宿曜占星術のおさらい。古代から個人を占う占星術が存在したことの証


 ここのところ人が血を流す場面ばかり眺め、悲しみと怒り・焦燥で神経が逆立っていました。
現場の人たちの恐怖は我々傍観者の比ではないので、こんなことを想うのは申し訳ないですが。
疲れました……。

そんな折、占星術に関するメールが届きありがたく思いました。
一度神経をオフにして熟考するため、久しぶりに趣味のジャンルの話をします。


ご質問と回答は別館にて


宿曜占星術に関するご質問と回答。
長いこと放置してしまったブログを更新するため、今回は別館で回答しています。H様、メールありがとうございました。
 ⇒【宿曜占星術】宿の性格解釈が曖昧な理由


余談。古代から個人を占う占星術が存在したことの証


これを書いていて改めて思ったことがあります。
宿曜占星術が生まれた遥か古代、すでに人間個人の人格や運勢を占う占星術の手法は存在したこと。

最近の西洋占星術師たちは
「古代の占星術は国家を占うだけで、人間個人の人格など占うことは絶対に無かった。個人を占う占星術が生まれたのはほんの100年ほど前の近代。それ以前には有り得ない」
と主張しています。
(それどころか彼らは、「星座など無かった」という主張まで始めています。太陽星座があまりにも当たらないから、星座そのものを否定することにしたのでしょうか?)

古代の占星術がマンデーン/国家・社会の未来予測中心だったことは事実そうだと思いますが、「個人を占う手法は有り得ない」と断定するのはいかがなものかと常々思ってきました。

宿曜占星術は紀元前に生まれ、漢代にはすでに中国へ伝わっていたわけです。
こうして東洋に厳然たる古代手法の痕跡が残るのに、どうして最近の西洋占星術師たちは嘘をつくのでしょうか?

私利私欲にまみれたビジネス上の目的しか感じられませんね。
ここにもまるで共のごとき歴史捏造が感じられます。
悪魔に等しい者たちの卑しい意識を感じて不快です。

……などと。
やはり結局、不快なことを思い出してしまいました。
嫌なことばかりに目を向けてしまいがちな自分の性分を反省します。

ともあれ皆様には、私欲にまみれた者たちによる歴史捏造に左右されない冷静な目を持っていただきたいと願います。
私の文章が役立てば幸いです。

 

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懐かしの「血天井」、怖いものではなく素晴らしい絆の証だった

昨夜テレビ番組で伏見城「血天井」が紹介されていた。
忘れもしない、私が修学旅行で見たあの「血天井」だ。
あの日から自分の運命が変わった。通常の意味を越えた懐かしさを抱く。

番組は宝泉院(大原三千院の参道奥にある寺院)だったのだろうか? 途中から見たので分からないのだけど、 同じ伏見城のものであることは確か。鳥居元忠氏の人生が紹介されていた。

番組を観ている時、メモのため上げたツイートを下に転載。↓
政治思想アカウントなので普段は反応がほとんどないのだが、今回めずらしく反応があって、少々リツイートや「いいね」などいただいた。感謝。

以下センシティブ?な画像があります。苦手な方は注意してください。
いや、高校の修学旅行でも連れて行かれるところだから普通の人は平気なのだろうけど(現にツイッターもセンシティブとは判断していない)。
これでショックを受けるのは私くらいか、笑。

懐かしの「血天井」放送している。
鳥居元忠は徳川家康の忠臣で、家康を天下人にした人だという。

高校の修学旅行、血天井へ行った夜に私は前世を体験したのだった…
ショック過ぎてあんなことになったのだと思っていたが、なるほど忠臣の権化。彼に導かれたのかもな…


2019年9月25日


続きの投稿。
「血天井」はずっと怖いものだと思っていた。
鳥居元忠さん、ごめんなさい。

家康のために死んだ彼が怨みなど抱いているはずがない。
「血天井」は怖いどころか素晴らしい絆の象徴だ。

2019年9月25日

今回ようやくきちんとあの「血天井」の由来を理解した。
あばれる君よ、ありがとう。

当時はショック過ぎてほとんどご住職の説明を聞いておらず、「千年前の血痕」と勘違いしていたくらい。(たぶん年号の「1600年」の「せん~」というところしか聞いていなかったのだろう)
後日少し調べたが、とり憑かれたら怖いと思っていて深入りせずにスルー。(コラ)
そもそも私は日本の戦国時代にあまり興味がないので無知。
そのため今日まであの血痕の主である鳥居元忠についてよく知らなかったのであった。
本当に申し訳ないことです……。


鳥居元忠とは


鳥居元忠って?
ここで番組の説明を参考に少し紹介しておく。

元忠は松平家の家臣・鳥居忠吉の三男。
徳川家康には幼い頃から家臣として仕えた。
1600年関ヶ原の戦いの前、上杉景勝の征伐のためと言って家康が出征する際に伏見城を預けられた。
伏見城は石田三成が挙兵すれば最前線となることが分かっていたが、元忠は家康のためになるべく多くの兵を出し、みずからは僅かな手勢で城を守り「捨て石」となることを家康に誓った。
三成が挙兵した際、4万の兵が迫った。元忠は僅か1800の兵で城に篭もり防衛。この時間稼ぎのおかげで家康は天下を取ることができた。
鳥居元忠はまさに家康を天下人へ押し上げた忠臣と言える。
家康は自刃して果てた元忠を「精忠」として称え、元忠と、彼と伴に戦った兵士たちの血で染まった畳を階上に置いて忍んだ。後に床板は宝泉院などの寺院天井へ掲げられた。

最後の箇所だけ参考のためウィキペディアより引用
その(元忠の)忠節は「三河武士の鑑」と称された。このときの伏見城の血染め畳は元忠の忠義を賞賛した家康が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせた。明治維新による江戸城明け渡しの後、その畳は明治新政府より壬生藩鳥居家に下げ渡され、壬生城内にあり元忠を祭神とする精忠神社の境内に「畳塚」を築いて埋納された。床板は「血天井」として京都市の養源院[15] をはじめ宝泉院、正伝寺、源光庵、瑞雲院、宇治市の興聖寺に今も伝えられている。
家康は忠実な部下の死を悲しみ、その功績もあって……


泣かされる話。

彼が「忠臣の鑑」と呼ばれているという話を知って、ようやくあの時自分が「血天井」に触れたことも意味があったのだと理解した。

改めて自分の体験の全てに意味があったと知る。

あの時、元忠さんは歓迎してくださっていたのだろうか? 温かいお心を感じる。

それなのに無知な現代人の私は寺院に血天井があることで、「怨念の供養」とずっと誤解していた。
申し訳なく想う。
ツイートにも書いたが、彼に怨念などあろうはずもない。
敬愛する主君のために捧げる命は僅かも惜しいとは思わないものだ。
私には彼の気持ちがよく理解できる。


【初来訪の方へ】
このブログに筆者の「前世記憶」に関する記事は膨大にありますが、プロフィールを見ると分かりやすいかと思います。
特に→「経緯1.退行催眠で見た「前世イメージ」と、当初の考え」が端的に分かりやすい話です。これが修学旅行で「血天井」を見た夜に観た記憶。
(記憶の内容についてはごめんなさい、有料の本になっていますが、当ブログ記事を多めに読んでいただければだいたい分かるはず) 



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ドラゴンヘッド・テイルは性格ではないということ

 

 こちらは筆者の前世をサンプルとして、「ドラゴンヘッド/テイルは過去世の性格なのかどうか?」考察した記事です。

 ⇒前世(仮)、ドラゴンテイルへ歩いた見本人生



※一度公開しましたが、今回の記事整理にともない限定公開としました。前段の話はこちら

記事『前世(仮)、ドラゴンテイルへ歩いた見本人生』では、特に
「ここは全く当たっていませんね。やはりヘッドのサイン解釈を性格として読むには無理があるように思います。~全ての転生を通して、私は「直情的に生きる」ことが苦手」
というところがポイントです。
つまり、ドラゴンヘッドもテイルも性格ではないということです。

私が瞬間的に怒りを爆発させているように見えても、感情を直接爆発させているわけではありません。※
少し障碍なのかなとも思いますが、私は怒ろうと意識してから怒ります。

※泣く時はわずかの演技もありません。さすがに私も「泣くことは世間で恥ずかしいこと」と知っているので意識して泣いたことはない。怒って見せることには理由があっても、泣くことに何の意味があるのか?

ただし本当に心の底から怒ったときは表でも裏でも長期にわたる反撃が可能です。やろうと思えば。
何故なら瞬間的に怒りを爆発させることが無いし、相手に意識を向けて感情で粘着することも無いので淡々と続けられるのです。
また周りの目なども意識しないので何を言われても気にしません。
自分で言うのも何ですが、私のようなタイプは怒らせると一番たちが悪いのでは? 笑
(どうか悔い改めて欲しいですね、渡邉義浩と恥三には)

このような性格タイプは瞬間沸騰で忘れる牡羊座(前世ドラゴンヘッド)では有り得ないし、社会での評価を重視する山羊座(今世ドラゴンヘッド)でもありません。
ASC水瓶座のものでしか有り得ないでしょう。

ドラゴンヘッドは今までの人生を投影しているが、性格そのものではない。ましてテイルが性格であるはずがない。
また、ヘッドのほうこそ「今までの人生」を表し、テイルは「今後経験しなければならない人生」を表す。
――私の人生という現実サンプルで、これらのことがご納得いただけるのでは。

〔2024/7/21 改稿〕

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本に囲まれ、崩れた本で圧死したい(理想の老後と死に方)

 


〔以前「はてなブログ」で公開した記事、移動です〕

今週のお題「理想の老後」

険悪な話が続いて疲れたので【お題】へ乗ってみる。

 

私の「理想の老後」は――

本に囲まれて毎日ひたすら読書して過ごし、最期は崩れた本で圧死したい。

というもの。※

 

そうです、私は本好きの変態です。笑

書かなくてもご存知か。

(最近はあまりじっくり小説などを読む時間もないためレビューを書けていないが、くだらない社会関連の本なら読み散らかしています。レビューを書くほどの価値もない本です。それでも文字に触れられるなら幸せと思う)

 

※具体的なイメージ: 可能なら海に近い小山の家にて。

庭の緑が見える開放的な窓がある書斎、部屋の両側に造り付けた本棚にはぎっしり本が詰まっている。孤独な老人となった私はその書斎で毎日本を読んでいたが、あるとき地震が起きて本が崩れ、圧死する。

なんという幸福な老後、本望の最期。

 

この理想を抱くに至った経緯


幼い頃から本が好きだった。文字を目にしている時は何よりも幸せだった。

かと言って人目を気にせず思う存分に本を貪り読むことが可能、という状況にはなかったので、なおさら読書欲は根深くなった。

 

若気の至りで「死にたい」と思った時も、

「まだ読んでいない本がある……あと一日生きる時間を延ばそう」と考え踏みとどまった。おかげで気持ちの変化を体験し、生きながらえることができた。

 

今も

「何のために生きているんだ自分」

などと難しいことを考えそうになった際には、

「とにかくただ本を読む時間を稼ぐ。それだけのために一日でも多く生きよう」

と思うと悩みが消えて明日が来るのを歓迎できるようになる。

くだらない……と思われるかもしれないが、案外とくだらない欲求のほうが生存の力となる。

 

社会のため、国家のため生きねば!

