【返信】前世の主人との信頼は本物だと言える理由。感情だけは真実です(事実を識る方法)


物凄く久しぶりに旧作の『我傍に立つ:架空史版』について、初見のご感想とご質問をいただきました。

Hさん拙著のご購入とご質問ありがとうございます。


【質問】前世人生の記憶で残っているイベントは?

いただいたご質問を引用させていただきます。


Q.(この小説の人生)の記憶のなかで断片的に残っている主要な記憶の欠片やイベントってどのようなものがありますか?


はい、現実名称での説明は後ほど要パスのほう※で書きますね。


※要パスのほうとは:過去記事を保存している別ブログのことです。かなり長期間ログインしていないので入れるかどうか…苦笑 頑張ってみます。

(ログインできなかったらまた他の方法を考えます)


その前に公開で話せることをここに書いていきます。


過去に何度か書いてきた話と重なりますので昔からの読者様は飽き飽きしているでしょう。でも執筆から年月が経ち記憶の理解が進んで考えが変わった部分もあります。今だからこそ言える話、改めて残しておくことにします。


前世記憶はどんなもの? はっきり現実だったと言えるのは感情

私が実際に覚えている記憶イメージは小説の後書きで記した通りです。


断片的なイメージに関しては現実かどうか分からず(史書で裏を取れたもの以外)時系列が誤っていたり、現代の私の経験が混ざった正確ではないイメージも多くあることご了解ください。


前にも書いた通り前世記憶は幼少期の思い出に似ています。

幼少期の記憶では断片的な場面だけ覚えているが背景事情が分からないことが多いですね。このため当時のことをよく知る大人に説明してもらわなければ、実際に何があったか分からないことがほとんどです。

前世記憶も同じ。“当時をよく知る大人からの説明”の代わりが記録だったり、史書だということになります。

実際に何があったのかは史書と自分の記憶を照らし合わせたうえで解釈します。


しかし旧作を書いた当時は私自身に知識がなく、今の悪い時代に育ったため思想に歪みもあって大きく誤った解釈をしてしまいました。この点とても後悔し反省しています。


今でもはっきりと現実である・間違っていなかったと確信をもって言えるのは、人との関係。人への感情のみです。


たとえば主人との信頼、親愛関係

仲間たちへの感謝と思慕

国家国民への強烈な愛、命を棄てても惜しくないと思ったこと。等々


このような前世記憶での感情は非常にリアルで確定的、どれほどの自虐史観を持つ人でも決して否定できないものです。

北極星のように動かないものと言えばいいか。

感情はその人生記憶の核たるもので、今の自分の心さえも動かすことによって“現在ここに在る気持ち”となります。


おそらく魂は名前も言語も持たずにあの世へ行きますので、死後世界を経た転生では感情しか持ち越せないのでしょう。

(これが死を経ないタイムリープと転生の違いですね。時々前世の名を覚えている人はいますが、ほとんどが短い期間での転生でしょう。前世の言語を正確に扱える場合は他人の魂に憑依されているのではと思います)

はっきりとした記憶がないのに、前世の辛い経験で受けた感情の傷だけ騒ぐからPTSDを発症する人さえいます。

前世を思い出す人はこの「感情だけ騒ぐPTSD状態」を脱するために背景の事情をほんの少し垣間見る、見せられるのだと考えられます。


【関連記事】感情は魂に属し、霊界にも来世にも持ち越される。「感情」と「肉体本能」は異なるもの


当初私は前世などというものを全く信じていませんでしたから「この感情を味わうことだけで充分。空想でも構わない」と思っていました。

しかし私の場合は感情についても史書での裏付けができてしまったために確信せざるを得ませんでした。※

私自身のなかの感情は確かに在る、その否定できないものが現実の史書に残っていて裏付けされたので実在も否定できなくなった……という流れです。


自分自身の前世記憶かどうかにはずっと懐疑的ですし、数々の裏付けを黙殺して未だに「自分の前世なんかではない。他人からメッセージを託されただけだ~」などと逃げを口にしてしまいがち。

ですがここに在る感情だけは否定不可能です。


※史書での裏付けができて驚愕とは:

(この項目は長文となります)

私は自分の強烈な感情とイメージが先にあったので、裏付ける文を記録のなかに発見したとき実在を確信できました。

「~の鑑」と記憶通りの評価を目にしただけでも驚愕だったのに、まさか相手の心情を裏付ける手紙まで記録されているとは思わなかったから心臓が止まるかと思うほど驚いたのを覚えています。


