれた人たちがいたなと思い出して心が温かくなります。

振り返れば現代では幼い頃から苦しみが多かったけれども、最終的には人の優しさに包まれ“ほのぼの”でまとまってきました。

実は前世も同じ。
振り返れば何故か“ほのぼの”、牧歌的に見えます。
ジェットコースターのような人生でとうてい「ほのぼの」とは見えないでしょうが、私があの人生全体を振り返ってみるとアンチの黒々とした悪意よりも、人の愛のほうが際立って見えます。そのために遠い景色は温かい日向(ひなた)の色で染められています。

たぶん私自身の心に裏切りがなく、最後まで奇跡的な信頼に包まれていたからかと。

幸運だったとも言えます。
しかし心向きが幸運へ導いてくれた気がしています。
人生全体のいろどりを決めるのは結局、自分自身の心なのかもしれません。

これは努めて険悪になろうとしてもなりきれない私の性質――険悪なポーズに疲れてすぐ息切れしてしまう(笑)私の、半端な性格を表しているのでしょうが。
軟弱者ゆえに最後はソフトランディング、「ほのぼの」を無意識に選んでいるのだとすれば本気で闇落ちすることはない。軟弱性格で良かったなと思います。 

 

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転生後、同時代でシンクロする相手の存在は何を表しているのか?【ご質問回答】

 


7/28にD様からいただいたメールへの回答です。

小説ご感想


先にメール冒頭、筆者の小説へのご感想から。
吉野様の著書、『我傍に立つ』拝読させていただきました。

今の時代で言えば、活躍した政治家が引退して落ち着いてから現役時代の回顧録を書いたみたいな印象を受けました。これはブログ記事を読んでいたからそう感じたのかもしれないのですが、過労死のように亡くなられているので、同じ人生で自分のことを振り返る時間がなかったことを惜しんでいたかもしれないですね。

戦乱の世において、信頼関係の話がとても心に残りました。また先帝が身罷られたあとの人生との心境におけるギャップも印象に残り、人が全力で生きる、生命力を謳歌する、そういうことについて前半と後半のコントラストが鮮やかだった感じがします。
前作『我傍に立つ』をお読みいただき、ご感想ありがとうございます。

>同じ人生で自分のことを振り返る時間がなかったことを惜しんでいた

そうかもしれません。息つく暇もなかった晩年でした。自分の人生を振り返る時間などわずかも無かったのは確かです。
死後に走馬灯で振り返ったから自省の点で心残りは無いのですが、本音を周囲にほとんど語らず死んだことは悔やんでいます。

この後悔は現世で今、現実の弊害として表れています。
「ズルいことをしても勝利を奪い取ることが正義」という、かの国の犯罪を正当化するための広告塔に利用されている。
本音を語らず死ぬことの害を思い知りました。

だから今、こうして恥を顧みずみっともない本音全開で自分語りばかりしているのですが……。
良いことも悪いことも全て書いておけば、きっと直接にメッセージを受け取ってくださる人がいるだろうと信じています。

>前半と後半のコントラストが鮮やか

的確なご感想と思います。
私自身の記憶でも前半はカラフルだったのに後半では白黒(灰色)に記憶されているほどコントラストが明白でした。
暗いトーンとなる後半を「要らない。カットすべき」と言った人もいたのですが、自分にとって恥となるあの時期こそ記す必要があると思え発表したものです。

もっとも後半時期の実名化はとても難しい……。今からどう書くべきか悩んでいます。
名前も憶えていない人々を責めるような話を書くのは忍びないですね。万が一名前を間違ってしまい、無実の相手に濡れ衣を着せてしまったらその人の名誉を不当に落とすことになってしまいます。
だからもしかしたら、後半は人物名を省き曖昧となってしまうかもしれません。
実名版少しづつ読み始めています。続き楽しみにしております。
ありがとうございます。
現実記録が重いため、昔のように想いに任せて文を打ち込めないのが辛いところ。
不思議なことに、いつも心が折れそうになるタイミングで読者様からメッセージをいただき勇気づけられています。
執筆は遅くなると思いますが、皆様の声を励みとして書いていきます。


同時代にシンクロする人がいるらしいこと


続いてご質問です。プライバシー保護のため途中を要約します。
話は変わり、わたくしごとになるのですが、吉野様は昨年このような記事を書かれてましたね。

https://ksnovel-labo.com/blog-entry-2058.html
『「彼のような人は、もう二度と現れないだろう」安倍氏への言葉にシンクロを覚えた 』


この中で(前世の人物について)

同時代にシンクロする人物がいるらしくて、その人物とはあったこともなければ血筋もない全くの赤の他人。

という言葉について、質問したくてメールいたしました。

この記事を書かれた後に、似たような体験をされた方はいらっしゃいますか?

私はこの話について気になっているものです。

<以下は個人情報を伏せるため筆者が要約します>
なぜこの話が「気になっている」のかというと、似た体験をしたから。

病気の治癒など様々な経緯でヒーリングを受けたことがあり、そのなかの一人から「ある過去生が今の人生に影響している」と説明を受けた。
その説明で聞いた過去生のシーンが、かつて自分が夢うつつだった時にフラッシュバックで見えた映像と同じだった。

その映像は映画のように白黒静止画の画像だった。他に幻覚や幻聴を体験したこともあるが、その映像だけ違っていて、テレビや映画のように客観的な感じだった。

昔テレビか何かで見たような気もしたので、似たような内容の映画はないだろうか? と検索して調べたところ映画ではなく社会事件として残っているのを見つけた。
<要約終わり。以降は再び引用、一部省略。青字は筆者の文>

発見して画像を見たとき、「少し記憶と違うけど、なんか似ている、なんだろう?自分の記憶をセラピストが読んでそういう話をしたのかな」と思いました。

それで、経歴といきさつを読むと、死ぬ動機がセッションで聞いた内容とそっくりだったので、ちょっと気味悪くなりました。

当時も今も私はあまり政治的な話に興味なく、日本のテレビでもこのシーンは放映されていたみたいのでそれを偶然見て印象に残っていたのかなとも考えました。この事件について調べたりしていないです。

それでも経歴とか偶然読んでいて頭に残っていたのかな?とも考えました。

それから、その事件が起こった時期に自分はホームステイで(事件が起きた国)に行っていたことを思い出しました。行先は事件の起こった場所とは違う場所です。
…略…
自分とは全く関係のない人物が、セッションで聞いた話と同じような感じで亡くなっている。

自分はどこかで話を全部知っていて、セラピストがそれを読んだのだろうか?と感じたのですが、ではなぜ思い出しもしなかったそれをわざわざ話したのか?と、考えるとなにか変な感じがします。

そして、吉野様の記事でそういうことがあるのか、気になりだしたのですが、自分の前世記憶とも言い難いので妄想かもしれません。
…略…
もし、当該記事についてその後なにか変化や思うところがありましたら、ぜひ記事にしていただきたく、お願いします。
そうですね……、今のところ同じ体験をした方からの報告はなかったと思います。D様が初めてです。

同時代に生きていたシンクロする人は、普通に考えれば“前世”ではないと言えます。
もっとも神秘主義の世界では時間の定義がありませんので、理論上は同時代に生きる前世もあるそうです。過去に生まれ変わる来世もある(つまり未来が前世ということ)らしい。
ただしフラッシュバックなどの映像を見た際
「その映像人物は自分自身である」
という確信的なアイデンティティの一致を得なければ、それは前世記憶ではない
と考えられます。

ここで“アイデンティティの一致”とは、高次元の鍵が一致して自分のクラウド上の古いファイルにアクセスするような感覚です。ダウンロードしたファイルの映像に「懐かしい。そう言えばこんなことあったな」と、記憶が一気に蘇る感じがあります。

そんなアイデンティティの一致を感じられない相手だが、過去(前世)の自分と同じ体験をした人が同時代に存在するなら、それは私にとっての安倍さんと同じく縁が遠いシンクロ相手と言えるのでしょう。

いったい何故「シンクロ」する存在が同時代にいるのか。
私が安倍さんの件で思ったのは、もしかしたら過去の自分と同じ境遇の人を客観的に見るためかもしれないということです。

だとすればシンクロ相手が存在する範囲は、同時代の「自分の目が届く範囲」ということになりますね。
相手が有名人でなければ同じ学校の人や、近所の人とか。
相手が有名人であれば報道で知ることができる範囲でしょう。だから必然的に同じ国の有名人となる可能性が高いはずですが、D様のように留学先で目にすることができる人の場合もあるかもしれない。
その代わり前世記憶などがなければシンクロしていることにも気付かないわけですが、無意識的に目にするだけでいいのかも。