などと大仰なことを考えている人は早く死にますよ。まじで。

 

何故なのかと言うと、たぶんシンプルでくだらない欲求のほうが肉体に近いからではないかと思う。

「社会のため、国家のため」云々は精神に属する話なのだろう。

 

地上の肉体へ魂を縛り付けるには、すなわち生存していくにはシンプルな欲求のほうが強い。

欲求とは、たとえば食欲でも構わない。

死ぬか生きるかギリギリのところで、「あれを食べるまで死ねるか!」と思うことが意外と生還の切り札となる。

 

私はあまり食欲や性欲などがないタイプで、最も肉体に近いシンプルな欲求というものが

「本を読みたい」

であるらしい。

 

もちろん、大好きな人の顔をいつまでも見ていたいとか、いつまでも手を握っていたいという感情も強くある。そのほうが地上にいる理由としては強い。

ただし好きな人が地上を去り、独りぼっちになったことを想定しての「老後」であれば、最も肉体に近い欲求として残るのは自分の場合

「本を読みたい」

になるだろう。

 

だから私は自分が独りぼっちになった老後をイメージするとき、ひたすら好きな本を読んでいるだけの日々を思い浮かべる。

 

“理想の老後”と言うよりは、それしか思い浮かばない老後の光景だ。

 

そしてそんな日々はいつまでもきりがなくなってしまいそうだから、最期は自分で読み漁った本に潰されて区切りをつけたい。

愛する本に潰されて死ぬなら本望だ。

 

後記


自分も電子書籍を読むようになっている昨今、もはや紙本に潰されるという「理想の老後」は夢物語なのかもしれないが。あくまでも理想。

 

それより最近は世界がキナ臭くなり、来年ものんびり読書が許されるか分からない状況となってきた。

読書ができる平和は有難い。

いつまでも、好きな本を読み散らかし自由に放言が吐けるような平和が続けば良いのにと願う。


【関連記事】自分に老後などあるのだろうか?

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鳥居の奥から、黒アゲハが飛来する神秘… とエンジェルナンバー444

 虫とスピリチュアルが苦手な方は、ごめんなさい。この記事を見ないよう避けてください。

ゾロ目ふたたび


ここのところ数字のゾロ目を見ることが増えた。

〔この記事だけ読んでいる方のために解説〕
こういったゾロ目の数字は「エンジェルナンバー」と呼ばれ、高次霊たちからのメッセージだとされる。
神秘分野ではメッセージ性のあるシンボルを「オラクル(神託)」と呼ぶ。エンジェルナンバーも神託の一種。私の経験上、オーディエンスたる高次霊たちは地上の言語を扱うことができないので数字や図形でメッセージを伝えようとしてくる。
ゾロ目などは神託の最たるもので、高次霊たちが使いやすく・地上人の目につきやすいため使われることが多いはず。
(オラクルかどうか判断の仕方: 車のナンバーはユーザーが意図的にゾロ目を申請していることが多いので除外したほうが良いと思う。ただしデジタル時計でゾロ目を見た直後、全く同じゾロ目の車ナンバーを見た時など重なった場合はオラクルとして受け取るべきだろう)

あれ以来、333などは毎日のように見る。
先日書いた999は自分としてはめずらしかったので思わず反応したが、ここ数日でも「444」というゾロ目を見た。
しかもこれがまたブログのアクセス数だったので地上のオーディエンス(文字通り観覧されている読者様)の力も反映されている気がして嬉しかった。



444のメッセージ


444の意味。
エンジェルナンバー444は「万事好調」というメッセージです。
エンジェルナンバー444を⾒たら、「万事好調!」という⾔葉をご⾃分に向けて繰り返 して下さい。
なぜなら、それは本当の事だからです!この⾔葉をあなたがマントラのように繰り返せ ば繰り返すほど、あなたの⼈⽣にそれが現れてきます。
目標に視線を定めて、前進し続けましょう。
あなたは正しい⼈⽣の道を歩んでいて、素晴らしい仕事をしています。
天使たちと⼤天使たちはいつもあなたの傍に居て助けと導きを与えてくれます。
あなたは彼らに助けを求めるだけでよいのです。
エンジェルナンバー444は⼈⽣、仕事そして聖なる目的において何も恐れることはない というメッセージなのです。
あなたがより⾼い意志、願望、目的に向かって前向きな⾏動をとる時、宇宙はあなたに とって良い⽅向に動いてくれ、あなたが確固たる基礎を築き、ご⾃⾝の道を進む⼿助け をしてくれます。
天使たちがあなたの周りでサポートしてくれ、これまであなたがしてきた努⼒を続ける ように励ましてくれているのです。
“The tide finally starts going in your direction.” 「物事の流れがついにあなたの進む⽅向へと向かい始めている」

https://www.numbervoice.jp/angel-number-444/より。(いつも一定のサイトから引用しているわけではないのは、検索で巡り合うことにも意味があると思っているから)

>あなたは正しい⼈⽣の道を歩んでいて、素晴らしい仕事をしています。

なんという力強い言葉だろう。
ちょうど時期的に「実名化」のことやツイッター開設に重なる。
地上の人には「実名化」を応援していただいたが、霊のオーディエンスたちはどう思っているだろうか? また反対されるのでは? と心配していたのでメッセージをくださったのだと思う。

(険悪で一般人からは引かれているツイッターなどにも霊から応援メッセージが来るということは、自分は全く正しい真実を暴いたのだということになる)


鳥居の奥から、黒アゲハが飛来する神秘的光景


こんなことを考えていた台風直前、仕事で立ち寄った先に「お奨めの絶景ポイント」があると聞いたので行ってみた。
具体的に地名を書くと外国人が殺到したりして迷惑がかかるから書かないが、閑散とした田舎町にある小山の上。
海と富士が観られる絶景らしい。あいにく台風前で湿気が多く、夕暮れ間近でもあったため煙っていたが。


この山を登る途中、見るからに古い神社があった。
木立の中に不意に現れる寂れた鳥居が神秘的で、思わず立ち止まり礼をしてから登った。
帰り道。
再びそこを通る際、何気に神社を覗き見て肌が粟立った。
鳥居の奥から、ゆっくりとこちらへ向かって飛来する大きくて黒いアゲハ蝶を見たために……。


写真について:「写真に撮ろう」という発想も浮かばず茫然と見てしまった。このため上イメージ画像はACより。

これも実際の現地の写真ではないが(ACより)、このような苔むした階段の奥から、鳥居をくぐって真っ直ぐ蝶が飛んできた。

夢を見ているのかと思った。
しかしそれは現実の蝶なのだった。
現実の蝶が、人間である私を恐れるどころか近付いて来て、ゆっくり目の前を飛んで去った。
まるで意志を持つ何者かが歓迎のために奥から出迎えてくれたかのような動きだった。

神秘過ぎて畏れを感じる光景に茫然とした。でも決して嫌なものは感じない。
図々しいが、本当に高次の存在が歓迎してくださっているのだと感じた。

後で調べたところ、神社で見る黒アゲハ蝶はやはり神社に棲む高次の者たちの「歓迎の意図」を表すのだそう。
吉兆、成功の意味でもあるとか。
今の自分が何について「成功」するのかは分からないが、ともかく間違った道を歩んではいないらしい。

【関連記事】
以前に大量の蝶に歓迎された話。→蝶は高次霊が操る「使い」という話
そう言えばこの時も大きな黒アゲハが中心だった(他に黄色や青)。こういう体験をするのは古い神社のみ。

これら、同時期に重なったオラクルで安心した。
自分の肉体にとっては危険の多い道ではあるが、このまま進んで良さそうだ。
ようやくこの人生で真っ直ぐ一本の道が見えた気がする。


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波乱万丈な生き方を望むかどうか。人それぞれの人生計画

 


メールのやり取りにて、公の役に立ちそうだと思ったお話があったので恐縮ながら引用して回答させていただきます。
(いつもながら引用してすみません)

波乱万丈を望むか否か


いただいたメールより引用。
>波乱万丈を望む人から見れば、

………そんな人いますか?笑
絶対いないですって。笑

意外なお言葉でした。
私は多くの人が変化のない退屈な日常よりも、「波乱万丈な人生」を望むものだと思っていたので。

多くの人が望む「波乱万丈」とはもちろん、ポジティブな意味です。
山あり谷ありの大冒険を経た後に成功し、晩年に「振り返ってみれば自分の人生は波乱万丈だった」と笑顔で思い返すような人生のことです。
たいていの人は、「波乱万丈」をこういった意味に捉えているのではないでしょうか。

山も谷もない、波風の立たない凪のような退屈な人生を望む人のほうこそ少ないはずです。
「安定した人生」をカッコ悪いと思う人は多いし、おとぎ話の「めでたし・めでたし。王子様とお姫様は末永く幸せに暮らしましたとさ」という結末をおぞましくダサいと考える人は多いのです。
それは何も知らない若者が冒険を望んでいるだけかもしれませんが。

大人として現実を考えれば、ネガティブな意味での「波乱万丈」は誰も望まないでしょう。
大病を患ったり、事故や戦乱に巻き込まれるなどの大変化が人生に起きることを望む人はいません。
「どんな苦労も受けて立つ」
と意気込んでいた人も、目の前に変化が迫ったとき、痛みや混乱を感じることが嫌なので
「安定した人生・ソフトランディング」
を強く望んでしまうのが人の性(さが)というものです。

ただし実は「何も知らない若者が冒険を望む心」こそ、意外と大きな視点からは真実と言えます。

「達観」が不快を与えるとき


本当の真実を言えば、魂は大病を患ったり犯罪被害者になることすら人生計画として立てて生まれて来る場合があります。
大病や事件事故との遭遇さえも魂にとっては、自分磨きの心躍るチャレンジです。

でもこんなことを地上で現に生きている人間に言えば反感を買うことは必至。
何故なら、地上で生きている人間は生まれる前に自分で立てた人生計画を完全に忘れているからです。(計画を忘れた状態でチャレンジしなければ意味がない)
このため地上で生きている人間はいつも
「神は何故、私めにこのような試練を与えたもうたのだ!」
と天を仰いで恨み節を言うことになります。
神様(高次霊)はさぞ言い返したいことでしょう、
「それはお前自身が選んだ人生計画だ」
と。

このような視点は俗に「達観」と呼ばれ、地上の現実とは次元が異なります。
たいていの人はこんな発想すら持ちませんし、理解している人でもいざ苦しみに直面したときは嘆くものです。
誰だって痛いものは痛い。
私自身、痛みは苦手なので大病を患えば泣き叫ぶと思う。

達観してどのような拷問にも涼しい顔をしているのはお釈迦さんなど、悟りを得たマスターだけですかね。

現に苦労をしている人にこのような話をすれば不快を与えるはず。
信じてもらえないだけではなく無責任な詭弁にしか思えないため、「馬鹿にしているのか」と怒られてしまうと思います。
(他人の苦しみに付け込んで宗教団体へ勧誘することは最もやってはならないことです。それはまた種類の違う犯罪)

だから結局、このようなスピリチュアル的・仏教的お説教は現世の苦しみの前では無力なのかなという気もします。

ただし日ごろから
「全ては自分自身で選んだ人生計画なのだ」
という考えを心の片隅に置いて、どんな苦労も少し引きの目(俯瞰)で眺める癖がついていれば、変化を嘆くばかりではなくポジティブに捉えることができるかもしれません。