【関連記事(要パス)】王の手紙


記憶×記録が揃うと二重鍵が一致するも同然ですから実在を否定できません。

それで私は迷いなく信頼関係は本物だったと公言できているのですが、おそらく皆さんは史書だけ読んでも感情を確信するのは難しいでしょう。

誰でも他人の気持ちを正しく知ることは難しい。だから史書の記録だけから、「その人物が誰に対してどう思っていたか」などという内心を知ることは難しいと思います。

疑い深い人はどこまでも疑ってかかるし、歪んだ政治的目的から屁理屈を捏造して反対の解釈を押し付けることもできてしまいます。今左翼が実行しているように。


某県知事のように生きている人に対してでさえマスコミを使って捏造話を流して無実の罪をでっち上げる。まして物言えぬ死者の人生など好き放題に歴史改変できると思っている。実際その偽りを鵜呑みにするウマシカが山ほどいる…。地上では歴史捏造などいくらでも可能なのだということを今見せつけられていますね。


悪い目的を持つ人々が歴史を破壊し文化を破壊し、絆を破壊することによって今あなた方を支配しようとしています。

だから歴史に向き合う人はもっと賢くなって欲しいと願います。

私が提示した“親愛あったことの裏付け”記録について、

「たったそれっぽっちの記録しかないんですか?」

とがっかりされるのも無理はないことです。

(いや実はあれ史書としては結構多いほうなんですけどね。恥ずかしくなるくらいに笑)


冷静に考えてみてください。当人たちの感情を裏付ける行動として史書に僅かな記録が残っているだけでも希少なこと。

その希少な記録は事実を裏付けるに充分過ぎます。

普通は書かないことを一行でも記録書に残したということは、当時よほど世間に知れ渡っていた事実だったことを裏付けています。歴史書の何気ないように見える一行こそ当時の人々の大絶叫に等しいのです。

逆にその希少な一行があることによって捏造史が全て否定されます。

だからこそ歴史捏造家たちは「Wikipediaで史書の引用は禁止ーッ!」と騒ぐのですよ。多くの歴史ファンが実際には史書を読まず、マンガとネット情報だけを信奉していると知っているために。


これを分かりやすく現代の事件で例えると、某知事を引きずり下ろしたい人たちが「パソコン情報の公開禁止ーッ! ネット言論を削除せよーッ!」と騒いでいるのと同じですね。

彼らが断固として削除しようとしているのはその情報が真実だからだと分かるでしょ? 

真実一つで嘘を破ることができてしまうからこそ、彼らは延々と言論弾圧し続けなければならないわけです。地獄の人生ですねぇ。憐れ。


もし当時を生きた歴史家の書き込みすら信用できない、「それってコイツの感想でしょ」とあくまでも言うならお手上げです。

史書まで否定し始めたら信じたいものだけ信じる宗教信者となるだけ。永久に嘘の地獄に閉じこもると自ら決めたのだろうから好きにしなさいと言いたいです。


ただ歴史家の感想に頼らず本当に真実を知りたいのであれば、その人物の行動を見ると良いでしょう。

行動は嘘をつきません。

たとえば主人への心からの敬慕がなくてどうして忠誠が尽くせますか?

国民への心からの愛がなくてどうして命を捧げられますか?

主人のほうも家臣を信頼していないならどうして我が子を託せたのですか?

言っていることよりやっていることを見ろ!」と大人たちがよく言うのはこういうことです。


行動を見ても真実を認識できないのはウマシカとカルトだけ。つまり正常な人間としての判断能力が欠如した者だけ。


なお現実には行動だけで本心を読むのも難しい場合はあります。

私は嘘をつくのが苦手なのでわりと言っていることと行いが同じほうですが笑、人によっては気持ちに反した行動に出る場合もあるでしょう。

好きであっても恋人と別れるとか。

家族を拉致され脅迫されて犯罪に及ぶ人もいますね。

でもそれはその時のやむを得ない事情がそうさせているだけでしょう。

だから行動から相手の本心を読む場合は「事情込み」で見る必要があると思います。

そうせざるを得ない避けられない(ここ大事)事情もないのに選んだ行動には本心の全てが表れています。

そんな純然たる行動に表れた真実すら歪めて改ざんしようとするのが例の悪魔思想です。人類に敵対するカルトだと言われる所以です。

行動に表れた純な本心までも否定するなら永久孤独=蟲毒の地獄に住み続けるしかないですね。


具体的な出来事について記憶していること

ではここからは具体的な話をしていきます。

後半、現実の名称を用いた話は要パスです。


見ている人が分かりやすいようにメール文を引用させていただきながら返答します。Hさん不都合あればご連絡ください。


青文字は筆者による補足。

前半の設定でネタバレ少々あるかもしれません。

Hさん:

色々あって我傍、買うことにしました。今読み進めています。(**まで読み進めました。*の人質になって**の前で所謂大論陣(?)をしたところまで、です。)まだ完全に読み進めていませんが、事情を知って(?)いるからか実際の記憶と戦記が混じっているというのを感じるな、というのが初見の感想です。なんか文に対する熱量が全然違うっていうか…笑