何故シンクロに気付いたか


そもそも私が「同時代にシンクロしている相手がいる」と気付いたのは、前世記録を眺めていたときです。

当時の国家元首である皇帝と前世自分が
同じ年に生まれ・同じ年に死んだ
という一致に衝撃を受けました。

ただそれだけなら数字的な偶然と思って見過ごしていましたが、元々その皇帝の人生と、私の古い時代の過去世が似通っていたために以前からシンパシィを感じていました※。そのうえでの数字の一致だったため、「シンクロ相手だったのか」と悟ったわけです。

※経緯を時系列で述べると、古い時代の過去世まで遡って思い出したのが。前世時代の記録を読み込んだのはその後で、生年・享年の一致を知ったのは遥かにです(十年後くらい)。ちなみに人物名を聞いたこともなかったレベルの歴史嫌いで、フィクションすら読んだことがなかった私が“皇帝の人生”というマニアックな情報を偶然でも知るのは不可能だったと言えます。

私の古い過去世については小説でもブログでも書きましたが、今は埋もれてしまったのでここへ書いておきます。

【前世のシンクロ相手と“似通った”過去世】
・15歳頃に独裁者の傀儡として拉致され、強制的に国家元首の座へ据えられる。
・完全に人権を奪われた人生。暴力の被害に遭い続ける日々。
・外部から来た人(独裁者の警護を担っていた)が独裁者の暗殺と私の救出を計画した。救出は成功し私は他の地へ逃げたが、暗殺は失敗。恩人は逮捕され処刑された。
・本土と決戦し死んだ。18歳頃のこと。若くして死んだ人生だったが、最後に救われ人間らしく死ねたため幸福だったと思う。

ご存知の通り前世時代の皇帝とは異なる結末となっています。
まるで意図的に少しずつ変えられた「新シナリオ」でのリバイバル劇を見せられたようでした。
前世時代の皇帝はあまりにも不幸な人生で、その絶望を想像すると痛々しく苦しくなります。

今世の安倍さんとは比べものにならないくらいの強いシンクロ相手でした。
もしかしたらツインソウルだったかもしれませんね。
(今上皇帝とツインだなどと、生きていた当時であればこんな図々しいことは言えませんでしたが。遠く離れた現代だから言えることです)

シンクロで見せられる過去は、終わった昔に過ぎない


もう一度書きます。
何故シンクロの人生を見せられることがあるのかというと、どうやらかつての自分が置かれていた境遇を客観的に眺めるためのようです。

人生はある程度フリーな台本で演じる劇にたとえられます。※
魂たちはグループ内で役をお互いに入れ替え、同じシナリオを再演しています。

しかし魂にはそれぞれ個性がありますので、その個性の違いによって同じ役でもシナリオが変わります。
(極端に言えば、独裁者の役を与えられても私は虐殺王にはなれない。キャラが違うので)
このため全く同じ劇は二度と再演されないのですね。

※ここでは便宜上人生を「劇」にたとえていますが、心なく演じる本物の劇という意味ではありません。人生でわき起こる感情は本物ですし、何かの振りを演じているのではなく皆が本気で自分の個性を発揮して人生を送ることになります。個性が加わるからこそシナリオが有機的に変化するのでしょう。

同時代でシンクロする相手とはたぶん、この「過去に自分が演じた役柄を与えられた若手俳優」なのではないかと思います。
眺める側はその役から引退した年配俳優ということになるでしょう。
かつての自分が演じた劇を観客席側から眺め、他の観客の反応を見ながら自分のときはどうだったのかを振り返る。その必要がある人がシンクロ相手を見せられるのかもしれないと思います。

つまりシンクロ相手を見つけた時点で、自分にとってはその役柄は「終わったこと」になります。
シンクロ相手の結末が今後の自分の運命を表すことにはなりませんので、その点は心配されなくとも大丈夫と思います。

多くの人が勘違いしていることですが、転生は「完全に同じ人生が繰り返される」現象ではないのですね。
「〇〇の生まれ変わり」という表現が間違っていると私が言うのは、過去のシナリオを再演するために転生しているわけでは無いからです。同じ魂が移動しただけなので人格的に共通項はあっても、決して同じシナリオで生きることはありません。

違う人生を経験しなければ学びにならない。つまり生まれる意味もない。
だから全ての魂が、過去とは異なる人生計画を持って生まれて来ているはずです。

もし同じことを繰り返すのだとすれば、それは単に「生き癖」が再現されてしまっただけです。
違う結末となるよう願って生まれたのに繰り返したならチャレンジ失敗となる。またやり直しとなります。



――と、このような返信で答えになっているでしょうか?
私も分からないことが多いので手探りですが。

もしかしたらD様の場合は同じ結末を繰り返さないように、ガイドからの警告としてシンクロ相手を見せられたかもしれません。

シンクロの演じる役柄はもう卒業したのですから遠く眺めるだけで充分です。昔の役柄は若手へ任せて。
未来は過去と異なるシナリオがある。そう確信し、新たな結末を選びましょう。
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竈門炭治郎が劉備にしか見えない… 『刀鍛冶の里編』に痺れる

 都合により『三国志』どっぷりとなってしまった今日この頃。
(ファンの方とは違う意味での「どっぷり」。好きで沼にはまっているわけではない)

最近は“資料”としてフィクション『三国志』も読み始めたのですが、実は物凄く無理をしております。
泥沼を泳いでいるように遅々として進まない。
うう、重い。く、苦しい……。と心の中でうめきながら読んでいる。
フィクション小説を読むのにこれほど重苦しい感覚は生まれて初めて。※
子供でも「楽しい!!」などと言う小説であるらしいのに、やはり私には読書困難な魔書です。

※たとえば初めての吉川三国志は面白いところと苦しいところとあり、冒頭のほう関羽・張飛の掛け合いなどは「意外と面白いかも」と思ったのですが、直後からやはり苦しくなりました。

それで精神が潰れてしまわないように、なるべく他の創作にも触れるようにしています。

ちょうど好きなアニメ『鬼滅の刃 刀鍛冶の里編』が始まりましたので観ています。
善逸や伊之助たちが出てこないのは残念ですが、私は前回の『遊郭編』よりこちらのほうが好きかな。
謎めいた炭次郎の“記憶”が少しずつ明かされるところも興味を覚えますし。
そして何より、炭治郎がカッコ良過ぎて惚れました。

 

画像引用

公式サイトhttps://kimetsu.com/anime/katanakajinosatohen/より

 

炭治郎が“過去”の剣士の技を体現し、「わかった。できる」と言うところ痺れましたね。
究極に優しいキャラクターは相変わらずですが、少しずつ着実に、驚くべき強さを獲得していくところは感動します。

そんなカッコイイ炭治郎を見てようやく確信しました。
やはり炭治郎のモデルは、劉備なのだと。

これは世間で前々から噂されていたことですが、私は最近やっとフィクション劉備を理解できるようになったので「その通りだ」と言えます。

炭治郎は、あくまでもフィクション劉備を投影したキャラクターなのでしょう。
呆れるほどに優し過ぎる“長男”。どこまでも自分を律する品行方正な主人公。
一般の『三国志』では優柔不断で情けない感じに描かれているキャラクターでもあります。

でもそんなフィクション劉備の優しさを持ちながら、壮絶な戦いを乗り越えて強さを体得していく炭治郎には“リアル”、つまり史実劉備の面影も映されているように思えます。
作者さんはきっとフィクション劉備が好きなのでしょうが、フィクションの先にある真実を心の目で透かし見ているのかもしれません。

――と、まったく別世界に触れるつもりでアニメなどを観ていたのに結局また『三国志』の面影を見つけてしまいました。
でも『鬼滅の刃』には重苦しさを感じません。
それはリアルが描かれているからでしょう。ファンタジーであるにも関わらず、台詞やストーリーが真実であり本物だからです。

現代のフィクション『三国志』を読むのが何故重苦しいのかと言うと、あまりにも嘘がひどいから。
表面的な設定が違うとか、そういう低次元なことを言いたいのではないのですよ。(史実モデルなのだからそこも問題ではありますが)
核心の部分で嘘八百を並べ立てていることに抗議したいのです。
『鬼滅の刃』で言えば、鬼の殺戮を「正義」と呼んで褒め称えて、炭治郎たちの義侠心を侮辱し嘲笑してばかりいる。「鬼による鬼のための鬼物語」が現代『三国志』なわけです。

ところで『鬼滅』の面白さは鬼の醜悪さが細かくリアルに描かれている点にもあります。
鬼のモデルは言うまでもなくあの人喰い集団ですね。「鬼は嘘ばかりつく」、まさに。
ああいう人間の皮をかぶった鬼畜が現実に多い。彼らの醜さや凶悪さ残酷さのスケッチがうまいと思います。
子供たちはきっと大きくなってから鬼のモデルたちが実在したことを知って衝撃を受けるはずです。
だから私は鬼を観ていて不快だけれども、現実を子供たちに教えてくれてありがとうと感謝の気持ちが湧いてきます。