いざ苦労に直面したときに情報を求めると宗教団体から勧誘を受け入信してしまうかもしれないので、普段から習慣的に教養を積むことをおススメします。

【参考書籍としておススメなもの】
・シルバーバーチの霊訓(私は全編読んでいませんが冒頭のほう、とても高度な思想と思います)
・古典的な仏教の教え(現代の宗教団体のテキストは絶対ダメ。避けてください)
・古典的な中国の道徳(老子などがおススメ。これも宗教団体のテキストは避けてください)
マイケルニュートン『人生はなんのためにあるのか』(特におススメです。とても具体的で分かりやすい)

もちろん、当ブログでは今後も自身の体験から分かった話を書いていきます。
このテーマに近いタグ:運命


安定を望むタイプと、波乱万丈を望むタイプ


最後に、人それぞれに望む人生が違うのは何故か? という話を書いてみます。

そもそも輪廻転生は地上で経験を積むためにあります。
(「地上」とは地球だけとは限りません。ただ一瞬で魂の次元が変わることはありませんので、何度も同じ惑星で経験を積むことになりますが)

魂は前回までの人生で得られなかった経験を新たな人生で積もうとするため、前回と同じ場所・同じ状況に生まれることはほぼありません。(前回自殺していない限り)
必ず前回と違った状況を経験させられることになります。

たとえば、長いこと安定した人生を送ってきた者は波乱万丈に。
長いこと波乱万丈を経験してきた者は安定した人生に。

戦争の時代ばかり生きた者は、どこかで平和な時代を生きる。
平和な時代を謳歌し続けた者は、どこかで争いの人生を経験させられる。

無名で過ごした人は有名に。有名で過ごした人は無名に。等々……。

必ずしもこのように極端な「反転人生」を送るわけではありませんが、変化が大き過ぎる場合はその落差についていけず、
「どうしてこんな人生になったんだ」
「思っていた人生と違った」
という感覚を持つことがあります。

たとえば私は前世で有名になるつもりはありませんでした。だから思いもよらない結果になった、という感覚を抱いていました。
逆に今世の若い頃は、「波乱万丈な人生になるはずだ」という感覚を持って覚悟をしていました。結果、笑ってしまうほど平穏無事な人生となりましたが……。
今世の始めはまだ前世の感覚を引きずっていたのだと思います。あの壮絶な竜巻の感覚がすぐに抜けるはずがありませんよね。
もし私がこのような自分の事情を理解していなければ、今世「こんな退屈な人生を送るはずじゃなかった」と言って神様を怨んでいたかもしれません。
これぞ少し極端な反転の例ですが、多かれ少なかれ皆さん変化があり、ついていけない場合はあると思います。

今、安定した人生を望んでいるのに波乱万丈となってしまい不本意な感覚を抱く人がいるなら、きっとこれまで長いこと安定した人生を送って来られたのだと思います。
この人生でようやく活動的に生きる運命で生まれて来られたのです。
波乱万丈を経験するための恵みの人生です。とてもそう思えないでしょうが、真実です。

ただし無理をしてキャパシティオーバーの苦労を背負うつもりはありませんよ。
専門家に助けてもらって苦しみを緩和するのも人生経験です。

また現世のトラブルは必ず現世的な方策で対処しなければなりません。
様々な方策をとり、現世的な対応をすることもまた経験を積むプログラムに組み込まれているはずです。
「人事を尽くして天命をまつ」です。
人事(人が行う現世的対処)で努力をしないで運命に流されるだけでは成長できないのです。

あの世の道理を学べば動じない心が養われますが、達観し過ぎで何もせずに流されるだけの運命論者も間違っています。
波乱万丈の人生こそ挑戦するために与えられた計画なので、自ら行動していく必要があります。

 

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【占星術で見る善悪】悪事をする者は未熟とは限らない。ゼロ地点と双極の話

 


占星術に関する回答です。
少し前にメールでいただいたテーマですが、ダークな話なので躊躇して書くのが遅くなりました。すみません。

ある殺人犯のネイタルホロスコープ


テーマ引用。青地箇所は筆者による加筆。ちなみに「先生」は筆者のことで、一般的な敬称としての「さん」の意味:
不意にネットで見てしまったそちらのニュースのせいで、先週久しぶりに精神的にズドーーンと落ちました。
あまり詳しくは書きたくありませんが、北九州連続殺人についてです。昔の事件なので知らなかったんですね。
…(略)…
先生がブログでヒトラー独裁者たちに書いている内容を思い出しました。でも私は先生のように俯瞰できず、何故同じ人なのにこのような酷なことができるのかと理解出来ず、同一視することで余計に苦しくなりました。

幼い魂ゆえの過ちなのかと犯人のネイタルを調べたらむしろ逆で、経験値を積んだホロスコープです。
経験値を重ねているのに、狡猾さや残忍性ばかりに磨きがかかっているようにしか思えません。もはや人間ではない存在、悪鬼のようです。
魂は、世界は、少しずつ良くなっていっていると信じていますし、それについて疑う余地はありません。
例外であるのも承知ですが、悪に傾けばとことんそちらに向かう有様を間接的に知りゾッといたしました。

北九州連続殺人事件。存じております。
あれは酷い事件でした、ニュースで耳にしても気持ちが落ち込む耐え難い話です。
よく言われる「トラウマ級の事件」と言えます。
(読者の皆さんへ。精神に悪影響を及ぼすショッキングな事件なので検索の際はご注意ください)

>幼い魂ゆえの過ちなのかと犯人のネイタルを調べたらむしろ逆で、経験値を積んだホロスコープです。

ホロスコープを見たところ確かに経験値の高い魂と思われます。

ただし数多くの転生で蛮行を重ねてきた者なのでしょう。
経験値が高いのは、蛮行に関してのみ。
「いかにして逮捕されず殺されもせずに蛮行を愉しむか」という一点だけで訓練してきた者と言えます。

……と、述べるのはホロスコープだけ純粋に見た占断ではありません。
あくまでも結果としての殺人事件を見て、ネイタルホロスコープと照らし合わせての推測です。

まあアスペクトにはある程度、蛮行をしがちな人の傾向というものが表れていますがね。
差別に繋がってしまうので具体的に細かくは書きません。
少しだけ所感を述べると、メジャーな複合アスペクトで「人格が歪みがち」「不吉」とされるあの最大マレフィックが多重である(オーブ広めの場合)ことは警戒して良い象意と思います。
そもそも全体にハードアスペクト、特に90度があまりにも多く、緩和するイージーが少ないことも蛮行へ傾きがちな性向を表していると言えるでしょうか。
そのうえに地のサインが圧倒で強いということは、地上に関する知性や他者をコントロールすることに長けるわけです。
宿曜は亢宿。亢宿とは本来、優れた改革リーダーとなり得る力を持つ宿なのですがその才能が完全に悪いほうで使われてしまいましたね…。
トータルで蛮行するために生まれてきたような人です。
この人が幼い頃に私が鑑定する機会があれば、親御さんへ「きちんと教育してください。甘やかしては駄目」と注意をうながすことでしょう。教育など無理かもしれませんが。

ただ、最大マレフィックをネイタルに持つからと言って全ての人が蛮行をするとは限らない。
むしろ人生の障害を乗り越えて偉人へ成長することもありますので、このようなネイタルを持つというだけで悪に仕分けすることはできません。
よって、ネイタルによる差別などというものは不可能なのです。

以前も書いた通り、残念ながらネイタルのホロスコープからその者の本性が善であるのか悪であるのか(蛮行をするか否か)を判断するのは不可能です。
不可能でなければならないのだと思います。
もしネイタルから善悪を判断できたら
「誕生時に殺処分」
という方策が採られかねず、それもまた一種のディストピア(恐怖社会)の実現となります。

かつてヒトラーのネイタルホロスコープに相当する年月日に、ある占星術師が
「この日に生まれた子供を警戒すべきだ! この日生まれた子供が世界を恐怖へ陥れる」
と叫んだという伝説があります。
(正確な引用ではありません、ニュアンスです)
その伝説も事実だったのかどうか定かではありません。


悪事をする者が全て「未熟な魂」とは限らない


>何故同じ人なのにこのような酷なことができるのかと理解出来ず、同一視することで余計に苦しくなりました。

いや、私も同じで苦しいですよ。
こういう「純粋に蛮行を好む者・本心から蛮行が正義だと思っている者」が同じ人間のなかに存在することが苦しく、恐怖でもあります。

他にも。
幼児に壮絶な拷問を与えて死に至らしめる親たち、それらの行為をニュースで耳にするたび心理的ダメージを受けています。
隣の大陸政府が行っている蛮行を聞くと、もっともっと苦しくなります。

人が人に暴力をふるう。
幼き子や無力な民をとことんまで拷問し、悲鳴を上げ苦しみのたうち回る様子を眺めて快楽を得ている者たちが存在する。
こんな行いが地上で起きていることが許せない。
「俯瞰」などで納得することはできません、納得してはいけないことだと思います。
(だから私も今、戦っているのです)

しかし原理は分かる気がします。
どうしてこのような者たちが地上に存在するのか。

蛮行を好む者も我々と同じ魂であり、決して「未熟だから」「低次元だから」というだけではありません。
未熟な者が欲望をコントロールできず犯罪に走ってしまう、という傾向は確かにあります。でもそれだけではない。
ニュートン氏の被験者たちは「全ての魂が善である。蛮行する者は肉体コントロールができない未熟な者だけ」と言っていますが、そうではないと私は感じるのです。

たいていのサイコパスは知能が低いことが分かっています。脳の障碍ですから当然です。
しかし稀に知能が高いサイコパスもいます。
上の殺人犯の経歴を調べたところ、幼い頃から学校の成績は良く「オール5(全科目最優等)」だったとか。
ショッキングな話ですね。知能が高い者のなかには善良な人も、悪い人もいるという。
このことからも、
「知能が高ければ人格も高潔で善良」
とは言えないし逆に
「知能が高い者は全て悪人の犯罪者」
とも言えないということが分かります。

〔参考〕サイコパス診断、筆者結果

経験値でも同じことです。
「経験値が高ければ全て善良」
「経験値が低ければ犯罪者になる」
と決めつけることは不可能です。


0から双極へ分かれる世界。この世はハブ空港


私が思うに、死後を含む全宇宙・全世界には0(ゼロ)という地点があって、それがこの地上に相当します。
(地上とは地球のことだけではありません。他の星を含む)

昔から言っているのですが「地上は善と悪とが交差するハブ空港」。
このゼロ地点を介し、魂はプラス(陽)かマイナス(陰)へ分かれて行くことになると思われます。
ゼロ地点からどれだけ離れたかによって、低次・高次が決まります。
つまり、善良なる天使に相当する「高次霊」もいれば、禍々しく強力な悪魔と呼ばれる「高次霊」もいるわけです。
悪魔のほうをあまり「高次霊」とは呼ばないので、「究極なる低次霊」と呼ぶべきなのかもしれませんが。

力としては陰陽、互角です。

だからこそやっかいで、地上の戦闘はやまないし悪事もなくならないのです。
特にこの地球のように波動の重いゼロ地点においては、常に悪の勢力と善の勢力が拮抗して戦い合っていると言われています。
「悪い魂など存在しない」
と高をくくって安心しているのは甘いと言えます。悪い者は相当に罪が深く危険なのです。
私が繰り返し
「性善説にも性悪説にも偏ってはいけない」
と述べているのはこの理由からです。

