「人生こんなはずじゃなかった」の真相。人生計画、経過報告【自分サンプル】

前記事で書いた“逆行”の星回りを反映しているように世界が騒然としています。

テレビはもちろんSNSを眺めても疲れてしまいますね。

おそらく人一倍“防衛本能”の強い私も最近は戦闘モードです。残虐な敵に対抗するため、言葉遣いもいっそう強めにしており我ながらストレス。くれぐれも心の弱い方は別館を見ないよう願います。 

 

最近の就寝ルーティン

せめて寝る前だけは心が落ち着くものに触れたい。

そう思い、最近は漢詩・唐詩の朗読(AI歌唱ではなく本意気のやつです笑)をYouTubeで聴くのが就寝ルーティンとなっています。

先日ここでも紹介した「杜甫のブルース」動画を観て以来、若い頃に触れた詩を久しぶりに味わいたくなって探したのです。

 

おススメはこちら。元某放送局アナウンサーによる朗読で、明瞭です。読み下しから現代日本語訳への構成も良いし、BGMも雰囲気あって良い。


他に原音に近い日本語音読、中国の方による現代中国語での朗読動画なども上げられています。

音読と現代中国語の比較も興味深かったのですが、やはり私は和語の読み下しが最も美しいと感じています。詩文のリズムが非常に美しく、水の流れのようで惚れ惚れします。

韻にこだわった杜甫には申し訳ないのですが、和語読み下しの美しさはラップに優ると思います。

 

“老臣”に複雑な想いの現代人。46歳で老いを詠った杜甫 

お爺ちゃんみたいな話題ですみません。

 

いや確かにもう“年配”の域に突入してはいるのですが、漢詩唐詩を好む世代ではないのですよ。

同世代で漢詩唐詩を読んでいる人など少ないはずです。きっと同世代はいまだに新曲を追いかけラップを聴いていることでしょう。

 

 杜甫『蜀相』の“老臣”という言葉に「うーん 53歳で“老臣”かあ……」と複雑な想いで苦笑していました。もうすぐその年齢に追いつく現在の私。笑 

前にも書いた通り昔より心が弱くなったなとは感じますが、身体的には“老い”を感じるには程遠いと言えます。 まだどこも痛くないし辛くない。

周りを見渡しても同世代は子供のような話しぶり・若い服装のおじさんおばさん(失礼)ばかりですね。私も外見的には同様のはず。 

 

時代によって“老”の定義に違いがあり、現代の五十代は若者気取りですが昔なら“ご隠居さん”で引退しても良い年。

しかし三国時代でさえ五十代前半が最晩年になるとは想定外だったと言えます。

よく孔明がアニメやドラマで死ぬ直前に完全な白髪、八十歳以上の見た目で描かれたりしますが何故なの? と不思議に思っていました。たとえば『パリピ孔明』冒頭の描写など、あれは現実的では無いですね。白髪は多いほうでも半分程度でしょう。

もしかしたらフィクションでは劉備たちと同世代という設定で、プラス二十歳で描かれているのか? などと考えていたのですが、杜甫の「老臣」という表現がイメージに影響しているのではと気付きました。

 

そんな杜甫自身は46歳時の『春望』にて“老い”を嘆いています。 

46歳であのような侘び寂びの極みを詠むとは驚愕…… (諸葛亮でさえその年齢の時はまだ元気でした)。現代人の我々は驚くしかありませんが、それほどまでに杜甫の心労は激しかったのだろうと感じて胸が痛みます。

 

〔余談〕李白と杜甫どっちが好み?

