最近見た虹と、「天意」の話

 


今月の大雨の最中、東京近郊だけ一瞬晴れたことがあった。
ちょうど仕事終わりの夕方で、西の雲間から光が差しており、「虹が出たらいいなあ」と思い空を見ながら家路についた。
東側の空が開けた場所に出た際、虹のたもと(下側の一部)だけ表れていることに気付いた。

「ああ、もっと全体に半円となった虹が見たい」
そう願って立ち止まり空を見上げていると、見る見る虹がはっきりとしてきて、目の前に架かる巨大な七色橋となった。

※アイキャッチはイメージ画像

この時の率直な感想。
「マジか」。笑

偶然なのかなと思い、虹が消えてきた頃に試しにもう一度願ってみた。
「もう一度、虹が見たい」
するとまた虹が濃くはっきりとなっていき、頭上で丸くつながった。
感動で全身鳥肌が立った。
……どうやらマジで神様に願いが通じているらしい……。


それからしばらく経ったある日。
相方が風邪をひいているのに外出したいと我がままを言うので、冗談で
「神様。このおバカさんが外出したいと我がままを言って聞きません。どうか雨を降らせてください」
と言ったら30分後に雨が降ってきた。
相方は「お前のせいで雨が降った!」と本気でご立腹だった。
(天気予報では翌日の夜から雨のはずだった。早まったのはお前のせいだ、と怒られた)
何か最近こんなふうに天が自分の願ったことを実現してくれることが多い気がする。
これは私が天気を念力で左右しているという勘違いの自慢話ではないので(笑)、念のため。
しかしこういう出来事で「天意」を感じなかったら、さすがにバカかもしれないと最近は思うになった。
あの虹事件や雨事件はたぶん、
「お前を見捨てていないよ。まだ見ているよ」
という高次霊からのメッセージなのではないかと受け取っておく。


以上、プライベート談でした。


先日のレスでも少し「天意」が話題となりました。
色々なことがごちゃ混ぜとなっており、「天意」が何であるのかよく分かっていない方が多いようです。
天気を動かすような「天意」とは、地上に近い位置にいる高次霊たちの仕業。
地上の我々はただ「神様」と呼んでいますが、神にも色々な段階があり、我々に影響を与えるのは地上を卒業した後の先輩たち「高次霊」です。「究極の神」の使い、西洋的に言えば「天使」ということになるでしょう。
彼ら高次霊たちは「天使」として表れる場合は善意の存在であり、その地に生きる人類にとって善いと思う側に味方します。
その際、
「君たちを応援しているよ」
という証拠に虹を見せることもありますし、逆にそちら側に有利であれば雨を降らせることもあります。(もちろん、風を吹かせることもあるでしょう)

人間感覚では、ただ見た目の晴れがましさから
「晴れていれば吉」
とだけ考えるのですが、高次霊たちはそこまで単純なメッセージばかり送るわけではありません。

人間が「天、神」と呼ぶところの高次霊たちは、人間の感覚に近いので、時に名映画監督のような演出・支援をほどこします。
究極の存在である真の意味の「神」はこのような人助けをしません。ごちゃ混ぜにしてはいけません。
そもそも究極の神が、人類の一民族の戦争など手助けするわけがないのです。
たとえばジャンヌ・ダルクのもとに表れた天使は、フランスに属する高次霊です。
他に昔から聖書で描かれた「神々」も同じく民族に属する高次霊と思われます。
より本当の「神」に近い存在は地上の善悪がなく、地上から見れば残酷で、悪魔(悪魔は存在しないが、人類にとって害ある行いをする者のこと)さえ召喚して地上をかき乱すことがあると思われます。
ただ言えることは、善良な高次霊たちはその時代・地域において最も正当と思われる集団に味方するということです。
決して人間の言う「正義」とイコールではないので注意してください。



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死後を信じる人は今を大切にしない!? 否、それでも人生は一度きりである

 