ただし善悪が拮抗するのもゼロ地点に近いレベルだけ。
いずれ地球の波動が上がれば、双極の対立が減り穏やかな人々がこの星で暮らすようになるのでしょう。

その時、悪事を重ねてきた「究極なる低次霊」の者たちはどうなるのかと言うと、地球よりもっと重く低い場所へ追いやられるかもしれません。
あるいは、「魂の処刑」に等しい解体を受けるのかもしれません。
実際のところは私にも感覚としてつかめず不明ですが、蛮行を重ねないほうがいい、ということだけは確かに言えます。

悔い改めるなら今のうち。
今このハブ空港で生きている間だけです。
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伊藤計劃『虐殺器官』感想。同時代に生き、虐殺を眺めた者としてのシンパシィ

しばらく前に読んだ本。
読んだ本をいちいち他人に報告しなくなって久しいが、これは公開で感想を書きたくなった。年が明ける前に書いておく。

(まとめず思うまま書きました。長いです)

作家の敬称略。

伊藤計劃、『虐殺器官』という伝説


『虐殺器官』は2007年に発表された伊藤計劃の小説。

伊藤計劃は2009年に34歳で早世した。
病床で10日間で書き上げたというこの小説は彼のデビュー作。SFの枠を超えた傑作であり、彼の死後も伝説として語り継がれている。

「ベストSF2007」国内篇第1位。「ゼロ年代SFベスト」国内篇第1位。(ウィキペディアより)
最近アニメ化され再び話題となった。

虐殺器官-ハヤカワ文庫


ストーリー


2000年代半ばの近未来。
9.11以降、世界の混乱はやまず、サラエボを始まりとして幾つもの都市が核で消失した。もはや「ヒロシマ」「ナガサキ」という地名は被爆地としての特殊性を持たなくなった。
しかし相変わらず先進国の人々は安定した社会を保ち、ドミノ・ピザをバドワイザーで胃に流し込む生活を送っている。死体の積み重なる光景よりも恐怖かもしれない、変わらない生活。

反対側の世界も変わらなかった。
発展途上国で女子供を巻き込む大虐殺が減るきざしはいっこうに見えない、それどころか2000年代半ばに益々増えていく。
ある時期から、それまで平和を保っていた小国の指導者が唐突に狂い、ジェノサイドを始めるという奇妙な内乱がいくつも起きるようになった。
アメリカ合衆国は虐殺を指導しているトップを暗殺することで途上国の平和を保とうとした。
合衆国特殊部隊員クラヴィスは、指導者暗殺の任務を帯びてある国へ潜入。軍人のトラウマを防止する心理操作技術によって、躊躇なく任務を遂行してきたクラヴィスだったが、ターゲットが死ぬ直前に吐き出した言葉を耳にして混乱する。
「わたしはなぜ殺してきた――たのむ、教えてくれ。なんで殺してきた」

軍部は途上国の唐突な虐殺全てに「ジョン・ポール」という名のアメリカ人が関与していることを突き止めていた。
長期の特殊任務でジョン・ポールを追跡したクラヴィスは、ついに彼と遭遇する。そして「虐殺の王(ロード・オブ・ジェノサイド)」たる本人から秘密を明かされる。

小説としての感想


ストーリーは面白い。先を知りたくなり読み続けることができる。SF好きに限らず、純粋エンタテイメントとして読むことも可能だと思う。
ただし設定は暗く描写は残酷、読む人を選ぶ小説ではある。冒頭から残酷描写があるので苦手な人は避けたほうがいい。

それでも、いわゆる「イマドキの小説」として想像するような、命の価値が過剰に低い世界観ではない。
むしろ淡々と描かれる殺戮描写が、声も上げずに消えていく命が、圧倒のインパクトをもって命の重みを押し付けてくる。

悲しみは言葉にされないことでさらに深い悲しみとなる。
悪と正義は示されないまま反転し、希望と絶望も反転する。

ある意味、現実そのままを写し取ったかのような小説である。
思想もある。もちろんその思想は「これが正義だ」といったような押しつけがましいものではないのだが。
内省的な主人公の淡々とした心理描写が現代現実の深層を抉り出す。時にその抉り出された深みが、目を逸らしたくなるほど痛々しく重い。

現代小説で久しぶりに遭遇した思想のある小説だった。
生々しく吐き出された文章に誠実さと、稀有な才能を感じる。


余計なことかもしれないが、才能称賛


まずこの小説を10日で書いたことに驚嘆する。
緻密でよく練られた設定であるうえに知識も深い。同時代の日本人であることが信じられない。
さらに商業目的に流れず、恥ずかし気もなく嘲笑されることも恐れずに、本気の内面描写で思想を描いている。
“文学からの逃避”を続ける同時代、同世代の作家では奇跡とも言える文学だと思った。

ストーリー性が高くエンタテイメントとしても純粋に面白い。だけど、それだけではない。血肉の通った人間の、考える臓器の詰まった濃厚な小説だ。
これが小説としての完全体だろう。
ようやく小説が内臓を取り戻した。
ようやく、これからだったのに。
日本の小説からこの人が失われたことは、つくづく残念だ。


個人的に感じていたこと



この小説を読みながら私は懐かしいと感じた。
懐かしい、と言うのは違うのかもしれないが、馴染みのある世界観に浸っていた。

夜中、テレビ画面の前で一人、死体野原の光景に釘付けとなった十代の日を思い出す。
白黒の映像に浮かぶ死体野原は静けさに満ちていた。
衝撃などの感情はなく、悲しみも怒りも表現されないまま、静かな涙だけが流れた。

死体野原へ馴染みを感じたのは古い記憶のせいなのか。
それとも今の人生で見せつけられた虐殺の光景があまりにも多く、脳に刷り込まれただけなのか?
今となっても分からないのだけど、これだけは確かに言えるのは、同世代の人たちで私の気持ちを理解した人が一人もいなかったということだった。

ニュース映像で浴びるように虐殺の光景を見せられてきた我々だが、誰も死体野原を「馴染みある」とは言わないし、あの静かな悲しみを感じていると思える人もいない。

それなのに伊藤計劃は同じ光景を、同じ気持ちで眺めていたようで驚いた。

冒頭文引用。
※残酷描写が苦手な人は避けてください

 泥に深く穿たれたトラックの轍に、ちいさな女の子が顔を突っこんでいるのが見えた。

まるでアリスのように、轍のなかに広がる不思議の国へ入っていこうとしているようにも見えたけれど、その後頭部はぱっくりと紅く花ひらいて、頭蓋の中身を空に曝している。
美しい冒頭文だと思った。
残酷な場面なので「美しい」と言うのは語弊あるのかもしれないが、これが冒頭にあることの完璧さが美しい。

赤と泥、色のコントラスト。現実と乖離した直喩。その後に現実が見えてきて、読者はこの小説がどんな物語なのかを察する。

小説の導入としての完璧さに驚いたが、それ以上に私が驚いたのは、この人は現実の虐殺現場をありのまま描いているということだ。
もう少し細かく視覚を描いていく。
――最初、それが何であるのか分からない。
何故あんな小さな女の子が泥へ顔を突っこんでいるのだという不思議さで視線を止める。
歩いて行く。対象が近付いて来る。
心の奥で警戒信号が鳴っているのだが、目を逸らすことができず、視点を止めたまま近付いて見る。
紅い花が鮮烈に目に飛び込み、焼き付く。
やがて状況を理解して現実のままの光景が目に映る。心が静止する。
辺りを見渡す。次々と凄惨な光景が目に入って来る。この時はもう遅い、目を逸らすことはできない。
熱い怒りや悲しみも、ショックさえなく、ただありのままを受け入れるしかないという静かな状況……。

この人は、現実に自分の足で死体野原を歩いたことがあるのだろうか?
それともアメリカ映画で観た光景や、第二次大戦の映像を思い出して描写しているのだろうか?
いずれにしても驚いたのは、彼が私と同じ気持ちで虐殺後の世界を眺めていたことだった。
その後、小説を読み進めるにつれ理解した。
彼もまた、あの画面から目を離せなくなった一人なのだということ。

同じ時代を生き。
同じ宅配ピザの届く安定した平和を味わい。
テレビ画面から流れてくる虐殺映像を、同じ気持ちで眺めていた人がいたことを不思議だと感じる。
決して「嬉しい」とか「ありがたい」などとは思わないことがまた自分でも不思議で。
ただ似た視点で似た世界の場所を眺めていた人が地上から失われたことだけ、残念に思う。

それと似た目で世界を眺めておきながら、ずっと
「言ってもどうせ理解されない」
「こういう分野の話は誰にも受け入れられない」
「戦争モノ、殺戮を描いているだけで有害指定される」
などと言い訳し、このジャンルの話を書いて来なかった自分の怠慢を呪う。
そもそも「小説家になるつもりなど微塵もない」と思っていて、夢など見ないことが真っ当なのだとさえ言い、書くことに背を向け訓練も怠ってきたことは猛烈に反省する。

こんなにも正直に自分の見ている世界を世に提供した人がいるではないか。
(私は一度だけ『我傍に立つ』では露骨なまでに正直になったのだが、以降は気持ちも労力もセーブしてきた。あれ以降、正直にただ好きなものを好きなだけ書くという行いができたことはない)
正直になることを恥ずかしいとずっと思っていた自分の卑小さが今は辛い。だらだらと生きて浪費した時間が申し訳ない。反省しなければならない。

人は生きて何を残せるか、限られた時間で挑まなければならないけど、伊藤計劃という人は残すことができたと言える。もっと残したかっただろうが一つでも残せたら幸運だ。
今、私が何を感じているかと言うと、「羨ましい」ということだ。
生まれて初めて他人へ嫉妬した。(嫉妬したことがない私にとっては有難い感情だ。ただし素晴らしいものを仰ぎ見るという清々しい嫉妬)


ジョン・ポールの発見を未来への提案として考えてみる


以下は小説感想から離れ、現実として設定を考えてみます。
ここから下にはネタバレがあります。未読の方は読まないように。




この小説はSFなのだけど、ジョン・ポールが発見した
「言語テキストの中に潜ませる虐殺を起こす構文」
は、かなりリアリティのある話。

現実にも、たとえば社会主義関連の思想書にはジョン・ポールの「虐殺構文」に近い魔力がある。
社会主義、K産主義は何故か100%人を暴力的にし狂わせる。社会主義に侵されて虐殺が起きなかった国・集団はない。
100%、という確率は驚異だ。
まさにジョン・ポールの技巧。
ポルポトはきっと呟いただろう、「わたしはなぜ人を殺したのだ?」
(スターリンは曹操と同じくサイコパスであり、いわば「虐殺の天才」。彼らのように元から壊れてしまっているサイコパスは生まれ持った本能に従うだけなのだが、社会主義思想が虐殺の後押しをして拡大させたのは間違いない)
これだけの実効力を持つ思想書が人類に与えられたのは不幸としか言えない。

しかし今後はもっと完璧で分かりづらい技術で人は操作されることになるだろう。

もしかしたら今でもAIを使えば可能かもしれない。
先日見つけた診断テスト、『テキスト文でAIが性格診断~Personality Insights 』ではすでに表層の言葉によらず、純粋な文の癖やパターンで性格タイプを見抜くという技術が示されている。
これはまだ研究段階で、今のところ選ぶ単語そのものも考慮されているから純粋なパターンとは言えない。
ただ、この研究が進んでもっと正確性を増せば、逆の展開をさせ
「ある一定の効果をもたらす文章」
というものも簡単に作り上げることができてしまうはずだ。