余談の唐詩談義です。

 

漢詩・唐詩が好きな人たちの間ではよく「李白と杜甫、どっちが好み?」とか「自分の性格はどちらに近いと思う?」 などという質問が交わされています。

(私が二十歳くらいの時に年配の人から聞いた話なので、今もこのやり取りがあるのかは知りませんが) 

 

同じ時代を生き、仲の良い友人同士でもあった李白と杜甫。

しかしキャラクターも詩の作風も対照的と言えるため、このような談義が楽しまれているわけです。

 

どのように“対照的” かと言うと――

杜甫は真面目でコミュ障気味のどちらかと言えば陰キャ。普通に会話をするのが苦手で、詩でしかコミュニケーションが取れなかったという逸話を持つ。詩の作風も厳格にルールを守る正統派、内容はウェットで哀愁がある。

李白は自由奔放で放蕩。陽キャで無邪気、その性格に多くの人が魅了された。詩の作風も天衣無縫(こだわりなく)、唐詩のルールを守って詩が硬直することを嫌い自由に詠んだとか。唐詩へ新しい感覚を吹き込んだとされる。

 

どちらも酒飲みで天才であったことには変わりありませんけどね。

 

私は子供の頃から真面目なほうだと他人によく言われ、さらに自分では陰キャだと思っていたので杜甫寄りのタイプだと思っていました。コミュ障気味で「詩でしか人と会話できない」というエピソードも分かるなあ、と共感したり。


そのせいか、若い頃は杜甫の詩へ共鳴していました。 

哀愁のある杜甫の表現を憧れ仰ぎ見ていたものです。

 

しかし…… 今、杜甫を読み返すと「辛い」と感じることに驚きました。

年齢が近いせいかその辛さを現実感覚で理解できるようになったのかもしれません。虚しさ、哀しみ、絶望感が胸に迫って思わず「うう」と呻き声を上げたくなるほど辛く感じます。

温かい緑に覆われた蜀の山々、本来ならば美しいはずのあの風景さえも杜甫が失ったもの(人生の夢・我が子)の大きさ故に緑の牢獄に見えてくる。切ない。

 

代わりに若い頃は軽いと感じて興味が持てなかった李白の詩に今さら打たれています。

月の光を霜に見立てる『静夜思』の感性には改めて衝撃を覚えました。また夕陽に友への想いを映す『送友人』も涙が出ます。

溢れる感情を直接的に語るのではなく、写実的に描写した風景に映して表現する手法に共鳴、痺れています。 

 

杜甫は今も偉大な詩人として尊敬していますが、意外と私は李白のほうが好みだったかも。

自分自身の性格についても勘違いがあったかもしれないと思います。つまり自分は陰キャだから杜甫に共鳴するのだと思い込んでいたが、むしろ本来は「固定観念に縛られない」李白のほうに近いタイプだったかもしれない、と。(決して陽キャではありませんがね。そして酒豪で放蕩にもなれない。笑)

 

年を重ねると受け取り方が変わる、感性が変わると言われていますが、実際には若い頃に気付けなかった本来の自分を自覚できるようになるからかもしれません。

 

以上、唐詩雑談終わり。 

 

 

有名無力、無名無力? 鏡のような願い

ところで今回、杜甫を読み返していて思い出したことがあります。

それは若い頃の自分が 

「杜甫の人生が理想だ」

と思っていたことです。 

 

いえ正確に言えば杜甫の人生そのもの、ではなくて

生涯無名で過ごし・四季折々に創作などをし・死後に作品が残る」 

という人生が理想的だなあと考えていたということです。

当然ながら我が子を飢え死にさせるような貧困や、家族に会えなくなる不運などは経験したくないと思っていました。

言ってみれば都合の良い、“優雅な無名の文人”といったファンタジー的な人生を夢見ていたわけです。 

 

まあ創作を訓練したことがない素人なので「死後に作品が残る」、は無理だろうと分かってはいましたが。 

今となっては笑ってしまうくらい叶わぬ夢です。自由に夢を抱ける若い頃限定の夢想ですね。

 

ただ現実感覚を伴って願ったのは「無名一般人としての人生」です。

目立つような人生は避けたい。無名のままひっそりと幸福に生きたい。身近な人の助けになれたなら最高に幸せだ。

それこそ宮沢賢治の『雨ニモマケズ』に近いですかね。“ホメラレモセズ・クニモサレズ・サウイフモノニワタシハナリタイ”と強く願ってしまった。

生まれてきた意味が必要なら、せめて何かの作品くらいは残して死ねばいい。いずれ未来の誰かに届くだろうと希望を抱きながら。

 