君たちの生きる世界は鬼だらけの地獄だが、炭治郎たちのように心の力を燃やして闘い続けなければならないのだよ。
決して鬼の側に堕ちてはならない。「鬼になったほうが楽に生きられる」という誘惑に負けず、人間としての命を燃やせ。
そう伝えてくださっている。

『鬼滅』が流行ったことに感謝、アメリカにも中華圏にも伝わってファンを増やしたことは希望。

こうして眺めていると物語の力は本当に強いな! と思うのです。
だからこそ日本コミックの乗っ取りに警戒しろと言い続けているので。

私のようにネットの片隅で危険を叫ぶだけでは何の力も持てません。
本当に有効な闘い方は、『鬼滅の刃』のような心ある人間側の物語を語り続けていくことだろうと思います。

物語の力はとても強い。どれほどの弾圧があっても、改変があっても消えない。
そう信じています。
だから創作家さんたちは、義を描くことに迷いなく強く進んで欲しい。
悪魔(鬼)たちが日のもとに曝され消滅し、再び人間らしい文化が蘇る未来を目指して。

 

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人は地上でバラバラ? 勘違いの「個人主義」が全体主義を招く


 これは前から書こうと思っていた大事なテーマです。
「絆について」と、個人主義の話。

まず用語の前提から先に書きます。
難しめの長文ですから、面倒だと感じられる方は後半からお読みください。でも読後に戻って前提をご一読していただくと理解が深まるのではと思います。


極端な個人主義と全体主義は、同じもの


最近の世の中では、極端な個人主義とそれに対立する反個人主義との二極化が進んでいるようです。

A.極端な個人主義を叫ぶグループとは、
人は完全に独りで生まれて独りで立ち、生きていくもの。寄り添い合って生きるのは依存だからダメ。結婚制度、家族制度を廃止せよ!!
と主張する人たち。

B.もう一方の極である反個人主義者たちは、
個人主義者は我がままでゴーマンなエゴイスト、私利私欲を追求して甘えているだけ。個人主義者のせいで社会はバラバラに解体され、国家は破壊された。もういちど人類は一つの価値観に従って生きるべき!!
と叫んでいます。

この一見対立するAB両者が、実は同じ者たちであるということがお分かりでしょうか。

もしかしたら、対立して喧嘩をしている本人たちにも“同じ集団”という自覚はないのかもしれません。
でも結果として同じ方向、つまり「全体主義」へと導く主張であることはシミュレーションで考えれば分かるはずです。

B:反個人主義は、ストレートに全体主義を推奨している


Bが全体主義を目指すことは分かりやすいですね。
「人類を一つの生命体」と説き、個人としての自我をエゴと呼んで否定し、人民が“一つの価値観”へ従う奴隷(家畜)となることを理想とする。目と耳と思考をビッグブラザーに預け、何も考えない細胞の一部となれば幸福になると考える。個人の意志や生命の価値はゼロとなる。人権ゼロの、彼ら曰くユートピア。
ハイル・ビッグブラザー! これこそ堂々たる全体主義の宣言です。

言うまでもなくナチスや共産主義のベースとなる思想が源。
ヒトラーの予言で表現された「超人が人類を家畜化して支配するユートピア」のことです。(あれは予言と言うより一種の計画)

最近では流行りの自称・自然主義者などにも見られる主張です。スピリチュアル好きの人たちを罠にかけようとしているようです。
スピ好きの方も、一度ジョージ・オーウェルのSF小説『1984年』を読んでみることをお勧めします。「人類は一つの生命」との個人否定思想のもとで社会を作れば、どのような“ユートピア”が出来上がるかバーチャル体験できるでしょう。

A:極端過ぎる個人主義は、密かに全体主義を招くためのプログラム


いっぽうでAの個人主義礼賛も同じく全体主義を目指す者たち、ということは分かりづらいかもしれません。
こちらは、唱えている本人たちも自覚がないままに全体主義を招くプログラムです。

結論から言えばAの「個人を大切にする」との主張は欺瞞であり偽装。
人々の絆を断って社会を分断し、占領することだけを目的とした大きな嘘なのです。

Aの謀略プログラムは段階的に進められます。

第一段階:人々の絆を断って社会を分断する。親子、夫婦などの家族関係も潰して、人を完全に孤立させる。
第二段階:人々がバラバラとなり無力化すれば、社会を簡単に崩壊させることができ、国家権力を奪うことができる。(人々の繋がりが希薄なため抵抗勢力は無い)
第三段階:独裁の全体主義で人々の占領支配完了。孤立し、孤独を感じていた人々は全体主義で思考停止する状態を「幸福」と感じ、無条件で受け入れる。

このようにA「個人主義」は、Bとは違って本音を隠したひねりのあるプログラムなので分かりづらいでしょう。
多くの人は言葉の表面的な意味だけでそのまま受け取ります。だから、偽装ということが分からずに知らず知らずのうちに誘導されるわけです。

AもBも源は同じ。
または現実に工作している団体が完全に同じである、“占領工作”です。

なおこれは陰謀論ではありません。近現代の歴史をひもとけば読み取ることができるプログラムなのですが、ここで説明すると話がややこしくなり過ぎるので省きます。※

※少しだけ歴史の例を述べると…現代では表向き個人主義・自由主義を叫ぶ者たちが“左翼”団体であることから、保守的な人たちは反対の極、全体主義へ走りがちです。しかしそれは単に敵と反対の方向へ走っているだけで理屈を分かっての主張とは言えません。このような保守迷走が恐怖の独裁ファシズムを招いたことは、第二次大戦の歴史から学ぶことができます。
ABどちらも同じ穴へ追い込む罠だということは歴史が証明しているでしょう。

難しいことは分からなくてもけっこうです。ともかく、
現代で個人主義・全体主義の両極な思想を叫ぶ人たちについて行ってはダメ!
とだけ覚えておいてください。

その人たちが工作員ということではなく(時々その場合もありますが)、すでに騙されて全体主義に誘導されている人たちなので近付き過ぎないほうが良い、という意味です。
彼ら彼女らの思想に影響されてしまえば、ディストピアの穴へ一緒に落ちていくことは避けられないと言えます。



矛盾して見えた件について


次の項からは主にAの「極端な個人主義」についてのみ批判しています。

記事を書いた当時はあのように一方の個人主義側だけ批判してしまったので、いつも全体主義を批判している他の記事と矛盾しているように思われたかもしれません。

私はただ極端な意見には抵抗したくなる性格でして、その場合には以前の記事と矛盾したことを書いているように思われるでしょう。
でも実際はいつも同じことを述べているだけです。
バランスの重要性を見くびるな、二極で思考停止するなと。

現代では皆さん、なぜ二極でしか物を考えられず、二極でしか生きられないのだろうか? と不思議でたまりません。だから同じ穴に落とされる。

自分軸で個人としての意志を持ったまま社会生活することは、「絆」を持つことと決して対立しません。独立した意志を持つ個だけが本物の協調関係を結べるのです。
意志を失い自我を失い、心を失って、ビッグブラザーに従うロボットになることだけで孤独が癒されると思うのは勘違いです。そんな心を失った者同士の関係は「絆」などではない。古代東洋の言葉で「付和雷同」の有害関係と呼ぶのですね。

【独立した意志を持つ個だけが本物の協調関係を結べる、例】押し付けられた一体感(全体主義)では本物のチームになれないという話:
tumblr230422-2.png

いつでも第三の道はあります。
それは単なる良いとこ取りの妥協点に見えるでしょうが、たいてい真理の道です。


……さて前置きが長くなりました。ここから下が以前の記事、本題となります。「極端な個人主義が全体主義を招く」ということを説明しています。
(スピリチュアル好き・占星術好きの方向けの話です)




極端な個人主義が全体主義を招くメカニズム


近ごろ極端な個人主義が叫ばれるようになり、人と人との“絆”も否定する声が大きくなってきました。

「人は完全に独りで生まれて独りで立ち、生きていくもの。寄り添い合って生きるのは依存だからダメ。結婚制度、家族制度を廃止せよ!!」
と叫ぶ極端な個人主義がカッコイイと崇められ、もてはやされる風潮がありますね。

占星術界隈でも
「水瓶座の時代だから、これからの新時代では個人主義で自由主義となる。女性を奴隷として縛り付ける結婚制度や家族制度はなくなって、親も子もバラバラになり、全ての人が単独で自由に生きていく」
と叫ばれています。

でも、本当にその主張は正しいのでしょうか?
根っから個人主義と決めつけられている水瓶座代表のような私(ネイタルで水瓶座がとても強い)が、「絆」について思うことを書いてみます。

「人は地上に堕ちてバラバラ」なのか?