いや、今の段階でさえ。
「リーダーシップを持つ・人の心に訴えかける文」
という程度なら、AIが作成することは既に充分に可能なのだ。

この技術を悪意ある者が使ったらどうなるか?
ヒトラーのプロパガンダなど目ではない。
マルクスによる地獄の聖書も超える、“言語的転回”での虐殺指令書が完璧な形で現実化する。

既に第二次世界大戦以降、資本主義国のメディアはヒトラーのプロパガンダ技術をパクり、商業目的で使ってきた歴史はある。
誰も公では言わないが、ある程度のメディアによる洗脳はあると皆分かっている。
だから警戒心の強い人は政治的なスピーチを耳に入れないようにしているし、宗教団体にも近付かないようにしている。そうすれば大手メディアの洗脳はあっても、少なくとも極端な行いをする団体からは逃れることができると思える。
(それなのに悪意ある集団へ自ら近付いて教義を鵜呑みにし、騙されている愚かな鴨は大勢いるが)

だけど表層の言葉に関わらず、無害に思われるテキスト文にまで「虐殺構文」が潜むようになったらどう逃れたら良いのか。
「耳に蓋をすることはできない」。
人々が、自覚もないまま虐殺の狂乱に陥る、想像を絶するディストピアが実現する。


私は長年思ってきたけど、これと逆のことはできないのだろうか?
人を100%狂わせ虐殺に向かわせる地獄の聖書があるのなら、それと真逆に、100%穏やかな気持ちにさせて虐殺を抑えさせる構文が。

「虐殺器官」ではなく
「平和器官」や「生存器官」を発動させる構文。

残念ながら本物の『聖書』は虐殺構文に近い。
仏教は「平和器官」を発動させる可能性が最も高いが(ある紛争地域に仏教がもたらされたら殺戮がやみ、平和になったという実際の歴史がある)、先日のミャンマーの事例を見ると100%の効力とまでは言えない。

実は自分がいつか、その構文を書けたらいいなと思っていた。
素人のくせに大仰な夢だ。

当たり前のことだが、私のような素人よりも、言語学の研究者が調べたほうが遥かに早いと思う。
研究者の皆さん。どうか「平和構文」「生存構文」を研究されてください。

12/24続き。やはり魔術で平和を求めるのは駄目だという話。>>「平和構文」でも、やはり私は洗脳なしでいきたいです




メモ。

伊藤計劃『虐殺器官』より、気になった箇所を引用。
ぼくは、ことばそのものがイメージとして感じられる。ことばそのものを情景として思い描く。この感覚を他人に説明するのはむつかしい。要するにこれは、ぼくの現実を感じる感覚がどこに付着しているかという問題だからだ。何をリアルと感じるかは、実は個々の脳によってかなり違う。ローマ人は味と色彩を論じない、という言葉があるのは、そういうわけだ。
ぼくがことばを実体としてイメージできるように、「国家」や「民族」という抽象を現実としてイメージできる人々がいる。
P42-43


ことばに対する感覚、面白い。我々も言葉を見たり聞いたりした瞬間にイメージしているし、小説などではその世界を感じることができるけど、あえて強調して書くということはきっとイメージとは違うのだろうな。
おそらく自分と似たような、「共感覚」の一種なのだろう。
きっとこの感覚から作者は『虐殺器官』のアイディアを得たのだと思った。

忘却というものがいかに頼りないか、誰でもそれを知っている。夜、寝入りばなに突如遅いくる恥の記憶。完璧に思い出さずにいられるような忘却を、ぼくらの脳は持ち合わせていない。ひとは完璧に憶えていることも、完璧に忘れることもできない。
P71

本当に本当に、その通り。

「彼がよく言っていたわ……虐殺には、独特の匂いがある、って」
「匂い……」
「ホロコーストにも、カチンの森にも、クメール・ルージュにも、ぜんぶそれが張り付いてる、って。虐殺が行われる場所、意図された大量死が発生する国……そういうところには、いつも『匂い』があるんですって」
 虐殺の匂い。
 ジョン・ポールは過去の虐殺を調べているうちに、その匂いにたどり着いた。
「死体の匂い、とかそういうものじゃなさそうだね」
「そうね。彼なりの詩的表現なのだと思うわ。
P168-169


匂いか。分かる気がするな。

「眠りと覚醒のあいだにも、約二十の亜段階が存在します。意識、ここにいるわたしという自我は、常に一定のレベルを保っているわけではないのです。あるモジュールが機能し、あるモジュールはスリープする。スリープしたモジュールがうっかり呼び出しに応答しない場合だってある。物忘れや記憶の混乱はそのわかりやすい例ですし、アルコールやドラッグによる酩酊状態もまた、その一種です。こうして話しているいまだって、わたしやあなたの意識というのは一定の……こう言ってよければ、クオリティを保っているわけではない。わたしやあなたは、たえず薄まったり濃くなったりしているのです」
「『わたし』が濃くなったり薄まったり、ですって……」
 言葉の問題なのです、と医者は要った。「わたし」とは要するに言葉の問題でしかないんです、いまとなっては。
 (略)  どれだけのモジュールが生きていれば「わたし」なのか、どれぐらいのモジュールが連合していれば「意識」なのか。それをまだ社会は決めていないのだ、と。
P261-262


「わたし」を物の集合体として喩える。表現が面白いが、実存は絶望を呼ぶな。

 人間とは、ときに自分の命よりも、愛やモラルを優先させてしまうことができる、歪んだ生き物なのだ。利他精神で身を滅ぼしてしまうことのできる、そんな種族なのだ。
P290  


そうね歪んでるね。自分はその典型か。

 つまり、ここでは裏切りゲームがまだ有効なのだ。ゲーム理論的なシミュレーション・モデルの初期は確かに、愛他行為や利他行為といった特性を備えた個体よりも、いつも裏切って目先の利益を優先する個体のほうが生き延びやすい。モデルが複雑化するにつれ、そうした個体は淘汰されて、互いに協力関係にあり、互いを利する性格の個体による集合が増加し始めるが、この大地では複雑性がそこまで進行していないのだ。
 かつてはそうではなかったかもしれない。だが、この大地の倫理コードは、どこかの時点で一旦リセットされてしまって、シミュレーション・モデルはまだ充分な複雑さを獲得できない状態にとどまっているのだ。
P356


まさに現代はそういう状況。完全にリセットされてしまっている。しかも人口が増えているので大規模な悲劇が繰り返される。
我々が「古代」と呼ぶ世界は本当に古いのか、今いる時代のほうが野蛮へ逆行しているのではないか?

 われ地に平和を興(あた)えんために来ると思ふか。われ汝らに告ぐ、然らず、反(かえ)って分争うなり。
P359


聖書の一節を引用。
ジョン・ポールをキリストに喩える場面。

 世界はたぶん、よくなっているのだろう。たまにカオスにとらわれて、後退することもあるけれど、長い目で見れば、相対主義者が言うような、人間の文明はその時々の独立した価値観に支配され、それぞれの時代はいいも悪いもない、というような状態では決してない。文明は、良心は、殺したり犯したり盗んだり裏切ったりする本能と争いながらも、それでもより他愛的に、より利他的になるよう進んでいるのだろう。
 だが、まだ充分にぼくらは道徳的ではない。まだ完全に倫理的ではない。
 ぼくらはまだまだ、いろいろなものに目をつむることができる。
P382



ここで終わればリアリズムを保つことができたのだが、終わり方は陳腐だった。
わざとなのか文学に走る勇気がなかったのか、陳腐な商業エンタ-テイメントに逃げた。
でも陳腐なラストをこそ多くの現代人は「リアリズム!」と称賛するのだろう。そんな現実にこそこの物語の本当の結末が描かれていると思う。


伊藤計劃が亡くなる直前まで更新したブログ
伊藤計劃:第弐位相 

 

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二流の読書でバカになる? 広く浅くの雑読を後押しする、嬉しい言葉

東洋経済サイト⇒読む本でバレる「一生、成長しない人」の3欠点  「二流の読書で、バカになる人」も大勢います

この記事が「一流」や「二流」などと格付けしていることについて私はどうかと思うし、コメント欄を見ると同じ意見の批判が多い。
ただ、「一流」「二流」をビジネス的な地位や富ではなく、単純に教養の質と考えれば、当たっているところもある。
特に海外の読書人の読み方には共鳴する。

ただし、世界の一流の人を見ていて感じるのは、「優秀な人に限って、読書は肩肘張らず、気の向くまま好きなものを読むのが基本」ということである。

読書だからといって、毎回勉強になるものを大真面目に読む必要はない。大切なのは、「楽しく活字に親しむ習慣」をもっているかどうかだ。
適当に読んでいる雑読派の自分としては嬉しい。
「お前のことじゃないよ」と言われそうだが、勝手に喜ぶ。笑

>毎回勉強になるものを大真面目に読む必要はない

そう。
読書は勉強のためだけにするものではない。

自分は浅い教養しか持たず、とうてい世間の基準に追いつかないのだけど、読書の方向性は間違っていないのだなと感じて自信が持てた。

好きな本だけ読んでいるわけではないが


上記事から引用
その証拠に、私が尊敬する一流のリーダーたちには、じつはそこらへんの漫画や週刊誌を読んでいる人も驚くほど多い。

私も駆け出しのころ、「無理して『フィナンシャル・タイムズ』を読まなくてもいいよ。俺が隣にいなければ、どうせ『週刊SPA!』の袋とじの部分を、一生懸命切り裂いているんでしょ?」と尊敬する上司に言われたことがある。

その上司は業界の中でも高名な伝説のディールメーカーなのだが、読んでいる雑誌がいつも『ヤングマガジン』や『少年ジャンプ』、そして『週刊SPA!』なのだ。

もちろん、雑誌ばかり読んでいるわけではなく、しっかりした本もきちんと読んでいるが、「緊張と緩和」をうまく使い分け、週刊誌や漫画もバカにすることなく自然体で楽しんでいる。

世の中には「売れている本」「話題になっている本」ばかりを追いかけて読む人もいるが、一流の人ほど、「これはいい」という自分なりの価値観があり、その「主体性」に従って、自分が好きな本を堂々と読んでいるものである。

ああ……、「気の向くまま」「適当に」読んでいる雑読の人は好きな本だけ読んでいるわけではないが。
肩の力が抜けているために、傍から見ると「好きな本だけ読んでいる」と誤解してしまうのかもしれない。
(差別なく何でも読むので、中には嫌いなものも含まれる/思い入れがさほど強くない、肩の力を抜いているからこそ何でも読める。私だったら村上春樹など、苦手な本もけっこう読んでいる ※ただしどうしても読めない悪質な本はある)

この人の誤解はともかく、観察されている側の雑読者に私は共鳴する。
何故、読み物のジャンルを統一しなければならないのか理解できない。
マンガでも哲学書でも価値を見出す。そうでなければ活字中毒者ではないでしょう。

私は実は、売れている本・話題本ばかり追いかけて読んでいる人が苦手だ。
とにかく他人の目だけ意識して本を読む人が苦手なのだよね。
それは“他人軸”の読書。「見せ読書」は明らかに活字中毒者ではない証拠だよな? と思う。

ツイッターの読書垢なども、始めは楽しかったのだがそのうち苦手になりやめた。それは「見せ読書」をしている人が多いと気付いてしまったからだった。
中にはそうではなく真性の本好きもいたのだけど、
「読書しないでスマホ見てる奴は軽蔑する!」
などと激昂している人がいて退散した。