信じがたい軟弱な願望だと怒られるかもしれません。

若い頃の私に「自分の能力を最大限に活かして国家のお役に立とう」などという気はゼロでした。 

社会の一員としての義務から逃げていたとも言えます。なんとも情けないことです。

しかし、おそらくこれは前世の晩年に抱いた願いのトレースです。

 

“有名”の無力さを思い知った前世でした。

自由に言葉を発することができない立場で、誤解されても反論の声すら上げられないことに虚しさを覚え。しかし私にはどうすることもできず評価を受け入れるしかありませんでした。

氷の牢獄に閉じ込められたように身動きできない人生、声が届かない。

「行い」で語ることはできたとは言えます。

だが本当はもっと自分の言葉で語りたかった、もっと若者へ子供たちへ伝えたいことがあった。これが実は最大の後悔だったと思います。そのためにはまず自由な「無名」の立場を得ることが必要に思えました。

 

今の人生で杜甫を知って彼の生きた結果(無名のまま生きたが、詩という形で声が多くの人へ届いた)を羨ましく思ったのは、そんな前世の願望を思い出したからでしょう。

 

いっぽう杜甫は国家の中枢で有為に、つまり社会の役に立って生きたかった人です。

そのために幼い頃から学問に励んだのに科挙(役人になるための試験)を受けて落ち、何度挑戦しても仕官が叶わず、四十代でようやく低い地位を得たが戦乱に巻き込まれて囚われてしまいました。

その後復帰しますが上司とうまくいかず?地位を放り出して流浪することになりました。

そうして貧困と失意のなかで亡くなったといいます。


高位を得て有為に生きたいとの杜甫の悲願は報われず、“有名な蜀相”の墓の前で自分の人生を想い、比較して嘆息するとは……。 

先日知ったことですが、杜甫は諸葛亮を大変尊敬していたそうです。

と言うことは、杜甫の理想の人生は諸葛亮のような人生だったのか。そう悟って衝撃を受けました。 

 

無名な人は有名に憧れ、有名な人は無名に憧れる。 

まるで鏡を見つめてあちら側へ行きたいと願うように、対照の立場を理想としてしまう。 

 

どうして人はいつも無いものねだりをしてしまうのでしょうか? 

 

この皮肉さにしばし頭を抱えました。 


 

「人生こんなはずじゃなかった」と思うのは、かつての願いを忘れているから

こんなことを生きていた当時の杜甫に言えば怒られるでしょうが、きっと生涯「無名の詩人」として悠々自適に暮らすことは彼自身が生まれる前に願った人生のはずです。

もし彼が人生計画と反対の願いを持たなければ、仕官などにこだわることさえなければ、もっと自分の人生に満足できたはずなのに。

たとえば畑仕事などして、家族と過ごす温かい生活を噛みしめながら詩を詠む日々を送る。それはとてつもなく素晴らしい理想の人生です。誰もが羨みます。私も羨ましいと思ってしまう……。

 

このように分かったふうに述べるのは、上から目線と怒られるでしょうか?

かつて“有名”だった記憶があるから言えるのだと。優位な立場から偉そうに語るなと。 

 

杜甫には今の私の人生を見て欲しいです。

 

今、私は見事に前世の願いが叶い「無名人」として過ごしています。

よく自分の出生ホロスコープを評して「封印されている」などと言っていますが、封印したのは自分自身だと思い出してきました。

今の私は地位もなく富豪でもありません。

大企業で正社員として雇われたこともありませんから、世間の人からは「社会人」とすら呼んでもらえません。

(一応は固定の仕事を持っていますが半自営業です。本来、自営業者でも農家でも「社会人」のはずなのに世間では除け者。日本における社会人の定義は狭過ぎる笑) 

まさに誉められもせず・苦にもされず、願った通りの者になったのです。皆さんには存在してもしなくてもいい人間だと思われていますねきっと。

しかし私のプライベートは大変充実しており、ぶっちゃけ幸福です。

平和のなかで生きることができた。自由に発言することができた。生まれてから一日も欠かさず食事ができ、睡眠の時間も自分でコントロールできた。大きな病気はしたことがなく(たまに原因不明の自家中毒で苦しんだ他は)ほとんど苦痛もなく恐怖もなかった。さらに伴侶を得て、二人ぼっちながら温かい日々を送ることができた。