特に**没後の**人十万との大移動のシーンの先帝(隆恒)の背中を描いたシーンは記憶として凄い感情に響いてくる反面、逆に大論陣のところは完全に嘘、とは思いません(人質扱いされたとことか)が、***(主人公の兄)との会話が鮮明に描写され過ぎてる所や、*への発破は別として所謂**(古典フィクション)の「大論陣」の流れに一致しすぎてるところが、細かいシーンの描写の肉付けは史書・**(古典フィクション)ベースなのかなって感じます。あくまで推測ですけどね。

吉野さんも記憶と記憶の間の時系列的な隙間を埋めるのに史書とか**(古典フィクション)とか色々読み込んだんだろうな、って感じます。

 

私の返答:

(返信したメール文をそのまま転載しようと思っていましたがここで公開するには余談が多すぎたので、改めて書き直します)


まずは拙著のご購入ありがとうございます。恐縮です。

上でも書きましたが、旧作『我傍』は歴史モノとして読むと誤りの解釈が多いのでご注意ください。

旧作はあくまでも“架空史”としてお読みいただければ幸いです。



>なんか文に対する熱量が全然違うっていうか…笑


そうですね、熱量は今とは圧倒で違います。

あの頃はただこの感情を書き残しておかなければという一心で書きなぐっていました。24時間以上寝食も忘れてぶっ通しで書いて倒れたのも良い思い出。


知識もほとんどなく、文章の研鑽をすることもないまま暴走執筆していましたので今読み直すと本当に酷いもので赤面します。

誤りの設定も多々あり、今の私から見れば「黒歴史」となってしまいました。

(だから実名版で修正せねばと考えたわけです)

それでも全集中で執筆するという経験ができたのは良かったと思っています。



>吉野さんも記憶と記憶の間の時系列的な隙間を埋めるのに史書とか**(古典フィクション)とか色々読み込んだんだろうな、って感じます。


いいえ、ごめんなさい。

史書は参考にしていますがフィクションは一切見ていません。古典はもちろん現代の作家のフィクションも。

あの当時の私は古典フィクションを知らなかったので、古典フィクション知識ほぼゼロで描いています。解説書で引用されている古典フィクション設定の知識が少しあったくらいです。

いまだにあの古典フィクション系の創作は一つも読破できていないし、ゲームもドラマも無理でした…。酷いですよね。



>**没後の**人十万との大移動のシーンの先帝(隆恒)の背中を描いたシーンは記憶として凄い感情に響いてくる


あれは幼い頃から記憶していた映像です。

ずっと謎の記憶であったし、本当にこの人生の記憶なのか定かではありませんが、当時の状況と符合すると感じたので描きました。



>逆に大論陣のところは完全に嘘、とは思いません(人質扱いされたとことか)が

>「大論陣」の流れに一致しすぎてるところ


フィクションで「大論陣」があるのですよね? (それは解説書で知っていました)

『我傍』で書いた論戦シーン…と言うより「進言」のシーンは史書を参考に描いたものです。内心描写の肉付けは当時の私の考え。

だから古典フィクションにおける大論陣の流れに私の小説が「一致し過ぎている」のだとすれば、それは古典フィクションの作者さんも史書を参考に描いたからだと思います。笑

同じ素材を元にしているから一致して当然。一致している作品は史実に誠実と言えるでしょう。


でも古典フィクションでは確か同盟相手のお偉いさんたち(学者たち?)を上から目線で論破していく設定でしたよね。

私はそういった論破のための論破を苦手とするのでフィクションの設定に共感できないんですよ。ひろゆき論破王じゃあるまいし。笑

これから同盟を結ぼうとする相手国の人々にそういう失礼な態度はあり得ませんね。敵ならまだしも。

まあエンタメ・フィクションですからキャラの才能を高く見せるための演出だったのだと理解しますが、現実の外交や営業では禁忌と思います。真似しちゃダメです。

史実のほうはただ自分の主人を正当に売り込みお互いの利益を提示して見せているだけ、論破したわけではありません。


(あ。今気付いたけど現代で某国の「戦狼外交」はあのフィクションを模倣しているつもりかもしれませんね。愚かだなあ…)


(主人公の兄)との会話が鮮明に描写され過ぎてる所


あれは現世、つまり今の私と兄との再会場面を投影して描きました。

(私には幼いころ生き別れとなった兄がいて、成人後に十五年ぶりに再会しています)

創作にそのような私的シーンを挿入する行為には批判もあるでしょうが、「この小説は確かに今ここにいる私が書いた」という証明として人生の痕跡を残したかったのです。

今となっては無意味だったかなと思っています。ただ兄弟再会シーンとしてはリアルかもしれないので実名版でも再現しようと考えています。前作は少々幼稚な表現だったから、もう少し大人っぽく描きたいですが。笑


――この他は現実の名称を用いないとお話しするのが難しいので要パスで書きます。

続きはこちら

⇒(小説人生の)記憶のなかで残っているシーンは? 1



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