読書しない他人を責めている時点で中毒者ではないと思う。
自分が見せ読書しかしていないことの証。

専門家即バカというわけではない


くれぐれも自分の仕事分野の話しかできない「専門バカ」、周囲から広い教養がないことを笑われているが本人だけがそれを知らない「裸の王様」、そして自分の専門分野に閉じこもって空威張りする「オヤマの大将」になってはいけない。

特定分野に特化した知性ではなく、幅広い教養や人間としての品性を読書によって磨くことが、一流の政治家にとってもビジネスパーソンにとっても重要なのだ。
うーーん??
これはどうだろう。必ずしも「専門バカ」をバカにできないとは思うけどね。
私は、一つの分野に突出した専門家を激しく尊敬するけれども。

そもそも何かの分野に秀でていない人は、他の分野のことも理解できないはず。
どこかに軸足を持つからこそ他の場にも足を踏み出せるのでは?
専門の浅い自分故に言える。

だいたい、専門家がどれだけ深い知識を持っているか分かっているからこそ、他人の専門分野についての話は遠慮する。
だからこそ他所では無口になる。
それが分をわきまえるということでは。
ワイドショーに出て浅いコメントを述べているコメンテーターのようにはなりたくない。

問題は、「反社会的バカ」のほう

【2】自分の偏見を助長する「二流の読書」をしない

なお、読書をしながら、視野がどんどん狭まっていくような「二流の読書」をしている人も少なくないので注意が必要だ。

読書で重要な要素のひとつは、視野・視点を広げることだ。これに対し、二流の人に限って、マニアックな特定分野の、自分の偏見を助長してくれる著者の本ばかり読みたがる。こういう「二流の読書」では、読書量が増えても、自分の視野を狭め、偏見を増長させるだけだ。

もちろん「各人が好きな本を読むのが基本」でいいわけだが、知性を磨いていくためには、自分の意見や価値観とは相いれないものも含めた「多様な情報源」を確保するのが不可欠といえるだろう。
これは正しいでしょう。
その人たちは「専門バカ」でさえなくて、思想的な主義を強めるためだけにその思想の読書をしている。宗教信者が、その宗教団体の教義だけ読んでいる状態。
そんな偏った読書をしてバカになっている人を最近よく見かける。
新聞や新書しか読まない人に多い。
彼ら彼女らには理解力もないし、カルト宗教信者のような思考停止に突き進む。

最後に、「一流の読書」にとって最も大切なのは、「書かれたことの一部を読んで批判したり、自分の都合のいいように曲解したりしない」という「まともな知性・メディアリテラシー」を持つことだ。

世の中には、書いてあることを文字通り信じるどころか、そもそも全体を理解できず一部にだけ反応して、自分の都合のいいように解釈し、批判する二流の人は思いのほか多い。

そうそう。
「二流の人」ではなく、思考停止で理解力をなくしてしまい、単語だけに脊髄反射して攻撃するプログラムのポンコツロボットね。二流にも三流にも入らず、使い物にならない反社会的人物。

この記事は序列をつけていると言うよりも、「反社会的バカども」と言いたかったところを、かろうじて言葉を抑えているという感じだな……。


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憑依と転生の違いとは? 尾崎豊の専属イタコ、「慶くん」を観察して分かること

 この間、『アウトデラックス』を家族が観ていた。
私はこの番組を普段は観ないが、疲れていたので本を読んだりPCに向かうことができず、たまたまテレビ画面を眺めていた。
すると登場した女性の予想外の話に引き込まれてしまった。

イタコ? 霊能力? それともご本人が言うように勘や偶然?? 

彼女は特殊な体験をしただけの人であり、その内容の真偽はともかく嘘はついていないと思ったのでご紹介。

(この記事では芸能人について敬称略)



塙一族の“最終兵器”登場


この番組をご存知ない方のために説明:
これは「アウト」な人たちから話を伺い、我々の狭い価値観を広げていこうというコンセプトの番組。
この番組で言う「アウト」とは、世の中であまりポピュラーではない変わった趣味を持つ人だったり、独特の感性を持つ人たちのこと。
決して本当に「アウト(駄目)」なわけではなく、際立ったキャラクターをお持ちという意味なのでこの番組に登場して人気者になる人もいる。たとえば、有名どころでは棋士の「ひふみん(加藤一二三)」など。

今回は芸人の塙(はなわ)兄弟が登場。
「うちの親族の最終兵器を紹介する。(非常にアウトなので)“あの娘だけはテレビに出さないで”と親族に言われているが連れてきた」
とのことで、どんな変わり者おもしろキャラが登場するのかと興味を抱いた。

塙兄弟が「慶くん」と呼ぶと、若い男性が表れた。
華奢で小柄な男性。
しかし古風な雰囲気を持っている。服装や髪形は、まるで80年代のホストかミュージシャンのよう。その時代に憧れている青年なのか?

でも、塙たちが親戚の話を述べた時、「あのこ」と言うテロップが「あの娘」となっていたのが引っ掛かった。
娘? ということは、元女性なのかな。
性転換した人か。

思った通り、二人のお子さんをお持ちのお母さんだとのこと。
年齢は意外にも塙たちより年上の四十代半ば。若く見えるのは元女性だからだろう、と思った。
(女性が男性へ性転換すると若く見えるもの。たいてい肌が元々の男性より綺麗だし、華奢だから)
本来は料理や日本舞踊などが得意な女性らしい人で、家族自慢の良妻賢母だった。

「ふーん。子育てが一段落したから、それまで我慢していた性転換を果たした人なのだろうな」などと勝手に物語を推測していた。
だとすれば数は少ないけどめずらしがるような話でもない。
ただ、登場した時から慶くんはキョトキョトと辺りを見回し挙動不審なので、たぶん相当の面白キャラなのだろうと考えた。それでテレビに呼ばれたのだろうと。

でも、彼女が番組に呼ばれた理由の「個性」は想像を遥かに超えるものだった。


尾崎専属イタコ!


あるいは尾崎専用イタコ。(シャア専用ザク、みたいな)

なんと慶くんは性転換した人でも何でもなくて、「尾崎豊」に憑依されて(本人は憑依ではなく「勘」と称している)男性風のいでたちをしているだけという。
言われてみれば尾崎豊の服装・髪型に似ている。だから古風だったのか。

またまた……痛い妄想家のご登場ですか?
と周りが警戒しつつ耳を傾けていると、よく見かける妄想家の語り口とは全く違い、体験した事実をしっかり語り始めた慶くん。
塙兄弟がサポートして明らかとなった話の内容は、「偶然」と片付けるのがとても困難なものだった。

慶くんの体験については、こちらのサイト様が詳しく書き起こされているので読んでみてください。
 ⇒庶民アラフォーまめちねっと さん https://mamechi.net/geino116(リンク切れ)

私が信ぴょう性を感じてゾクゾクしたのは
 ・尾崎豊の奥さんに偶然二回も会った。電話番号を聴いた時、「アデランスの電話番号とか教えるんでしょ?」と言ったら奥さんが驚いた。奥さんは、尾崎豊と初めて会った時にアデランスの電話番号を教えたという。(アデランスの番号を教えるなど今どき思いつかない。そもそも電話番号を教え合うということが今どきない…。普通はラインなどのSNSだろう)
 ・慶くんは奥さんを自然に「しーちゃん」と呼んでいた。夫婦二人だけが知る呼び名だった。
 ・慶くんは尾崎豊の親友(一般人)のあだ名を言い当てた。尾崎が背後から?教えたらしい。
等々の具体的なエピソード。

始めは際物を期待する目で眺めていたタレントたちが、次第に真剣な表情になっていき、スタジオが静まり返っていく様子が面白かった。
タレントの皆さん「これは本物」と思ったに違いない。
最後だけはかろうじて、マツコらが「アウト!」と認定しジョークに変えていたが。

私自身も、見ていて「これは本物」と思った。話の内容が事実かどうか(現実と一致しているかどうか)は別として、彼女は嘘をついていないと思う。

生まれて初めて本物のイタコを見たという想いで、ちょっと楽しかった。
何と言えばいいのか、伝説の生き物を見た感じ。ツチノコのような。
「昔は確かに本物のイタコが存在したんだな。こういう人がいたからイタコの伝統が生まれたのか」と思わせてくれた。
(恐山の職業イタコのおばさまたちへ本当のリアリティを求めている人は少ないと思う。イタコは精神を慰めてくれる職業、言わば葬式でお経を上げてくれるお坊さんのような役割として価値が認められる。でもかつては正真正銘、本物のイタコが存在したため生まれた職業なのだなと実感した)

しかも尾崎専属ゆえに、他人には需要がなく、誰一人イタコとして彼女を崇めていないのがまた良い。笑
なおさら本物感があって面白い。
ゆえに分析のサンプルとして観察させていただいた。


本物のイタコかも、と思った理由


私が彼女を「本物だ」と思ったのは以下の理由。
 1.この番組上の話に限れば矛盾点はない。(現実との食い違いは家族や警察でなければ分からないので、あくまでもその場の話の内容だけで矛盾点を考えている)
 2.元々の慶くんは尾崎のファンでも何でもなく、長渕剛のほうが遥かに好き。(つまり尾崎のファンゆえに妄想が高じて寄せて行った人ではない)
 3.「尾崎から逃げたかったが逃げられなかった」と言っている。
 4.あくまでも「勘だから」「偶然だから」と言い張る。どこが偶然だよ(笑)と誰もが思う状況であるのに。
 5.聞かれたことについて決して、はぐらかさない。分からないことは「分からない」と言い、分かることや実際に体験したことは具体的なエピソードをもって明確に答えている。

1の「矛盾点はない」に関しては、尾崎氏ご遺族が全面協力したうえでの、テレビ局による完全創作でなければという前提だが。
しかしテレビ局スタッフが作った話なのだとしたらあまりにもよく出来過ぎている。創作だとすれば褒めてつかわす。

何よりのリアリティは、


 3「尾崎から逃げたかったが逃げられなかった」
 

という言葉。
そして


 4「勘」「偶然」と言い張る
 

こと。

上のリンク先記事では、「テレビ的に霊感と言えなかったのだろう」と書かれているが、そうではないと思う。テレビ局としては霊感と決めつけて話をしたほうが面白いから、嘘でも「霊感」と言う番組のほうが多いはず。
「勘」「偶然」との言葉は慶さん本人の言葉だと思う。

何故そう思うかと言うと、やはり私と同じであるから。
私も未だに「偶然」という言葉を使って逃げたくなる。

「逃げたかったが逃げられなかった」との言葉も完全に自分と同じで、涙が出てくる。
私の場合は「代弁者になれ」と言われ浮遊霊に操られるケースと違い、本人視点であるので、周り(オーディエンスと呼んでいる霊たち)が「自分を認めろ」とうるさく言ってくるわけだが。

「ファンというわけではなかった」ところも同じ。
私も他人であれば本当に興味が無いし知ったことではない。どちらかと言えば苦手で嫌いなジャンルだから、どうか勘弁して欲しかった。(今はもうそんなことは思っていないが)

それと、「はぐらかさない」点も自分と同じかなと思った。
真実どうだかは知らないが、自分が分かることはそのまま伝えている。分からないことは「分からない」と言う。特に嘘をつくつもりはないので普通に答えればいいだけと思う。
だいたい事実の真相と食い違っていたところで、生きている間の本人でさえ記憶違いがあるので間違っていても構わないと思っている。
たとえば死の真相も本人には、はっきりと分からない。生きている皆さんは病気になった時、自分がどうして具合が悪いのか明確に分かるか? 病院に行って診断してもらわない限り病名は分からない。ただ、死に至るまでの状況は分かる。