かつて占星術師の松村潔氏が著書のなかで、
「魂は地上に生み堕とされたとき霊脈(大霊?)から切り離されて
バラバラとなり、完全な孤独の身となる。棄てられたも同然だ」
と書いていたことがあります。
(書籍が手元にないので記憶に頼った要旨)

私はその話に違和感を覚えました。
人は生まれるとき霊からバラバラに切り離され、孤独な存在として地上へ堕とされる? 棄てられたも同然?
一般的な“スピリチュアル”の概念に沿って考えるならそのような表現はあり得ないでしょう。
魂というものは一見バラバラに見えても、大霊とは常に繋がっているとされるからです。※

※ただし全体主義的に一つの神に従う奴隷として生きているわけではない。大霊を宿して個となった魂がお互い有機的に繋がるイメージ


 


死後でも地上でも同じ。肉体を持とうが霊体であろうが、魂は本質で同じものなのだから当たり前です。

スピリチュアル本に拠らない私自身の感覚から言っても、
「地上では霊の世界から切り離され、バラバラ」
「ここに産み堕とされたら完全に孤独。棄てられた身」
などという話は違うと感じます。
地上の人間集団のなかでは同意が得られず孤独を感じることはあっても、本質的に孤独であるとは思えないからです。
ただし私も小学生〜高校生くらいまで、現代の唯物主義を教え込まれ信じていた期間は「人間は完全に孤独なものだ」と考えていましたね。その時に自殺を考えていたのです。

人は唯物主義に侵され、完全に孤独な牢獄に棄てられていると信じたときに自殺も考える。私のような自虐タイプと逆の人は、おそらく「物扱い」の意識が他者へ向かい我がままを追及したくなるので、大殺戮をお楽しみになるのでは?
スピリチュアルを信じている人でも唯物主義的な発想をする人は同じ。

しかし私は様々な体験を経て「孤独ではない」ということが実感でき、上のような唯物主義の考えは消え失せていきました。
大霊とは常に繋がっている※と思考でも信じられるようになりましたし、高次霊の先輩方や死者オーディエンスの存在も確信しています。それはもう、嫌でも存在を感じ取れるほどにビシバシと信号を送って来られますので当然でしょう。

※大霊とは繋がっている――と言うよりも、自分自身の深層に“大霊”と全く同じものが存り活動しているとの感覚があります。
これはおそらく仏教で言うところの仏性:「自分の中の仏」というものですね。ミクロはマクロに等しい。高次元で畳み込まれているということです。(上の画像参照。奴隷として神に従っているわけではない。個の魂が大霊そのもの)
このような自覚があるのはもしかしたら、たまたま主張の強い死者オーディエンスたちに囲まれている私だからなのかもしれませんが、全ての人が高次の先輩方...指導霊に守護されこの地上に生きていることは間違いありません。感じ取ることができない人であっても、守護する存在は必ずいるものです。

だから、
「地上でバラバラ」
「孤独の身として棄てられた」
との松村氏の言葉に違和感と反発を覚えたものです。
まして、松村氏は多くのスピリチュアル本を読んでいるはず。守護霊についても聞いたことは当然あるでしょうに、「孤独」と仰るのは不可解で違和感がありました。

もしかしたら彼はご自身で孤独のカプセルに閉じ籠っている魂なのかもしれません。過去生で何か過ちを犯したとき、反省のために自ら孤独のカプセルに閉じ籠ることがあるようです。そしてそのような魂は、孤独を抱えた状態のまま転生を繰り返します。かつての私がそうでした。
でもそんな状態は、虚妄。
外から扉を叩くノックの音はずっと聴こえているはずです。
いずれ孤独の幻から覚めて自ら扉を開けるときが来ます。そのために必要なのは、「自分は孤独ではない」と知る勇気だけです。

追記。現実に地上生活で孤独な場合


「孤独のカプセルに閉じ籠る」とは、あくまでも精神的な話、魂レベルの話です。
そうではなく、現実の地上生活で孤独な環境に置かれている人も実在します。
たとえば不幸にも幼い頃、実の親から虐待されたり。
信じていた恋人に酷い別れ方をされるなどして、人間を信じることができなくなった人たちです。
そのように現世の経緯があれば「自分は孤独」と信じて生きるようになっても仕方がないでしょう。
人を信じて裏切られた時の危機を防ぐために、予め信じないようにして生体を防御するのは動物の本能からも当然です。
私でも虐待をされて育ったなら防衛本能で孤独に閉じ籠ったと思います。(過去生では一時的にそうなりました)

しかし、それは防衛本能によるガードであって「孤独は真理」なのではありませんよね。
それなのに「真理」と勘違いして孤独を崇めていると、やがて精神の孤独カプセルに籠もり出て来られなくなるのでは...?
現実を見れば信じられる人は存在するものです。
愛してくれなかった親や恋人のことばかり考えるのではなく、信頼できる人のほうへ目を向けるべきです。
そのためにもまず、孤独崇拝教を棄てて踏み出さなければなりません。



水瓶座は真に「個人主義」ゆえに、絆=友情を信じる


私がこのように絆の重要性を話すと
「水瓶座が強いわりに個人主義ではないのはおかしい」
と言われるのではないでしょうか。
冒頭で書いたように、水瓶座は個人主義を象徴する星座として宣伝されているからです。

しかし、現実の水瓶座はむしろ逆で「絆」を大切にします。
「水瓶座は友情の星座」と聞いたことはありませんか。
その通りで、ほんとうの水瓶座(偽装されていない・歪みのない解釈)は他のどの星座よりも深い友情を持つことがあります。
“友情”とは、血縁ではなく恋愛感情でもない、もちろん思想で手を結ぶ同志でもない。純然たる精神の「絆」を指します。
精神だけの絆なのですから、それは往々にして「魂の繋がり」であることが多いでしょう。
このように深い絆を求め大切にするのは、実は水瓶座が究極の個人主義を持つからではないかと思います。
逆説的ではありますが、個を持たないと真の友情を得ることができません。
誰の命令にも服さない、コピーではない、独立した個としての意識があるからこそ他の個と友情を結ぶことができます。

そんな水瓶座の友情は独立した個同士の結び付きではありますが、
“依存しない”
ということでもなく、自己の欠けた半身を補うパートナーとして相手を見ることになります。
感情の薄い水瓶座であれば「ギブ・アンド・テイク」で利己のためにパートナーを求めるかもしれませんし、情の深いタイプならニコイチの伴侶を求めることになるでしょう。



自分の場合


私をサンプルとして例に出すなら、言うまでもなく前世の主人とは深い絆で結ばれていたようです。
これは死後に得た確信としての記憶なので、誤解はありません。

人は死んで魂となると嘘偽りのないその人生の真相を振り返ることになります。
生きている間には言語という手段でしか分からなかった相手の気持ちも、直接の想いとなってなだれ込んで来ます。
そうして死者は、自分が生前に接した人の本心を「自分の心」として感じ取るわけです。

だから他人へ酷いことをした人は、その痛みや苦しみ、憎悪の感情を体感することになるのでしょう。痛い、苦しいという感覚は正確に再現され、圧倒的な憎悪の感情に包み込まれることになる。これを地獄と呼ぶのかもしれない。

私の場合は、主人の気持ちが想像を絶する親愛であったことを知ることになりました。実の親も上回る、深い信頼と親愛...。言葉では表現しきれない「絆」を感じました。
なおこの話は純粋な私自身の記憶ですので、念のため。フィクションや他者情報の影響は一切無し。
何しろ私の前世記憶はあの死後場面から始まります。こんな話を書いているフィクションはどこにも存在しないはずです。よく考えればこのことこそ潜在記憶ではない何よりの証拠でした。

現世でも同様。
伴侶である配偶者と巡り会って30年。
今も30年前とほとんど変わらぬ気持ちで楽しく過ごしています。
現世の伴侶は配偶者なので、客観的には「恋愛」や「夫婦愛」ということになるのでしょうが、私自身にはあまりそのような感覚がなく......と言ったら物凄く怒られそうですが(笑)、やはり精神のほうを優位に考えてしまいますね。

他の人たちは恋愛や血縁で区別してこだわるけれども、私は「精神さえ繋がっていれば何でもいいでしょ」と言ったりするので寂しがられます。
実は誰よりも深く純粋な、精神の絆を求めているだけなのですが。
何故に寂しがられたり怒られるのかよく分からない、というのが本音です。(で、こういう発言で変わり者と呼ばれている気がします)

精神が大事だと思う故に、形式にはこだわらない。
だからフェミのように「家族制度反対!」などと叫ぶことはしません。何こだわってんの?と冷めた目で眺めてしまいますね。こだわっていること自体が旧タイプの人類である証。