長い、長い幸福な時間でした。

私は今の人生に満足しています。恵みの人生をありがとう、と天へ心から感謝する毎日です。 

 

でも私が満足し感謝できるのはこれが自分自身のリクエストした人生だと分かっているから。

もし前世の記憶が無かったなら、私も自分の運命を呪っていたかもしれません。

きっと人生計画とは反対の夢「大企業で社員となり出世して有意義に生きること」にこだわって、何歳になっても彷徨いそう。そして報われないことに絶望を覚え、失意のなかで人生を終えていたのではと思います。

 

人は夏の間は冬へ憧れ、冬の間は夏へ憧れるもの。

皆が自分自身で願った人生を忘れて反対の夢を抱きがちです。 

 

反対方向の夢へ「こだわって」しまえば非常に苦しみます。

何故ならその夢は決して実現しないからです。生まれる前の人生計画、自分自身の決意とは異なるためです。

自分自身で願ったことだからこそ強力。 

何度も書きますが“神から押し付けられた運命”など存在しません。

本当は幸せになるために抱いた願い。新たな人生の恵みが「実現しない願いへのこだわり」のために苦しみとなってしまいます。 


だから、今の人生で考えた後付けの夢にこだわらなくていいんですよ。 

特に他人から押し付けられた人生の定義に従う必要はありません。

 

 

願いを立てるチャンスは、前の人生の最後の瞬間

最後に補足の解説。

この記事だけ読む人のためにこれまで書いてきた話をまとめておきます。

 

私は今の世に溢れるスピリチュアルビジネス、「引き寄せの法則」を否定する者です。

それが誤りであることは輪廻転生の記憶を持てば分かることだからです。占星術にも反しています。

人生の計画を根本から捻じ曲げよう・地上の欲望を全て叶えて貪ろうという考えは、いわゆる悪魔崇拝から発した思想。

自分たちに都合良く歴史さえも書き換えて良いのだという、我がままでご都合主義の考えは犯罪にもつながります。

もちろん現実には歴史を書き換えることなどできませんし、他人から幸福を奪って貪り尽くすこともできません。実力行使で犯罪を実行すれば多大なカルマの負債を負うことになります。そのような欲望の後押しをする思想は人々を不幸へ突き落す悪魔の詐欺ツールです。

 

ただし「願いが全く実現しない」とは言っていません。「運命は神様が作るものだから絶対的に従え」などとも言っていません。 

 

現に自分で願いを立てる機会があります。 

それが生まれる前。

正確に言えば前世の最期、地上を去る瞬間なのではないかと思います。 

その時の願いが次回の人生計画にも反映され(あくまでもカルマの計算が合う範囲で)、 強固な「運命」として実現するのだと言えます。

――ちなみにその瞬間が量子力学で言うところの「波動関数の収縮」ですね。シュレ猫さんの生存が決まる瞬間ですよ。

 

しかし新たな人生をスタートすると自分がかつて願ったことを忘れてしまうようです。※

人は忘れっぽいものです。そして都合がいい。時々に願いを変えてしまい、叶わないからと理不尽に神を恨んでしまう。 


神を恨む必要はないのだと思い出してください。

困難も乗り越えるために設定した計画です。敵と戦う必要がある人生も自分で選びました。

運命を恨むことなく立ち向かい(時には回避し)、乗り越え、幸福は受け取ってください。

“幸せの青い鳥”を見過ごさないことです。

今の人生には必ず満足できるところがあるはずです。自分で選んだのですから。

 

 

※時々生まれる前の願いを忘れていない人がいて、そういう人はロケットスタートで幼い頃から人生計画をまっしぐらに進み“夢”を叶えます。そんな人たちの占星術ホロスコープを開くと、その夢を叶えることが始めからの人生計画だったのだと読み取ることができます。運命とは絶対に従わなければならないものではありませんが、自分で願った人生計画の通りに生きたほうが幸福となれるし満足感を得られることは言うまでもありません。

 

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