嘘をついて
「私には〇〇の霊が降りている」
「我は〇〇の生まれ変わりであ~る」
などと言っている詐欺師は、笑えるほど質問をはぐらかすのでよく観察して欲しい。
前も書いたけど、そういう人には裏付けるような具体的な体験談など何もない。神様か霊に「名前を囁かれた」とか「お告げを受けた」と語るだけだ。
体験談があると言っていても、「そのうち話す」と語るだけで永久に具体的な話をしてこない。まるで「あるある言いたい」と言って最後まで言わない芸人のギャグのよう。

間違っていようと信じてもらえまいと、体験談があるなら話せばいいのだ。話すべきだ。
嘘をついていないのなら、今の自分の体験したことくらい話せるはずだ。

――と。
結局、私は同じ神秘体験者として細かい点が自分と一致していたから、「彼女は本物」と考えた次第。
もし自分が体験者でなければ、「偶然」と本人が言っている体験を分析するだけとなるが。それでも不自然な点はないと思った。

 関連記事: 有名人の生まれ変わりが空想や「コード」である場合【診断チェック】

憑依と転生の違い


今回、本物のイタコを観察できて面白かった。

それではっきり分かったことは、やはり「憑依(霊にとり憑かれること)」と「転生(過去に死んだ人が新たな肉体で生きている状態)」は違うのだ、ということ。

 憑依 = 憑依された時点でキャラが変わる(性格、仕草、好みの変化)
 転生 = 生まれた時からキャラの変化はない(環境で変化する要因がある場合を除く)

前も書いたが私も、自分の体験について「憑依」を疑ったものだよな。公開でも詳しく書いた:前世記憶は脳による作り変えなのかどうか、続き。自分の場合
できれば「憑依」であってくれと願った。代弁者だと言ったほうがラクだ。責任を負わなくて良いし。

今もまだ憑依現象かもしれないとの疑いは完全になくしていない。でも残念なことに私は生まれた時から一度もキャラ変をしたことがない。多少の変化はあっても、本質はずっと同じ。嫌になるほど変わらない、変われない。変わったように見えたはずの思春期は意識的に演技していただけだ。
食の好みも幼児期から一切変わっていないらしく、この前も一緒に食事をしていた母に「小さい頃と同じ!」と笑われた。

この通りだからもし私の体験が「憑依」だとすれば、本当に生まれる前からということになる。
で、生まれる前からだとすれば「転生」と何が違うのか……。という自家撞着に陥るので、今の時点では「転生」に落ち着くしかない。

そんな感じで。

私としては最近、楽しんでいるし、どちらでもいいと思っている。

ただ「どちらでもいい」とは思わないのが他人であって、特にファンの方々。
私の場合は対象がほぼフィクションのようなものであり、ファンの方々もたいていフィクションしか見ていない。だからファンの方々とこのリアル世界は接点がなく、私とも異次元の住人同士だから平気なのだが。(つまり私はファンたちに完全無視されているという意味。おかげ様で無事。笑) 

「尾崎豊の代弁者です」と言う人が出て来たらファンは穏やかではいられないだろう。
尾崎は皆が実物を知っているので、これから慶さんは大変だろうな。


それにしても、最近は現実にこういう体験をする人が増えていないか? 私も含め。
魂や死後世界というものを、あの世の方々が地上で認めさせたがっているのかもしれない。
そろそろ、死後世界を必死で否定したがっている者たち(=永遠の個性が与えられていないため死を怖がる者たち)がどれほど叩いても否定しきれなくなってくるだろう。
これも時代の転換期にある証か。


追記。「慶くんは統合失調症」と断じる人は洗脳されやすいタイプ


やはり、安易に彼女を「統合失調症」と決めつける論調がネットに溢れているらしい。

まあ病気の可能性を考えるのは良いことで、彼女も一度病院に行って診断すればいいのではないか?とは思う。でもたぶん違うだろう。
 ※ちなみに私は「統合失調症ではない」との診断を病院で受けています

幽霊が見える、知らない記憶情報を語るといった人を全て「統合失調症」と呼ぶ人は、考えなくて済むからラクでいいな。
しかし何でも「統合失調症」で済むなら精神医なんか要らない。

すぐに「統合失調症」と言いたがる人は、よほど病気に関して無知なのだろうと思う。
現実に統合失調症の人はあのようにテレビに出てまともに他人と会話することはできない。
発症からしばらく経っており何ら治療せず放置していれば、会話することも食事もままならなくなってくる。外に出て社会生活を送ることはまず不可能。また他人が見てすぐに「おかしい」ことは気付くので、テレビ出演など無理だろう。

さらに「統合失調症」で片付けている人たちは前後の情報をカットして、結論ありきで自分の思い込みを断じる傾向がある。
参考ブログ: https://outidesigoto.com/archives/20432
自分が尾崎豊だというエピソードが語れるのは、尾崎豊のことを調べ過ぎてしまったからかもしれませんね。

彼女ははっきりと「自分は尾崎豊について何も知らなかった」と言っているけどね!笑
また、尾崎豊の情報に詳しいファンであっても知りようがないプライベートの話を知っていた。
こういった情報は自分の結論にとって都合が悪いから脳内でカットしたのか? それとも短期記憶の保存ができない健忘症か。
このブログ主のほうが認知症の疑いがあるので、病院で一度脳を検査してもらうべきと思う。

物事を決めつけがちな人は結論ありきで偏った判断をする。脳内で情報をカットしてまでも。
それは実は、悪徳宗教やセミナーに洗脳されやすい性質だから気を付けたい。
(スピリチュアル好きが洗脳されやすいという話は嘘で、実はこのように浅い知識で物事を断じる・都合の悪い情報を脳でカットする傾向のある人が洗脳されやすいのだ。だから過去に頑固な唯物論者だった人が狂信的なカルト信者に転向することが多い)

私も彼女の話を手放しで信じるわけではない。
あくまでも、得られた情報を全て事実と考えた場合に矛盾がない結論を選び取っているだけ。
反対の情報(たとえばテレビ番組を盛り上げるために嘘をついたいう明らかな証言・証拠)があれば反対の結論となるだろう。

要は反証する情報が無い限りは「有り得ない」と最初から結論すべきではないということ。
そもそも「有り得ない」と言うことにこそ根拠がないのだから。

 

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「憎まれっ子、世にはばかる」という真実。人の亡くなり方について

 


 

 ブログ更新が滞って申し訳ないです。近親者が急逝したため長文が書けなかったものです。

こんなプライベートなことを書くべきではないと思って控えていたのですが、その人の亡くなり方があまりに見事で広くお伝えしたくなりました。


病院嫌いの義父、癌なのに一切治療を受けず自宅で逝く


亡くなったのは義理の父です。

「義父」という表現をすると一般的には結婚相手(配偶者)の父親を連想するようですが、今ここに書いているのは実母の再婚相手のことです。
(前に亡くなったのは配偶者の親。養父も「義父」という表現をしますし、日本語は難しいですね)

五年前、呼吸困難となり救急に運ばれて危篤となり、「手術中の自分の体を天井近くに浮かび上がって眺めていた」という臨死体験を語ってくれた人です。→死の後、数日間の話にて
あのときは生還しましたが今回は旅立ってしまいました。

半年前から食が細くなり急激に痩せはじめ、誰の目にも長くないのではと思えるほど体が衰えていったのですが、私たちが
「大きな病院で検査しろ」
と言っても病院嫌いの彼は聴く耳を持たず。
重い腰を上げて検査したのはようやく先月のことでした。

それで全身検査の結果、癌が発見され、既に三か所へ転移していることが分かりました。
医師もまだ全貌が見えていなかったようで明確な告知はされなかったのですが、末期ではあったのでしょう。

7日から入院の予定だったのですが、その直前に急逝してしまったものです。
最後の日の数時間前まで意識がはっきりしており、家族と会話もでき、自宅のベッドで眠るように亡くなったことは幸せだったろうと思います。

その日、義父にしてはめずらしく「プリンが食べたい」とリクエストして、母がコージーコーナーでプリンを買って来ました。
少し食べた後、
「ちょっと寝る」
と言って寝室へ。
数時間後、彼が息をしていないことに気付いた母が救急車を呼びました。
私は仕事中に「彼が死んじゃった」との狼狽した母の電話を受けて駆け付けたのですが、あまりにも急なことに信じられませんでした。その前日には会って会話していたからです。声は弱かったものの、目には意思の輝きがあって普段通りの彼でした。
弟も当日の昼に電話したとき彼の元気な声を聴いています。だから弟に電話で知らせた時、やはり信じられなかったらしく数秒黙った後、「嘘でしょ?」と言っていました。

自宅へ帰って来た義父は、体は冷たくなっていたもののやはり眠っているかのようでした。
ベッドに寝ているといつ起きてもおかしくないと思ってしまう。つい、亡くなっていることを忘れてしまいそうなほど、死が非現実的に思えます。



究極の、「我がままではない人」の亡くなり方


義父が急逝したのは思うに、入院したくなかったからかもしれません。

「入院が嫌だったから死んじゃったのかもよ?」
などと私が言うと、「あの人らしい」と言って義父を知る人たちは笑います。
しかしこれは冗談。
本当は自分の我がままで病院から逃げたわけではなく、家族のために逝ってしまったのではないかと感じます。
おそらく、お金のことや看病で家族に迷惑をかけることが嫌だったのではないかと。

とにかく我がままを言わない人でした。
長年ずっと他人に親切ばかりしていましたが、自分自身は誰かの手をわずらわせることを厭いました。
具合が悪くて歩くことさえままならなかったのに、診察のために病院へ車で送ってもらうことも断っていたという徹底ぶりでした。

癌だったのだから相当に痛かったはずだし、苦しかったはず。
しかしその苦しみを訴えることもありませんでした。
「大丈夫」が口癖。
亡くなる前日でさえ、電話した弟に「大丈夫だよ!」と叫んだというのだから驚いてしまいます。

その「迷惑をかけたくない」という気持ちが死さえもコントロールし、入院する直前に逝ってしまったのだと私は悟り、感動して震えました。

行き過ぎた強がりは、家族としては寂しいものがあります。
もう少し助けを求めて欲しかった。手助けしたかった。
しかしこれは彼なりの生き方の美学を貫いた結果だろうと思うので、責める気持ちはありません。

他人第一、自分は後。
我がままを言わない。迷惑をかけない。

そんなポリシーを徹底した美しい去り方に、感動を覚えるとともに深い尊敬の念を抱かずにいられませんでした。
このように稀有な魂を持つ人と縁を持てた自分は幸せ者だと思います。
心から、「ありがとう」と言いたいです。


死にざまは人柄を映し出す


昔から言われていることに、
「死にざまに人生が反映される」
というものがあります。
悪いことをした人に「お前は、ろくな死に方をしないよ!」という言葉を投げるのは、この考えから来ています。
反対に善人は安楽に死ぬものだと考えられているわけです。

現実には必ずしもそうとは言えず、善人が虐待・拷問に遭うなどして悲惨な死に方をすることはよくあることです。むしろそのほうが多いかもしれない。
いっぽう犯罪者がのうのうと生きて楽な死に方をすることも多く、その理不尽さに怒る人もいるでしょう。