こだわらないので、形式については相手の求めや現状に合わせることができます。
なるべく多くの時間を伴に過ごしたいとは思っているので、その時代で最も近くにいられる立場を選択することになるのでしょう。
現代なら配偶者にならないと一緒に過ごせないものだから選択したのだと思いますね。結果から考えれば。



勘違いの個人主義が全体主義を招くわけ


ここで冒頭に話を戻します。
現代、
「新時代は水瓶座の個人主義が実現する!」
と叫ばれ、盛んに個人主義が推奨されていますが、現実はどんどん正反対の全体主義へ流れています。
何故こうなるのかと言うと、皆さんが思っている「個人主義」が勘違いで誤っているからです。

「人間は完全に孤独。死ぬまで独りぼっちだと悟るべき、信じられ
るのは自分だけ」
すなわち、孤独感イコール個人主義なのだと勘違いしている。
これは誤り。
少なくとも、水瓶座らしい個人主義とは正反対の考えです。

形式には縛られず、「個」として独立した考えを持つのが水瓶座らしい個人主義です。
そのうえで他者と精神の絆で結ばれた友情を持ち、お互いを信じ合って支え合うのが水瓶座世界。
水瓶座を引き合いに出すなら、ちゃんと正確な水瓶座の個人主義で話をしていただきたいですね。

もしも正反対の
「自分は独りぼっち」
が個人主義なのだと勘違いしているなら注意してください。
その孤独感は、カルトな全体主義へ容易に絡めとられるベースとなります。
不思議なことでしょうが、現に「個人主義者」を名乗る多くの孤独な人が全体主義のロボットとなっています。
おそらく、たとえ「生まれてから死ぬまで独りぼっち」だと自分に言い聞かせたとしても、人は独りでは生きられないので無意識に拠り所を探してしまう。その瞬間に、心の隙間へ入り込んでくるのがカルト思想なのでしょう。

孤独感を持つ人たちは、身近な人を信じないわりに何故か「思想」や「宗教」は信じてしまうものなのです。
人と人との絆を知らないからこそ、思想などの教義で繋がれた“同志”と呼ぶ関係を唯一の絆と勘違いしてしまうのでしょう。

実例。あれが孤独に侵された人の心象風景と思います。

【別館、閲覧注意】彼ら彼女らの心象風景に衝撃「人間の魂をごちゃごちゃにし心を失わせるプログラム」

「親を否定し、反発」
「家族を否定し、反発」
「社会を否定し、反発」......
そのあげくに生まれたばかりの我が子の生死にも無関心となり、放置してカルト活動へ邁進したといいます。
しかもインタビューでその話を「武勇伝」として自慢気に語る様に引いてしまいました。周囲が賞賛し持ち上げたからでしょうか、亡くなるまで勘違いの個人主義を抱き続けたようです。
ある意味で、あの絵は真実の彼女自身を描き出したと言えるでしょう。ゲージュツは真実を描き出す。

上記事はもしかしたら差別的に思われるかもしれませんが、「勘違いの個人主義が全体主義を招く」という話の実例として冷静に眺めてください。
せっかくの実例サンプルから危険を学ぶべきです。

ちなみに社会プログラムとしても、
「人は生まれてから死ぬまで孤独」
「絆など存在しない」
と教え込むことは全体主義のための準備となります。
独裁政府が人⺠を奴隷化して支配するためには、個人同士が自分の意思でつながって友情を持つことを防がなければなりません。
このため、全体主義の準備として個人を分断させます。
恋愛否定、結婚否定、家族制度反対の叫びも、
「友情なんか存在しない」の叫びも、
全てはあなたを孤独に追い込んで全体主義で絡めとるため。
信じてついていかないようにしてください。

この記事の上のほうに書いた“前提”参照、またはこちらを読んでみて。

【かんたんに言えばこういうこと】昭和の大人が子供向けに説明してくれていました。『ウルトラセブン』より:
tumblr230422.png

そんな人と人との絆を破壊する全体主義準備の一つが、「劉備と孔明の絆否定」だと思われます。
私に使命があるとすれば、この全体主義工作を阻止するために真実存在した絆をお伝えすることでしょう。
これは私にしかできないこと。

ようやく最近分かってきました。
(私が小説などを書いてきたのは)結局は現代の人助けのためです。
少し回りくどく時間はかかるかもしれませんが、今と未来の人のために真実を書き残さねばと思います。

 

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桜2023と三渓園の梅

 季節が過ぎ行く。
2023年の桜もそろそろ終わりでしょうか。

また無事に花見ができたことをありがたく思います。

今年は日によって気温差が激しかったせいか? 同じ町でも時間差で桜が開花したため、長く花見を楽しめましたね。
私は夕方に桜を見て回ることが多かったので夕日に映える桜がいつもより美しく見えました。
町に溶け込む桜があまりにも美し過ぎて、いつまでこの夢のような地で過ごせるのかなと切なくなったり。

写真は毎年似たような感じになってしまい恐縮です。
代わりに、一か月前に撮った梅の景色を上げてみます。

 


 

インスタグラムのプロフィール画面より。各写真が見たい場合はインスタへ。

これは神奈川県横浜市にある三渓園(さんけいえん)というところ。
日本全国から古い建物を移築し造り上げた見事な庭園です。

仕事帰りに寄ったのですが、訪れたのは十数年ぶりでした。年を取ったせいか昔より美しく感じられ楽しむことができました。

三渓園は桜の季節が特に有名らしく、ライトアップも行われて大変混雑するそうです。
でも実は梅の季節が最も美しいとのこと。
園を造った原三渓(はら・さんけい)という人は梅を大変好み、建物と梅が調和して見えるよう計算されているからです。

スマホの写真ではいまいち伝わらないのが残念ですが、肉眼ではほんとうに息を飲む美しさでした。
茅葺屋根の田舎家屋や、中華式の東屋(亭)、竹に埋もれる庵などに控えめに寄り添う梅が良い。
まるで桃源郷のよう。
(梅で“桃源郷”と呼ぶのは合っているのかどうか?)

一瞬、自分は死んだのかと疑ってしまいました……。

いや違いますね。前世と見紛う景色だったのですね、たぶん。
三渓の中華趣味のせいかもしれませんが、和と中が調和したこの園がちょうど古代の景色に似ているのだと思います。

毎年思うのは、この梅から桜の時期に日本の大きな庭園を歩いていると、いったい自分がいつの時代に生きているのか分からなくなるということ。古代のあの地と錯覚しそう。
きっと来世で思い出したなら、前世と今世が一続きの人生に思えるのではないでしょうか。

二千年近くも経っているのに“あの頃”を感じさせる景色が見られるのは不思議なことです。全て計らいのような気もします。
人の心が荒んだ時代に飛ばされたことを恨んだこともありましたが。今はこの美しい地で幸福に暮らせていることを、心からありがたく思います。

 

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【再考】伝統回帰・唯心論は諸刃の剣…? “魂中心主義”を伝えるべき

 


前記事で取り上げた『よみがえる古代思想』について、今せっかく手元に本があるので考えをメモしておきます。
現代と未来につながる政治に関する話+スピリチュアルです。

先にポイントだけ簡潔に述べます。

1.現代に至るまで政治学の源は全て古代ギリシャにある

2.全体主義は古代ギリシャ思想を都合良くつまみ取り、歪曲して創作された

3.正しく古代思想に習いたいなら、「魂中心主義」を省いてはならない

1と2は政治思想を勉強したことのある方には当たり前の常識かもしれませんので、詳細を省きます。
重要なのは3です。この3の発想を持つ人は現代ではほとんどいないのでは?と思います。

〔自分用メモも兼ねて書いているため、また無駄に長くなってしまいました。読める方のみ続きをどうぞ〕

古代、政治とスピリチュアルは一体だった


現代で政治の話をする人は嫌われるものです。どうしても険悪な内容となるし、対立する集団と喧嘩になってしまうので当然かもしれませんが。

特にここのようなスピリチュアルブログではクレームが回避できませんので避けねばなりません。
それで私も長年政治話を避けてきました。数年前からやむにやまれず書くようになりましたが、読者様の迷惑になると分かっているので別館に分けています。

それでもわざわざ追いかけてきて「自分のメンタルが具合悪くなるから政治話やめて」などとクレームを仰る人にはもうお手上げ。
政治話をするには匿名で、隠れてしなければダメなのでしょうか。でも自分の考えを述べるのにどうしてコソコソ隠れなければならないのかもよく分かりませんし。
筆者の“前世職”を考えると政治の話をしないほうがむしろ不自然でしょうに、スピを信じて前世も信じる方々がそこは疑問に思われないのか…? と謎に思う。