本の紹介。『死後を生きる』


松村潔『死後を生きる』(『エーテル』の前著)を読み始めました。

この本は、死に恐怖を感じているという知人のために書かれたそうです。

冒頭は松村氏らしい優しさと誠実さに溢れる文で、素晴らしい。
特に、「死後がないと思う人は絶望に支配されている?」・「自殺する人は死後の世界がないと思っている?」という項目で書かれた次の文章には、私も全く同感でした。
 わたしは、死後の世界があると思う場合と、死後の世界は存在しないと思う場合とでは、人生の過ごし方が、大きく違ってしまうと思っている。
 死後は存在しないと考えている人たちには強い否定性が潜んでいると感じることが多いのだ。常に何か暴力のようなものを隠し持っているようにも見える。…(略)…
 私がここで否定性に支配されているというのは、根底的なところで、人間は死んだら何も残らないと考える人々のことである。
 どんなものも終わる、決して何ものも続かない。何をしても最終的には何も残らない。「こんにちの世界観は絶望の上に打ち建てられる」(バートランド・ラッセル)
 バートランド・ラッセルらしいが、死後の世界がないと思うことは、根本的に絶望に支配されることを意味する。最後はすべてを失う。子孫に託すといっても、子孫は自分ではない。ある時期が来ると、どんなに努力して手に入れたものも失われる。そうした考えに至ると、何事にもじっくり本気で取り組む気にはなれないのではないか。
 たとえば、会社をやめてしまうと、会社にいる間に関わっていたプロジェクトがどうなろうとどうでもよくなる。…(略)…
 だが、もしわたしたちの生命がなんらかの形で死後も継続し、何ら変わることがなく、自殺することで帳消しになるものなど何もないとしたら、どうだろうか。  

以上、
『死後を生きる』松村潔著(アールズ出版)より引用



※この本はヘミシンクという商品を推奨しているため注意を要します。冷静な判断が可能な成人の方だけ読むことをお薦めします。

自殺する人は死後の世界がないと思っている


以下は昔書いたことの繰り返しになりますが。

「自殺する人は死後の世界がないと思っている」
という話は、現実に松村氏の仰る通りです。
何故なら私は16歳~17歳の頃、自殺ばかり考える日々を送っていたからです。その当時の私は死後の世界や、魂の輪廻転生など一切信じていませんでした

死後を信じない人が暴力を隠し持っているという松村氏の主張も、おそらく事実です。犯罪者たちは17歳当時の私と同じように「死ねば無」と考えて刹那的になり、欲望に打ち勝てず犯罪に及ぶのだろうと推測されます。
もちろん死後を信じない全ての人が犯罪をするわけではありません。犯罪したいという欲望を持ち+死後は無だと考え+神も存在しないと考える人が「どうせ死んだら消えるだけだから欲のまま生きねば損」という屁理屈で実行するという意味です。

また、心理学者や脳科学者たちの調査によれば、幽霊や生まれ変わりなど魂の存在を信じない人ほど「精神病になる確率が高い」そうです。
それだけ唯物主義は人間に絶望を与え、精神的な耐性を奪うということです。



前世も今世も、昨日も今日も同じ。二度と戻れないから大切


私へよく寄せられる批判・説教に、
「あなたは人生が何度もあると思ってるのよね? ってことは、今の人生なんて大切だと思っていないんだわ。いつでも人生棄てられると思ってるんでしょ!?」
「吉野さん、永遠なんてないんですよ! 人生は一度きり! 目を覚まして今の人生を大切にしなさい!」
というものがあります。
(何故か妙な宗教にはまっている女性からの批判が多かったので、女性言葉で再現しています)

でも上の批判は完全に誤解で、逆です。
私は今の人生をとてもとても大切に思っています。
きっと上の批判をしてきた人たちの誰よりも、遥かに今を大切に生きています。

そもそも私が自殺を思いとどまったのは、前世記憶を思い出したからでした。
その時の感情について、詳しくは痛い私小説『僕が見つけた前世』に書いているのですが、自分の現在の苦しみの原因が過去生にあったことを知り「生きていていいんだ」と悟ったのが第一の理由。

次に理性では、
「自殺しても状況は変わらない。いや、自殺したら今よりもっと酷い苦しみを背負うことになる」
という恐怖の未来を考えました。
非常に利己的ではあるけれども、「死後は無ではない」「自殺しても苦しみは消えない」という恐怖があると、自殺を思いとどまるしかないのです。
「全部チャラにしたい、無に溶けて終わらせたい」
というのが自殺志願者のたった一つの願いです。そんな人にとって、
「終わらないんだ。消えないんだ。もっと酷いことになって今が繰り返されるんだ」
という想像は最大級の恐怖なのです。

次に私が悟ったのは
今の人生は、一度しかないんだ
ということでした。
ある前世について
「あの頃に帰りたい。あの人に会いたい」
どれほど強く、強く願ったとしても、過去の人生には戻ることは出来ません。

誰でも過去の想いにかられた時はそうなると思いますが……会いたくて、帰りたくてのたうち回るほど苦しいのです。
私は前世で親しかった人々を想って泣きました、さんざん泣きました。帰ることが出来ない現実に苦しみました。
しかし過去は過去でしかなく、建物や人も今は全て幻となって消え去ってしまっています。これが厳しく残酷な現実なのです。

また、たとえ魂が個性を保ったまま生まれ変わるのだとしても、完全に同じ人生は二度とありません。
前世の友人に再会しても、魂レベルでは再会した喜びに浸っているのですが、二度と同じ状況では会えない。
つまり同じ人生は、――いや今世でも同じ日・同じ時は二度と訪れない。
今この一瞬を生きられるのは、今の自分だけ。
そんな当たり前の事実を激しい痛みを伴って思い知らされました。