実は立派な人は自ら苦しみを選択する傾向があります。
反対に我がままな人は苦しみを避けるので、安楽に生きて安楽に死ぬことが多いと言えます。
だから、悲惨な死に方をした善人に「裏では悪いことをしていたのかも」と思うのは間違っています。それに差別的でもあります。

ただこのたび、義父の美しい死を目の当りにして思い知りました。
「死に方(死因)」に人柄は関係ないが、「死にざま」は確かに人柄を反映するのだと。

我がままではない人は、できるだけ他人に負担をかけまいとするので、ぎりぎりまで苦痛を我慢して急逝してしまう。こういう人が早死にの傾向があるのも、ストレスを自分だけで何とかしようとするから。理屈でも当然だと思います。
いっぽうの我がままな人は、たいした病気ではなくてもグズグズと苦痛を訴え、長いこと他人に迷惑ばかりかけて死んでいく傾向があるように思います。

「憎まれっ子、世にはばかる」(=善い人は早く去ってしまう)
ということわざは、この意味で真実なのだなと実感しました。
昔の人は現実を眺めて的確に真実を述べていたようです。


死に際の美しさと、死後


死に方によって死後どのような次元へ行くのか、スピリチュアル的なことは私には分かりません。

ただ自分の体験を述べるなら、我がままではない生き方をしたほうが死後も幸福な心地でいられると思います。

義父のように美しい死に方をした人が、あの清々しい青空の世界へ旅立つことは間違いないでしょう。

(こう信じたいだけかもしれませんが。今の義父が幸福な次元にいることを私は強く信じています)
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正確なサイコパス診断(結果)

 


 心理テストサイトを眺めていたらこんなテストを見つけました。

これはネットに流れているテストのうちでもなかなか専門的で、高度なのでは。ロールシャッハで診断されます。
 ⇒〔精神健康診断〕正確なサイコパステスト

筆者結果、貼り付けておきます。


 


 笑……

「あなたはサイコパスではありません。」

あなたはサイコパスではありません。一般的にサイコパスは、反社会的精神病が内部に潜在していることを言うのですが、 あなたの場合は本当に純粋で、明るい内面を持っています。自分の内面に耳を傾けながら、これを基盤に行動をする言行一致を実現しています。 社会性は非常に優れているので、他人の大変で難しいことにも一緒に痛みを感じてあげる人間的な姿、いや人間そのものです。

ヒューマニズムに満ちたあなた。明るい魂の持ち主ですね!
結果をシェアして、タグを通してサイコパスの友達がいるか確認してみよう。

笑って力が抜けました。
自分では、もう少しダークな一面も持っていると思ったのですが全然無し。なんだかパカっぽい※。笑
でも安心しました。

2021/7/17再受診(別館)

※現代のフィクションでは一般的に「サイコパスは高知能」と描かれるので、反サイコパスだとバカだと思われそうで怖い。しかし現実には彼らは、それほど高知能でもないそうです。→サイコパスや犯罪者の知能

【診断系サイトご利用の際のご注意】


 

 

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魂が記憶しているもの、肉体が記憶しているもの(前世記憶について再考)

 

久しぶりに輪廻転生に関する話。
医学的な話ではありませんので雑談としてお読みください。

記憶喪失の花嫁


家族が観ていた番組、『さんま・玉緒の夢かなえたろかSP』で記憶喪失の女性(丸山さん)の話を見かけた。
丸山さんは交通事故に遭い、「解離性健忘症」を患ってしまったという。
家族や恋人のこと、人生で起きた出来事の全てを忘れてしまったのだが、トイレへ行くなど本能的なことは覚えていて日常生活に支障はなかったらしい。

大変だったのは朝起きるたびに記憶がリセットされること。
そして何より辛いのは、「感情」を失ってしまい、誰かを好きだとか嫌いだとかの気持ちがなくなってしまったことだった。このため結婚式間近だった恋人への愛情があるのかどうかも分からなくなってしまった。

後に回復して感情が蘇り、記憶もその時点から蓄積されるようになった。
事故後の丸山さんを献身的に支えた彼氏へまた恋をしたので、彼女のほうから「結婚してください」とプロポーズした。

彼女が事故に遭って自分のことを忘れても愛情を失うことなく、尽くし続けた恋人の健気さ。「あなたに二度、恋をしました」とプロポーズする彼女の言葉があまりにも感動的で、まるで映画のよう。
ヤラセでなければいいな……と思ってしまった私はやはり心が汚れているのか? 笑
それくらい稀有で素晴らしい愛の話だった。

テレビ番組だからもしかしたら多少の演出はあるかもしれない。でも核心のところは真実だと思う。
特に、「解離性健忘症」の症状はリアリティがあり本当の体験者の話だと感じた。


体験者の話で、気付いたこと


彼女の症状を聞いていて私が興味深く思ったのは、なんと
 記憶している事柄がちょうど前世記憶と正反対
であること。
 
前世記憶には以下のような特徴がある。
・映像イメージが強い
・感情の記憶が強烈に蘇る
・「何を経験したか」というエピソード記憶はあるが、「いつ、どこで」という経緯の詳細までは分からない
・人の名前は一切蘇らない(呼んでも呼ばれても聞き取れない。現在の脳で再生不可能)※
・言語記憶がない(当時の言語を使用できない)
・数字の記憶(年数や数量)はないが、幾何学などの数学的な記憶はぼんやりとある
・肉体に関すること、トイレや食事などの記憶は一切ない(100%カット)

※現在の母国語ではない場合。再生するための言語ファイルが脳に無いため再生不能、という感じ。ただし地上時間で転生までの期間が短い場合など、稀に言語記憶が再生できることもあるらしい。

〔関連記事〕 質問回答。前世に関してどのくらいの記憶があるのか?

これは私の場合。
私は転生までの期間が長いせいか肉体記憶が一切なく、したがって純粋に魂(≒クラウド)の記憶を再生したのだと考えられる。

反対に、生きているうちに記憶喪失「解離性健忘症」となった方の症状は、丸山さんが語るにはこう。
・映像記憶を失う(家族の顔さえ覚えていない)
・エピソード記憶を失う(このため自分が何者かも分からない)
・言語記憶は残る(言語は扱えるが具体的な記憶がないため自分の名も分からない)
・計算の技術、数学的知識は失う
・生存に必要な肉体記憶は残っている(食事、トイレは普通にできる)
・感情記憶を失う

――この完璧な反転に驚いた。

これは、魂の記憶と肉体の記憶はきれいに二つに分かれている、ということを意味していないか?

つまり記憶というものは、その種類によって保存場所が違うということなのでは。

※脳は記憶装置だと思われているけれども、実際は受信機に過ぎないという話がある。私も、脳はせいぜいパソコンの一時メモリ程度しか記憶保存していないのではと感じる。その他の膨大な人生記憶は全て魂が携え、クラウド上に保存しているのでは。だから魂が肉体とうまく接続されていないと、クラウドへ記憶蓄積することができず「毎朝リセット」のような状態になるのではないかと想像した。肉体は、魂と連動して初めて長期の記憶を蓄積することが可能になるのだろう。

追記 ここで言う「肉体」は地上に属する「幽体=魂と連動した準肉体」も含む。「幽体」記憶は死後世界へ行かない限り残るため、死後に地上を浮遊しているだけの霊にはまだ言語等の肉体記憶があると考えられる。


解離性健忘症について


参考までに。「解離性健忘症」とは、脳の損傷によらず、大きな精神的ショックを受けた場合に記憶が失われるもの。

症状の表れ方は様々で、たいていそのショックな出来事が起きた瞬間の記憶を失うことが多い。
丸山さんの場合は一時的に感情を失っているので、「離人症」も伴ったのかもしれない。

「離人症」は自分の肉体から離れて傍観しているような感覚に陥る症状。
前記事で紹介した小説、『プラハの春』主人公の恋人も、政府トップからショッキングな仕打ちを受けて離人症を患っていた。

この解離・離人症と併発することがあるのが多重人格。
まるで肉体をたくさんの魂が共同で使っているかのような状態で、「健忘症」も伴う。

脳の損傷とは無関係なため薬などでの治療は困難。
どうしてこのような症状が起きるのか、現代の医学ではあまり詳しく分かっていない。


やはり、魂と肉体は別である


私が想像するに、「解離」や「離人症」などは魂と肉体がうまく接続されていない状態ではないかと思う。

人は虐待など耐え難い苦しみを受けた時に、肉体から一時的に魂を切り離して傍観することがある。
私自身も過去世で酷い虐待を受けていた最中、肉体から浮かび上がって自分が虐待されている様子を傍観していた記憶を持つ。
過去世の記憶ということで、説得力がなくて申し訳ない。だけど肉体から浮かび上がって傍観していた場面はとてもリアルだった。しかもそれが現実の虐待経験者の話と一致した。

あの「浮かび上がる」感覚はたぶん肉体から魂が一時的に離れた状態だ。
そんな時、浮遊している魂がいたら代わりに空いた肉体へ入り込むこともあるだろう。
有名な多重人格者、ビリー・ミリガンは「虐待が辛かったので他の人格に変わってもらった」と話している。それを繰り返していたら24人の人格を持つことになった、と。
(ビリー・ミリガンは人格が入れ替わった時に脳波も変わったが、これは通常の人間では有り得ないことで、単に性格変貌しただけではない。彼の場合は人格が変わると描く絵なども変わり、ビリーが知ることが不可能だった外国の高度な知識や、完璧な外国語を話したこともある。これは物理に反している現象で、現代の医学的な理屈では全く考えられないことだった。いっぽう脳波も変わらず、ただの人格変貌でしかない場合の多重人格は「魂の共存」という話にはならない)

こう言うのは語弊あるかもしれないが、丸山さんは交通事故がショックで心が亡くなりかけたのかもしれない。
一瞬だけ魂が抜けた状態になり、すぐに戻ったが肉体とうまく接続されない状態がしばらく続いた。
だから過去のエピソード記憶を失ってしまったし、記憶の蓄積も長く続かなくなってしまった可能性がある。そして感情も失ってしまった、と。


感情記憶は魂が担うもの


どうやら我々が思っている以上に「魂」と「肉体」は別個の存在だ。

人の本性は魂にある。
感情や人生エピソードなど重要な記憶は全て魂に保存されている。
でも生存に関わる記憶、「食事やトイレなどの肉体に関すること」と「地域を限定した言語」は肉体だけに保存されているらしい。
この二種は生きている間は魂と連動しているが、死ぬと完全に切り離される。
だから転生後、肉体記憶はカットされているわけだ。

ということはもしかしたら、死後に肉体だけが自律して動き出すゾンビやキョンシーの話も、あながち架空のことではなかったりして。


言語に魂が乗らなければ「言葉」とは言えない


前記事で書いたことに関連して補足。

魂は死ぬと地上の言語記憶を失うのだが、これは「言葉」を失うということではない。
感情を伴った「言葉」の記憶は永久に失われない。
つまり地上言語そのものは扱うことができなくなるのだが、「何を言ったか」「言われたか」という内容は意味だけではっきりと記憶している。

「言葉」とは単なる言語の羅列ではない。
魂・感情が乗って初めて「言葉」と呼べるものになる。

魂を失った言語は、いくら上手に扱えたとしてもそれはもう「言葉」とは呼べない。あたかも魂を失った肉体が「ゾンビ」「キョンシー」となるようなもの。

空虚な言語を使うだけのキョンシーになりたくなければ、魂を乗せた「言葉」を失わないことだ。
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