このように現代では“下等で下劣な話題”として忌み嫌われ、他のあらゆる話題よりも下に置かれている政治話。
しかし古代は西洋でも東洋でも政治とスピリチュアル的な話は一体として語られていました。

政教分離などという話が出てきたのはほんの近代のことですし、
「真理(神の道)の探求が上位」
とされて高みに掲げられ、政治を卑しいと決めつけ貶めたたのもキリスト教が西欧を支配して以降のこと。

昔の人は「行動が大事」と知っていた


前掲『よみがえる古代思想』のなかで佐々木氏は、まだキリスト教が国教となる遥か以前のローマにおいて、偉大な政治家キケロの概念を紹介しています。これは「スキピオの夢」と呼ばれる伝説で、当時のローマで一般的だった教訓に基づいています。
(キケロの『義務論』)最後のところで天国の話、死者に対する報酬の話が出てきます。…
小スキピオがアフリカに滞在した際、夢の中に祖父の大スキピオが現れ、そこで彼は、国家のために、自分の利己心、欲望を捨てて献身した人たちは、やがて亡くなった後、天界において幸福者として永生を享受することになっていると語ったといいます。つまり…
正義にかなった社会を実現するために献身した人間こそ、神がもっとも喜ばしく思うものであることを述べて、いわばダメオシをしているわけです。祖国と国民のために尽くさなければいけないといっているだけではみんな納得しないので、死後の世界とそこでの幸福な永生の物語を付加して、エリートにその責任を納得させるというロジックだろうと思います。…
キケロの場合、哲学を一生懸命に勉強したのですが、実践的、政治的な生活の方が、じっと自然を観察するような思弁的、観照的な生活に対して積極的に擁護される価値があるという発想が見られます。「スキピオの夢」においても神によってもっとも喜ばれる存在とは、偉大な政治家です。しかも国民のために尽くした政治家こそが実は神にとって一番喜ばしく、神のことばかり考えている思弁的人間よりも大切だという指摘は重要なことです。
〔P211~212より引用 太字は当ブログ筆者による。“…”は略〕

佐々木氏はあくまでも現代の学者ですからこのファンタジーを「社会操作のためのロジック」として、マキャベリ的に解釈しています。

しかし私はこの話にも驚きました。自分が前世の死後に指導霊から言われ、悟ったことと同じだったからです。
特に最後のほう太字で引用した箇所
「国民のために尽くした政治家こそが実は神にとって一番喜ばしく、神のことばかり考えている思弁的人間よりも大切」
これは私に対する死者オーディエンスの評価と全く同じでした。

だからこの話はロジックではなく単なる誰かが体験したという意味で“真実の話”だと思います。
信じるか信じないかはあなた次第なのですが、私は同じことを体験したので信じますね。

なお正確に言えば神々に賞賛される行動とは政治だけとは限らず、人々のために何らかの形で尽くす人生のことです。
政治でなければ医学でもいい。介護でもいい。ボランティアでもいい。創作を発表して人の心を癒すというのも有りです。

大事なのは自己を捧げるという行い。
報酬を得るためという欲得で行うのは良くないが、やらない善よりもやる偽善のほうが褒められるのは現世と同じでしょう。

(ただしボランティアと称して実際はやらず公金チューチューしている犯罪者は報われません。死後世界の先輩霊は実態を見ています。実態として利己的な行いをし、他人を害している者たちは自ら地獄の底という故郷へ戻ることになるでしょう。今世は改心するために得たチャンスだったろうに、残念ですね)

行いが大事なのですから、生きている間に
“真理探究”
の修行だけして修道院に籠りきるのはあまり称賛されないと言えます。

もちろんそのような修行人生も一時なら否定されないでしょう。でもそれはあくまでも自分のために生きたということになりますので休憩と捉えられるはず。

宗教で精神修行すべきとの考えは、不自然な歪み

これまで私が
「行動が大事。宗教修行している暇があるなら、人生を真面目に生きるべき」
と繰り返し説いてきたのは、哲学書や宗教から得た知識ではなくて自分自身の死後体験に基づく考えでした。

その体験が今こうして、古代の思想家たちの発言によって裏付けられていくのは不思議な感覚です。

ちなみに根本的な正義感――何が正義なのかという感覚、道徳観念は洋の東西を問わず人類共通だと思います。

前記事では私の指導霊の言動から、元ギリシャのアテナイ人であったことをプロファイリングしました。
そのように生前の文化圏によって若干、指導が異なることはあると思います。
しかし根本の道徳観は不思議と一致していること注意。地域によって表面的な文化は異なりますが、根本的な道徳観は同じであると私は感じます。

おそらく古代の人たちは私が体験して得た知識と同じものを生まれつき知っていたのでしょう。
あるいは、死後の霊たちと対話できる感覚の優れた人が多くて(デルフォイの巫女など)、その人たちの話が尊重されており信じる人が多かったのだと思います。

歪みが出てくるのはやはり一神教が強くなって以降です。

佐々木氏は
「ローマ帝国が興って、ポリスという小規模な国家の価値観が通用しなくなった。“政治”に参加できる人が少なくなった結果、“精神修養”だけに籠っていたほうがいいと考える人々が増えた」
と解説しています。

その人々は政治を「魂を乱すもの」として嫌い、個人が関わるべきではないとしました。ただ国のリーダーだけが政治という卑しい仕事を請け負えばいいのだと考えたわけです。
正義も人間が生きるための相対的な手段に過ぎないから、存在しないものとして扱えと言いました。古代にあった善悪の概念も否定してしまったようです。
(このあたりの思想を現代の全体主義者は便利と見て再利用しているようです)

そして人々は政治を軽蔑し遠ざけ、あげく善悪について一つ一つ考えるのをやめ「神の判断」に委ねてしまいました。
その人生放棄の態度は信者を囲い込みたい宗教にとって好都合だったことでしょう。

やがてキリスト教がローマの国教となり、西欧を支配していくにつれて人々は考えることさえやめてしまったようです。

「真理の探究」はソクラテスやプラトンが唱えたような思考←→行動の反復によって目指すものではなくなり、ただ修道院に籠って神に祈りを捧げたり、胡坐をかいて悟りをひらくための瞑想に励むものとなったわけです。

ここに厳密な意味での哲学(愛智、フィロソフィ)は滅んだと言えます。

近代哲学になると「反哲学」となり善悪・天地の反転を願う呪詛を唱えるのみ、都合良く過去の哲学者たちの言葉を捻じ曲げて悪用し、一神教をなぞるだけの全体主義となっていきます。

こう言うとまた宗教弾圧と思われるかもしれませんが、やはり一神教に支配され思考と行動を放棄するようになった頃から人類が歪み始めたのは確かだと思います。

現代の反哲学・悪魔崇拝、そこから派生して世界を地獄へ叩き落したマルクス主義なども一神教を反転させた宗教から生まれました。たとえばグノーシス、マニ教など。
「この世は地獄」と説く厭世的な宗教は東洋に輸入され、仏教的にアレンジされると浄土教となり、やがて白蓮社(白蓮教)などの秘密結社へと発展します。その秘密結社は中華で大規模な乱を起こし、虐殺などで甚大な被害を生みました。世界を憎悪しているため彼らは破壊や殺戮に躊躇なく、戦闘をさせれば喜んで命を投げ出し最強の兵士となったそうです。

これらのカルト宗教と反哲学者は、唯心論と唯物論で対立しているように思われがちです。
しかし実は根本が同じと思います。
いずれも“今ここ”の人生をおろそかにし、肉体を機械または要らない物と捉える点で思想構造が共通しています。「何をやっても現世で罪は帳消し」と言って道徳観を放棄し、蛮行にふけるようになる。

いっぽう魂主義だったソクラテスやプラトンなど古代人は、魂を大切に考えるなら人生を大切にしろと説きました
「少しの悪事でもしてはいけない(魂を傷つけるから)」
「不正するくらいなら、不正されたほうがいい(同上)」
「現世で真理を明らかにする実践教育をしろ」
等々と説く。

これは魂主義であると同時に、現世と死後世界を分断して考えていないということになります。

肉体のなかに宿って行動する現世も、死後に魂となって浮遊する黄泉の国も続きにある。だからこそ死後の幸福のために現世で善行に努めなければならない、神のために人生を放棄するのではなく自分で思考し真理にたどり着かなければならない…云々と説く。
こう説くことで聴いている側に必然的に道徳観が生まれます。
多分に利己主義ではありますが、自らの魂のために善く生きるべきというのは真実だと言えます。

古代の人のこのような考え方は、何と呼べばいいのか。
【魂中心主義】
などと呼べるでしょうか。
決して分断されていない生と死を移動する魂。その魂を中心に考えるからこそ現世をより善く生きようとし、自然な道徳が生まれる。