(時間は永遠に存在し、過去も未来も同じく存在します。しかし時間軸を移動する我々の魂は、今この瞬間にしか存在することが出来ないのです)

そのため逆説的に思われるでしょうが、私は今この瞬間・今この人生がどれほど大切か、ということを思い知ることになりました。



今を大切に思っていない人ほど、死後世界を否定する


もし死後世界を信じる人に対して
「あなたは今の人生を大切にしていないでしょ!」
などと言う人がいるとしたら、その人はおそらく今日の一日を大切に思っていない人です。
昨日と同じように見える今日について、その人自身が「どうでもいい取るに足らない一日。くだらないから棄てていい」と考えている証拠なのです。

その人たちは、貧乏だったり平凡だったりする人生を
「ぱっとしない人生」
などと言ってけなすでしょう。
中国系の風水などをやる人や、ビジネスセミナーを主催する人によくいるタイプですが、「成功、成功、成功」とばかり繰り返す。
価値基準が貧し過ぎるからです。有名になったり金持ちにならなければ成功ではないし、無意味な人生と思う。そんな「ぱっとしない」人生は棄ててしまっていいとさえ言う。
しかしどんなに貧乏でも退屈に思える人生でも、かけがえのない人生です。
無名だからこそ味わえる穏やかな人生もあります。苦悩も病すらも大切な経験です。それを目標として選んで生まれて来る人生もあります。

大切ではない人生、大切ではない日など一日たりともないし、大切ではない時間も一瞬たりともありません。

そんなことすら知らずに生きている人は、死後について「在る無し」を論じたり宗教を騙ったりする資格は全くないと思います。


前世は決して、
「甘いファンタジー」ではないし「痛い妄想」などではありません。
どんな人にとっても必ず厳しい現実です。

まず「過去に戻れない」というこの明白な現実を突きつけられるだけでも辛い。
そのうえ、失敗したり殺されたり殺したりのネガティブな経験ばかり思い出すことになります。
(前世記憶は失敗した過去のトラウマがなければ思い出さないからです)

「貴族だった頃のアタシを思い出した~い♪」などと言って前世療法カウンセラーの元へ通い続ける夢見がちな人たちの願いなど、本物の前世記憶は徹底的に踏みにじることでしょう。

甘い妄想など今すぐ捨てるべきです。
全ては「因果応報」です。
貴族様のお花畑に遊ぶのが前世ではなく、お婆さんが夜中に語った恐怖の物語こそが真実です。


いつだか江原啓之氏がやっていた番組を見ていた小学生が、
「今の人生が嫌だから来世で頑張りたい。来世で会おう、バイバイ」
と書き遺し自殺したことがありました。
これは輪廻転生という「悪い思想」が招いた惨事だと偏った報道が行われました。

でも、もし輪廻転生を信じる人の全てが「来世があるから自殺しちゃえ♪」などと思うとしたら、昔の日本人は全員自殺していることになります。

昔の日本人はほぼ全員が輪廻転生を信じていたでしょう。
しかしそれと同時に、幼い頃から因果応報の思想を叩き込まれていました。
自殺したら来世ではもっと苦しむ、悪いことをしたら来世で同じ目に遭う。
輪廻転生思想を子供に話す際はまず先にその恐怖から教えたわけです。
日本に唯物思想が入り込み、輪廻転生思想の根幹(因果応報)が途絶えたからこその惨事だったと思います。

「来世があるから、今の人生を大切にしなくていいんだ」
などと大人が考えれば、子供は「来世があるから今の人生はリセットしていい」と思ってしまいます。
輪廻転生思想を全否定し、あるいは甘い夢として考え、「因果応報」を教えない文化こそ最も危険です。

 

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蝶は高次霊が操る「使い」という話

 


お約束していた蝶の話です。

大群の蝶に迎えられた体験


それは、ある古い神社へ行った時です。
その神社には裏手に御祓いしなければ入ることの出来ない神聖な場所があるのですが、私は家族とともに初めてそこへ足を踏み入れました。

一歩入った時から周りに蝶が飛び始め、「妙に蝶が多い場所だなあ」と感じたのです。
奥へ入るにつれて、さらに蝶の数が増していきました。
黄系のアゲハ蝶から、白や黄の小さな蝶、青や黒の巨大な蝶まで……都会暮らしの私が見たこともないような貴重な蝶がどこからともなく湧いて出て来て、私たちの周りをついて来ました。少々、怖気づくほどの大群の蝶たちでした。

いつもの通り現実主義の私は、
「さすがに神聖な場所として自然が守られているだけあるなぁ。もしかしたら自然保護のために、この神社の方針として蝶を放って飼っているのかもしれないな」
などと考えていました。