近現代ではこの【魂中心】の考えが欠けているといえます。
プラトンの書籍にしろ、ソクラテスの思想にしろ、近現代学者がただ全体主義のためだけに悪用できてしまうのは【魂中心】の考えを完全にカットしているから。

そんな古代思想の根幹と言える【魂中心主義】を抹消したために近現代哲学は“死んで”しまったのですね。
言論を都合良く利用、捏造する者は悪魔です。

佐々木氏の話も引用しておきます。
(西欧ではたびたび古代復古の波が起こったが)ただ、もう一度、二十世紀の初頭に古代の波が来ます。ここでまた古代が使われますが、あまりいい使われ方はしません。それは、どちらかといえばファシストたちが利用したのです。…
一言でいえば、民族共同体への奉仕を強調するために古代を動員したのでした。実際、古代の議論の「つまみ食い」をしたわけです。こうしたことがあったため、ポパーは『開かれた社会とその論敵』の中でプラトンを二十世紀の全体主義思想の原型として取り上げ、延々と批判を行うことになりました。ここでは、二十世紀の議論はこのどちらにせよ、「魂への配慮」といった命題にはまったく興味がなかったこと、民族共同体至上主義をめぐる議論でしかなかったことを指摘しておきます。
〔P248, 同上〕

魂中心主義 復活のレシピ


最近の私は“伝統回帰”だとか、“魂中心主義”を主張することが増えました。
しかしこれらの言葉は諸刃の剣であること分かっています。

伝統回帰は原理化すると必ず狂気の凶器となります。
民族主義と結びつけて嘘の伝統話を捏造し始めたら終わり。
たとえば先日別館で書いた「からごころ(中華文化)批判」の本居宣長が典型ですね。
急激な伝統復活を望んだ場合、その時点で社会に広まっていた文化を否定することになるので一種の“ブンカク”となり、嘘をついてまで破壊せざるを得なくなるのかもしれませえん。

魂主義も同じで、唯心論と勘違いされると前述通り命をおろそかにするカルトを生みます。

あくまでも魂中心主義であること。
そして伝統回帰とはけっして急進的なものであってはならず、自然な道徳を蘇らせる程度の文化復興であること。

まず、現世と死後が連続しているとの理解が必要です。
古代と現代も切り離されておらず、道徳は不朽の概念であることの確信も必要。

これらのことをファンタジーではなく真実として受け止めることができれば、人類はようやく成長できると思います。
押しつけの独善カルト思想にしてはいけませんよ。
死後も道徳も現実にあること、これは星々が宇宙に存在しているのと等しく自然なことだと漠然とでも信じてもらうのが大切です。 

 

 

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「魂のホロスコープ」こと、ドラコニックチャート(龍頭図)への所感【返信】

 

メールでいただいたご質問への返信です。遅くなってしまい、すみません。

こんにちは新規でブログを拝見し すごく占星術の可能性が広がる内容ばかりで楽しく読ませて頂いています 自分も霊界や前世の仕組みに占星術を組み合わせれば可能性が広まるんじゃないかとずっと考えてた矢先にこちらのブログをたまたま見つけとっても参考になる記事で嬉しかったです。特にヘッドとテールが逆という事実に驚きました…
こんにちはN様! メールありがとうございました。
このような辺境へお越しくださいまして、こちらこそ嬉しく思います。

ドラゴンヘッドとテイルの解釈がどうやら逆に流布されているらしい… という話は、あくまでも前世記憶を持つ人たちの事例(自分含む)と照らし合わせての考えに過ぎなかったのですが、最近は近代思想の背景を知って正しい推測だったと分かりました。

太陽星座占いの件でも触れた通り、近現代の占星術は「世界を反転させる」という目的のため呪符として使われている側面があります。
ヘリオセントリックなどもその流れのようです。

こう書くと陰謀論っぽいのですが、これは近現代思想を構造的に読み解いたうえでの推論です。
近現代人は天地を反転させたコペルニクスを神と崇め、あらゆるものを反転させ捧げているようですね。言葉の定義も、正義感も、歴史も、占星術も……。

思想の都合で利用された占星術は、占星術とは呼べない他の何物かでしょう。それを私は「呪符」と呼んでいるわけですが。
それでは個人的に気になった質問をさせて頂きます。
龍頭図とカルマの関係性などはどうなるのかずっと疑問でした アセンダントは転生しても変わらないと仰てましたが個人的に私もそうだと信じています。ですが魂のホロスコープである龍頭図もアセンダントがあるのですが どっちが本当のアセンダント(本質)なのか気になりました ちなみに私はアセン水瓶座で龍頭図はアセン天秤座です実の所アセン天秤座のサビアンも自分が無意識にやってることと一致していたのでアセン水瓶座と天秤座が混ざったような感覚があります。また龍頭図をどのような視点で考察しておられるのか気になりました (ブログを拝見したのですが龍頭図などは触れておられなかったので)もし宜しければ返答お待ちしております。m(_ _)m

龍頭図、ドラコニックチャートですね。
ノーマークでごめんなさい。
自分のチャートがあまりピンと来なかったのでスルーしていました…。
解読法を詳しく知らないということもあるのですが。
(最近は占星術のほうへ割く時間が減ってしまい勉強不足です)

以下はあくまでも私の考えで、もし批判的に響いてしまったら申し訳ありません。

龍頭図が“魂のホロスコープ”と呼ばれているのは申し訳ないが言い過ぎで、ちょっと発想が単純かなと感じます。
ドラゴンヘッドは「カルマ」であり、これは「現世と対応する過去生の行い」という具体的かつ狭い意味です。
決してドラゴンヘッドが魂そのものなのではありませんし、すべての過去世を指すわけでもありません。

だからドラゴンヘッド&テイルが輪廻転生と関わりがありそうだからといって、過剰に重きを置いて牡羊座0度に設定するのはやり過ぎだな、と思っています。

ご質問の

>魂のホロスコープである龍頭図もアセンダントがあるのですが どっちが本当のアセンダント(本質)なのか気になりました

これは答えは明白で、龍頭図のアセンダントは魂の本質ではないでしょう。
何故ならドラゴンヘッドはほんの一回~数回の過去世での行いを指すに過ぎないからです。
そして今の人生では、たまたまそのカルマ解消をテーマとして選び生まれてきているだけのこと。
次の人生ではまた別のカルマを引き出され、ドラゴンヘッドは変わります。
(変わるものを起点として出したチャートのアセンダントを“魂の本質”と考えるのは難しい)

おそらく龍頭図を魂のホロスコープとして読む手法を考えた方は、
「魂は何度も転生する」
という基本を忘れドラゴンヘッドを永久固定と考えてしまわれたのではと思います。もしくは、輪廻転生という東洋思想にあまり詳しくない方なのでしょう。

いっぽう正規のチャートのアセンダント星座は転生で大きく動くことはないようです。
すなわち正規のアセンがホームポジション、自分の“軸”と言って良いでしょう。
何故アセンダント星座が自分の本質を表すのか? ということは分かりません。魂は生まれ故郷によって地上へ入る時の角度が決まっているからかも――などとスピ的に推測しています。

もしカルマとしてドラゴンヘッドを手掛かりに魂の軌跡を読みたいなら、まずは正規のチャートで月(宿)を、それからヘッド&テイルの星座を深く読み込んだほうが早いでしょう。

そのうえで、視点を変えた読み方をするためにドラゴンヘッドを牡羊座0度としたチャートを読むのは面白いと思います。

“視点を変えた読み方”と言ったのは、なんとなくですがこの龍頭図は
「他人」
という気がするからです。

たとえばSNSにおける通りすがりの人たちの意見のように、自分のプライベートをよく知らない、無責任な他人たちの雑多な意見。

それは歪んだ鏡です。真実を表すこともありますが、そのまま全て本当ではありません。
しょせん他人の言うこと。誰かが勝手に描いた自分モデルのフィクション・キャラクターみたいなもの。
彼らはフィクションを掲げ「これこそ本当のお前だ」と言って来ますが、たいてい悪意ある嘘だから振り回されないほうがいいと思います。

「四十歳を過ぎると龍頭図が響くようになる」
と言われているみたいですが、おそらく年を取ると全く正反対の人間にも自分を投影することができるようになるからでしょう。
他人の描いたフィクションを自分そのものと思い込んでしまうと、アイデンティティが混乱するので注意を要しますが。

ただしそのように歪んだ鏡であっても、過去世にまつわる“他者”を映し出していることは確かのようです。
その意味で龍頭図にも捨てがたい真実を感じます。不思議なチャートと言えます。

>>理由は筆者を例として、次の記事で書きました。
(別館です)


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【『我傍』ご感想と返信】孤独な戦い、“仲間”とのお言葉に涙ぐみました

 1/11にメールをくださったN様、温かいお言葉をありがとうございます。
先ほどようやく気付いて(遅い。すみません)感動していました。

他の読者様もご興味ありそうな内容と思いましたので、N様のプライベートに関わる箇所をカットして引用させていただきます。
人物名は今回あえてそのままに。

劉備の伝記、読んでいます!
やっぱり、諸葛亮を語るなら、彼のことは抜きにできませんよね。
是非続けてほしいです。
世の中には、彼らの物語が必要です。
私としては、吉川英治三国志は冒頭百ページぐらいでやめちゃったし、史実の方も触れてきませんでしたが彼の姿にすごく共鳴します。
「我傍に立つ」の隆恒です。
第三章は、烏滸がましくも他人とは思えないほど近しいものを感じました。
特に怒り方とか…笑
(小説も読みました。すごく面白かった!
シリーズ全部、感想を伝えたいですが…上手く表現出来なくてやたら長くなって訳分からなくなりそうですし、又今度にします。)
>劉備の伝記、読んでいます!

ありがとうございます。こちらですね。⇒別館『劉備ってどんな人?』

読んでくださってとても嬉しいです。
遅筆で申し訳ないですが、どうか今後も見捨てないでお付き合いください。
最後まで書いた暁には拡散していただけると嬉しく思います。

『吉川英治三国志』は私もようやく(!)この年になって読み始めました。
ずっと“生理的に無理”と思っていたのですが、ここ数年の荒療治(超時空エゴサで何でも見る)が功を奏して読めるようになったようです。
ただし色々と不可抗力なことがありまして、まだ二巻(青空文庫版では三巻)の始めくらい。

個人的には吉川の「良い子」な劉備さん、あまり私のタイプではないのですが、中華フィクションの主人公としてはあれが定型なのでしょうね。西遊記の三蔵法師と同じポジションか。
優しい感じで、キャラクターとしては悪くはないです。
関羽さん・張飛さんが笑えるほど強くて楽しい。そこは他のアニメと同じく単純に愉しんでいます。

>「我傍に立つ」の隆恒

私の小説も読んでくださって、ありがとうございます。

隆恒のキャラが現実の劉備とイコールかというと、たぶん100%ではないと思います。
あれは私が若かった頃、まだ記憶と史実が本当に同じなのか半信半疑のまま書いた小説。「現実ではないかも」「違う時代かも」と思いながら書いていました。だから隆恒も、自分の記憶をベースに、当時の私のかなり自由なイメージで創作した人物です。(私の記憶には欠けが多いので創作が必要でした)

ただそれでも今、改めて劉備の史実をひもとき隆恒と照らし合わせてみて、それほどかけ離れていなかったことには驚いています。

いずれ『我傍』の実名化をしたときは史実寄りで再構築しますので、隆恒とはまた少し違う表現になるかと思います。
フィクション劉備も反映してもう少し穏やかに描きたいですけど、そこはたぶん無理でしょうねえ。笑

>シリーズ全部、感想を伝えたいですが…上手く表現出来なくて

ありがとうございます。気が向いたとき、お気軽にご感想を送ってくだされば嬉しいです。
“うまい表現”の感想などは世の中どこでも必要ないと思います。嘘がなければどんなご感想でも嬉しく思います。
彼にはまだ出会っていないのですか?
小説では、どんな過酷な目にあっても彼は一緒に生きたがってました。
そろそろ彼が追い付いてくる頃だと思いませんか?
>彼にはまだ出会っていないのですか?

はい…まだ前世の主人には会っていない、と思います。
そう思おうとしているだけかもしれませんが。

私は、なるべく現実の人間関係に前世のことを反映しないようにしています。ややこしくなりそうなので。
それに、実際にかつての主人だと思ったら私は頭が上がりません。現代生活を送るのにちょっと支障が出そう。現代でかしずくわけにもいきませんよね。パワハラDVを疑われ相手が白い目で見られるでしょう。笑

ただ、ありがたいことに一緒に生きてくれている“伴侶”はいます。
スピリチュアルな話などは一切しない、他愛のない日常を過ごすだけの相手ですが。
いつもニコイチで過ごす相手がいる、そういう状況は前世と似通っています。

>そろそろ彼が追い付いてくる

ああ。なるほど。彼は転生を超えた究極のストーカーですからね。失礼…笑
ありがたいストーカーもいるものです。
いつまでも甘えてばかりはいられませんが、追いかけてきて声をかけてくださるなら嬉しくて舞い上がります。
(プライベート情報に関わる文を略)
どうやら私も、地上で大切なものを再生させるために働くことになるようです。

つまり私は吉野さんの仲間なのです。
だからあなたはこの先独りぼっちで戦うわけではないです。そう伝えたくてまた連絡差し上げました。

最後の文にとてつもない心強さを感じ、涙ぐんでしまいました。

私がこの戦いに関して孤独を感じていることを察し、わざわざメールを送ってくださいましたね。

いつも読者様から応援のお言葉をいただいて、そのたび「自分は独りではない」と知ることができるのですが、こと今回の戦いに関しては誰も巻き込むわけにいきません。
だから孤独でも仕方ない、全ての人に見捨てられても独りで続けていくしかないと考えていました。
特に最近は刺激的な言葉を用い過激な話をしているので、見捨てられて当たり前……と思っています。多くの方に引かれてしまい、遠巻きで眺められているように感じます。

しかし、「仲間」と仰ってくださる方がいた。
この件に触れるだけでも勇気が要ったでしょうに、心強いメッセージを送ってくださったこと最大感謝致します。
どれだけ救われたか。

“伝統回帰”と“劉備”の役割、ぜひ果たされてください。
ただどうかご無理はなさらず。
かつての劉備のように身を挺して旗を掲げる必要はありませんし、今の私のように危険な道を歩む必要はありません。

若い方々には、なるべく無事に幸せな人生を送って欲しい。
それで機会があれば、私の遺したメッセージ(物語)を広く伝えてくださるよう願っています。

そのためにも私は早く必要なことを書かなければ。
集中せねば! ですね。

このたびは励ましの言葉をありがとうございました。お気持ちを忘れず、必ずお応えしたいと思います。

 

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魂の話は、真実である(社会的メリットだけではない)

 


前回書いた話は少々分かりづらかったかもしれません。


かいつまんで述べると
輪廻転生思想を多くの人が信じれば、社会的メリットがある
という話をしていました。

何故なら、輪廻転生思想は完全な「自己責任論」で個人主義・自由主義であるので。
個人を従えて縛る神様はいない。(指導してくれる先輩霊はいますが)
すべては自分次第の因果応報。
ものすごく冷徹な、機械的な世界観ではあるけど、そのぶん魂は自由です。

何もかもを自分で考え、自分で行い、結果を自分で受け取らなければならない。この世界観が浸透すれば、人間は生きている間の行いに責任を持つようになるでしょう。

そんな真の自由人が多い社会では、たとえ利己的な人であっても、その利己主義ゆえに自然と道徳的な行動を採らざるを得ません。
極端なサイコパスには何を説いても無駄ではあるでしょうが、“日和見”で影響されやすい人たちは自らを律して道徳的に振る舞うようになるはずです。そうすると全体の民度が底上げされていく。

――と。

このような話を書いていると、まるで道徳を実現させたいという都合で考え出した“方便”、一種のプログラムを私が提供しているだけなのではと思われそうですが。

(これこそ“仮面マキャベリスト”という悪い癖。優しさを持たない利己的な人へ向けて、「あなたのためですよ」と合理主義で言って聞かせて蛮行を抑えようとする。本音では残虐なことをやめて欲しいだけなのですが、サイコパスに言っても無駄と考えて策を講じてしまう)

そうではなく、輪廻転生は現実あることだと私は何よりも強くお伝えしたいです。

つまり、魂は永遠で死後世界が存在する。
だから今がどれほど辛くても絶望しないで欲しい、ということ。

大丈夫。
努力している人、苦労している人、優しさを振りまいている人は、必ず報われます。
それは魂が本当に永遠である故に。
努力も苦労も積み重なっていく、人生は単純に繰り返されるのではなく螺旋状に成長していく。


私たち体験者はイデオロギーでも、宗教でも、社会的なメリットのためでもなく、ただそのことを「体験(現実の現象)」として知っているだけです。

体験していない人は信じることが難しいでしょうが、それでも私たちは見たことをお伝えするのみ。
信じなくても構いません。でも信じれば地上での過ごし方が変わるだろうと思います。

そして多くの人の間に真実が浸透すれば、結果として社会的なメリットも得られるでしょう。

宇宙法則における真実は人類社会と対立するものではなく、全てを最良の状態で並び立たせるもの。
それこそ宇宙法則が“美しい”と呼ばれる所以です。

 

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