季節は夏の盛り。ちょうど八月でした。
この時期になると蝶が成虫となり湧いてくるのだと思いました。
当然、同じ季節に行けばまた蝶たちと会えるはずです。この場所で生息している種であるはずなのだから。

それで先月、私は蝶を見るために再びその神社へ行ったのです。
ところが、あいにく急に雨が降り出しました。
青い蝶が一匹だけ飛んでいるのを見ましたが、他の蝶たちの姿はありませんでした。

雨だから蝶も飛べないのだろう、仕方ないな……。
そう考え諦めて、茶屋に入って雨宿りすることにしました。

他に客はなく、茶屋の店員さんが暇そうにしていたので私は尋ねました。
「ここには蝶がたくさん棲んでいますよね。この時期の名物なんでしょう? 今日は雨だから蝶が見られなくて残念ですが、今月はたくさん飛んでいたんですか」

ところが店員さんはポカンと口を開けて、
「蝶……ですか? はあ……? そうですね、たまに見かけることもありますけど、そんなにたくさんではありませんよ。どうしてですか」
と曖昧なお返事。

その瞬間初めて、薄々感じていたことが確信に変わりました。
あの大群の蝶たちは毎年ここで飛んでいるわけではない。
私たちが初めて訪れたことを歓迎するために、わざわざ出現してくれたのだ……と。

実は伊勢神宮へ初めて行った時も、蝶ではないが同様に歓迎してくださる意思を示されたことがあり、
「日本の神社には本当に神様(高次霊)がいるんだ」
と知って驚いたものです。
その時と同じ感覚でした。

おこがましいと思って、あの蝶たちは何も神秘とは関係がない「ただの虫だ」と思おうとしたのですが、やはりという想いで鳥肌が立ちました。

蝶は高次霊の使い?


その時から
「もしかしたら蝶は高次霊の使いなのか?(高次霊が操りやすい虫なのか)」
と漠然と考えていたのですが、再び確信を強めたのが先日の「白い羽」+「アゲハ蝶」の出現。
驚くよりも「ああ、やっぱり」と納得した次第です。

知識として「蝶は高次霊の使い」であるという話を裏付けてくれたのは、結局ネット検索でしたが。笑
ありがたきネット。
スピリチュアルな裏付け知識まで教えてくれる。


ところで高次霊が蝶をメッセージとして使うことがあるのは、きっと蝶という虫が霊的に扱いやすいのと、人が恐れることがないから選ばれるのではないでしょうか?
(追記しておくと、西洋人は蝶を吉兆とは見ないので西洋人に対しては蝶で表すことはないかもしれない。蝶を先祖霊と考え吉兆と見るのは日本人など東洋人。その土地、時代に合ったイメージシンボルが使われます)

おそらく蜘蛛やムカデ、ゴキブリなど人間が「害」と思っている虫は恐怖を与えるだけだから使わないのだろうな。
また、メッセージを送る相手の人間にもよりますね、きっと。
極端な虫嫌いの人は、あれだけ大群の蝶に囲まれたら「キャー!」と叫んで逃げ出しているかもしれない(笑)。私はかろうじて蝶が大丈夫だったから良かったです。

おそらく本人が好ましく思っている虫や動物を使うのでしょうね。

猫好きな人は猫が、犬好きな人は犬がメッセージを運んでくれるかもしれません。


※こう考えていたのですが、世界共通のメタファーとなっているものであれば、本人が抱いているイメージとは関係なくメッセージが来ることはあるようです。
 参考 ☆烏の羽のスピリチュアルメッセージ(2018/6/5)

引用 蝶の種類とメッセージの種類


「蝶は高次霊の使い」という話について。
これは上記の経験から、直観でそう思っていただけに過ぎないのですが、ネットを探してみたらこのような話はよくあるそうです。

特にアゲハ蝶は、やはり高次霊からのメッセージらしい。
〔蝶々〕
モンシロチョウや白い小さな蝶は、親戚や友人からのメッセージ。

頑張って!そばにいるよ。良いことがあるよ。ちゃんと、あなたを見守ってるよ。
という良い虫の知らせ。

白い蝶からのメッセージ。
それはあなたがとても感謝されている、愛されているということ。

アゲハ蝶は高次元からの守護霊様、守護神様、
ご先祖様、氏神様からの一番良いメッセージが具現化したのもの。

もしアゲハ蝶が自分の周りを飛んでるとしたら、高次元の方からあなたに

「近く良い知らせが届くよ。」
「あなたに良いご褒美が待っているよ。」
「あなたを悪いものから、いつも守っているからね。」

といった、とても有難いメッセージだとか。
http://kyoumosiawasearigatou.ti-da.net/e7010861.html より引用
(上ブログ記事もどこかからの引用らしいので、再引用)
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